襲撃

 長安を発した胡母班こぼはんは、一路、河内郡かだいぐんをめざした。


 河内郡は、董卓とうたくが陣を置く洛陽から北に百二十里、反董卓連合軍の最前線となっている。胡母班がまず会おうとしたのが、この地の太守をつとめる王匡おうきょうである。


「やはり、最初に接触するのならば、我が友であり、貴殿の義兄にあたる王匡殿であろう。彼ならば、袁紹えんしょう殿の命令に従って貴殿を殺す心配はない」


 出立前、そう助言したのは蔡邕さいようだった。胡母班も、王匡をこの世で最も信用できる人物だと考えていた。


 王匡は、胡母班の妻の兄で、同じ泰山郡たいざんぐんの出身である。彼もまた任侠にんきょうの徒で、若いころから人々に施しを行い、自分は貧寒ひんかんたる生活を送っていても、平気そうに笑っているような好漢だった。高名な名士たちも、その人柄をよみし、王匡と付き合いを持った。胡母班が蔡邕と親しくなったのも、もとは王匡の紹介によってである。


 王匡は、大将軍何進かしんによって招聘しょうへいされ、徐州じょしゅう強弩きょうどを調達する任にあたった。当時、何進は袁紹と共に宦官かんがんの排除を企て、地方の諸侯を洛陽に呼び寄せようとしていた。王匡が武器の調達を命じられたのも、その計画の準備のためだった。


 しかし、強弩五百を都に送ったところで、主君の何進が宦官の手にかかって横死した、という報が王匡のもとに届いた。


 ――俺を拾ってくれた恩人が死んだのに、今の地位にとどまっても仕方あるまい。


 思い切りのいい王匡は、さっさと官職をて、故郷の泰山郡に戻った。


 だが、王匡ほどの義人を平民にしておくべきではないという意見が朝廷内であがり、時を置かずして河内太守に任命されたのである。


 そして、彼はいま、河内の太守として反董卓連合軍に参加している。まとまりの悪い連合軍の中で、今のところ積極的に戦っているのは、曹操そうそうと王匡だけと聞く。


 王匡は義の心を知る勇者だ。偽善者の袁紹などよりもずっと信頼できる。彼こそ帝のそば近くで仕えるべき人物だった。


(とはいえ、義兄は董卓軍に大敗を喫し、壊滅的な損害を被ったばかりだと聞く。血の気が多く、前線で戦いたがる人だから、重傷を負っていないか心配だ)


 胡母班はそんな憂慮を抱きながら、愛馬を疾走させた。


 供は連れておらず、旅人の扮装ふんそうをしている。朝廷の使者としての威厳を保つために華美な衣装をまとい、大勢の従者を連れて賑々にぎにぎしく行けば、袁紹に早々に気づかれる恐れがあるからである。せめて、自分が確実に説得できる自信のある王匡と接触するまでは、和平の使者が派遣されたことを察知されたくなかった。そう考えていたのだが――。






「これは……どういうことだ? 何故なにゆえ、義兄の城に袁家の軍旗がひるがえっておるのだ……」


 河内郡の治所ちしょである懐県かいけんに入り、隰城しつじょうにたどり着いたところで、胡母班は愕然がくぜんとした。城に掲げられている旗に「袁」と大書されていたからである。いくら目を凝らしても、「王」と書かれた軍旗がひとつも見当たらない。


 袁紹の軍旗か。それとも、黄河の南にいるはずの弟の袁術えんじゅつが派遣した軍勢の旗か。いずれにしても、王匡はこの城にはいないと見ていい。


「さては袁紹か袁術が、大半の兵を失った義兄を城から追い出し、領地をかすめ取ったか。いくら味方同士であっても、有り得ぬ話ではない。袁術傘下の孫堅そんけんという武将は、反董卓連合軍に加わろうとしていた荊州けいしゅう刺史しし王叡おうえいを攻め滅ぼしたという噂だからな……」


 そんな臆測を呟いていると、角楼かくろうで見張りをしていた兵士が胡母班を指差し、騒ぎ始めた。


 しまった、と思っている間もなく、二、三十の矢が一斉に放たれる。そのうちの一矢いっしが、胡母班の右足めがけ、真っ直ぐ飛んで来た。しかし、目に見えぬ壁にはばまれたかのように、その矢は弾き飛んで、胡母班から離れた地面に突き刺さった。


「見ろ! くつが矢をはね返したぞ! あれこそは執金吾しつきんごの胡母班が黄河の神から授かったという青絹の履に違いない! 者共ものども、獲物が現れたぞ! であえ、であえ! 董卓の犬を逃がすな!」


 城にはそうとう視力のいい武将がいるらしい。猛虎もその一喝で尻尾を巻いて逃げ出すような凄まじい銅鑼声どらごえが蒼天に響いた。


(なんたることだ。董卓が我らを派遣したことが、こんなにも早く察知されているとは。……いや、それよりも、袁家の武将がなぜ俺の履のことを知っているのだ)


 胡母班は動揺したが、経験豊富な武人だけのことはあって、いつまでも呆然とその場にとどまるような愚は犯さなかった。心中困惑しつつも、素早く馬首をめぐらして、遁走とんそうを開始した。


 冥府帰りの胡母班の噂は、同郷人だけでなく、彼と近しい一部の人間も知っている。しかし、彼が所持する青絹の履の霊妙なる力のことまで知っているのは、ごく限られた身内だけである。なぜ、袁軍の武将に漏れたのか。


(正体を気取られぬため、せっかく粗末な旅人の姿に身をやつしたのに、こんな目立つ履をはいてきたのが失敗であったか。水辺で追いつめられた際、この履は大いに役に立つのだが……)


 振り返り振り返りしつつ、胡母班は必死に逃げた。


 城門から吐き出された袁軍の騎兵隊は、砂塵を巻き上げ、猛追してきている。


 兵を率いているのは、先ほどわめいていた視力のいい武人らしい。天地揺るがす銅鑼声で「逃げるなッ。返せ返せッ」と吠え、まるで悪鬼の形相である。


 このままでは追いつかれると思った胡母班は、剣帯にぶら下げていた竹筒を取り出し、大量の鉄蒺藜てつしつれい――鉄製の撒菱まきびしをばらまいた。


 鉄蒺藜を踏むことを警戒した騎兵たちの動きが鈍くなる。そのわずかな瞬間を逃さず、胡母班は愛馬を全速力で走らせ、いっきに引き離した。


「チッ! 姑息こそくなことを! 待て……待たぬか!」


 銅鑼声の武将の胡母班を罵る声が、どんどん遠ざかっていく。


 まだだ。まだ気を抜くな。あの執念深さでは、油断したらすぐに追いつかれる。胡母班は己をそう叱咤して、全力の疾駆をゆるめなかった。






 胡母班の馬がとうとう泡を吹いてたおれたのは、追跡を何とかまき、黄河北岸の温県おんけんまでたどり着いた時のことである。


「くそっ。こんなところでつまずくとは。義兄は無事なのか?」


 可哀想だが、死んだ馬を弔っているどころではない。もたもたしていれば、追手に見つかる恐れがある。愛馬の死骸をその場に置き去りにすると、胡母班は孝敬里こうけいりという土地を目指して走りだした。


 温県の孝敬里には、名士司馬防しばぼうの家があるはずである。司馬防本人は、胡母班たちと共に都にとどまっているが、家族は故郷に避難させていると聞いた。


 今はとにかく、司馬一族にかくまってもらい、王匡の所在を確かめるしかない――胡母班はそう考えていた。

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