■芦原瑞穂の話 家族

 彼女は黄色い花柄のエプロンをつけて、右手には菜箸を持っている。きっと夕飯の支度をしていたのだろう。

 私の頭の中から音を立てて、先程までの高揚した気分が引いていく。

 

 ――わざわざ出てきてくれなくてもよかったのに。

 

 この人は料理の手を止めてまで、帰宅した娘を出迎えるのが優しい母親の仕草だと信じているのだろう。そんなことをされればされるほど、私は彼女に気を使ってしまうのに。

  

「どうしたの? 顔が赤いけど」

「別に、なんでもないよ」

「そう」


 なるべく心配させないような笑顔をつくりながら首を横に振る。「そう」と短く答え、相変わらずの微笑みを貼り付けたお母さんは、キッチンへと戻りながら言った。


「そうそう、お父さん、今日は遅くなるって」

「……そっか」


 じゃあ夕飯は二人なのか、気まずいな。

 

 この人はそうではないのだろうか。夫の連れ子である私と二人きりの食卓だなんて。しかも、実のところその連れ子は、夫とも大して血が繋がっていないのに。

 

 玄関に一番近いところにある自分の部屋に入って鞄を置くと、私はキッチンに聞こえないように気をつけながら静かに息を吐き出した。

 

 

 私は小学生に上がる少し前、今のお父さん――実際は伯父さんなのだが――に引き取られた。本当の父親は実の母親にもわからなかったみたいだ。

 

 実の母親の記憶はあまりない。けれど、話を聞く限りはまあまあなクズだったらしい。

 

 高校生のときに妊娠し、周囲の反対を押し切って私を産んだ割にはあっさりと育児を放棄した。その後は付き合っていた男に勧められた違法薬物に手を出して、その過剰摂取で死んだらしい。

 その男が薬物の売買で逮捕され、芋づる式に捜査の手が伸びた狭いボロアパートで、変わり果てた姿で発見されたという。

 

 そしてそのとき、部屋の押し入れの中でうずくまっていた死にかけの子ども、それが私だ。


 当時二十代前半という若さで、かつ独身だった実の母親の兄は、そんな私を引き取って「お父さん」になってくれた。

 当時は存命だった祖母も同居していたとはいえ、遊びたいさかりにこんな厄介者を引き取ってくれたお父さんには、感謝しかない。

 実際、お父さんとおばあちゃんは私のことを何不自由なく育て上げてくれた。


 そして、私が高校生の頃におばあちゃんが亡くなり、その後しばらくしてやってきたのが「お母さん」である、陽子さんだった。


 若い頃から仕事と私の世話に追われ、ろくに女の人に縁がなかったお父さんがようやく掴んだ幸せなのだ。私は素直に祝福したし、嬉しかった。

  

 でもそれと、私が彼女に馴染むことができるかは、別の話だ。

 

 決して悪い人ではない。けれど、彼女の望む距離感は、微妙に私の望むそれとは違うのだ。

 

 もう高校生だから、お母さんというよりも名前で「陽子さん」と呼ぶことを提案したときも、「そんな寂しいこと言わないで」と目に涙をためながら悲しい顔をされた。

 

 就職を機に家を出ようとした時も、お父さんと揃って必死で引き止められた。ある程度貯金が貯まるまで、という期限付きで私が折れて、その結果、こうして気まずい親子ごっこが続いている。


 やっぱり私は、早くこの家を出たい。だから、会社を辞めてしまうわけにはいかない。


 私はスマホのトークアプリを起動させ、宮下くんへお礼のメッセージとスタンプを送る。できるだけ能天気に見える、ゆるいキャラクターのものをチョイスした。

 

 送信してすぐ既読がついて、間髪いれずによくわからないスタンプが返ってきた。ふふ、と笑って、同時にどうしようもない寂しさが襲ってきた。

 

 彼には当然、私の家族の話なんてしていない。


 あの発言が私への好意という意味だったとしても、私の実の母親は言い訳できないくらいのクズで、私自身は優しくしてくれる新しい母親とろくに関係も築けない駄目人間なのだ。

 順風満帆な彼の人生に相応しくなさすぎて、いっそ笑えてきてしまう。

 

 もう一度、特に意味のないスタンプを送ってみてからスマホを充電器に繋いだ。

 

 それでも、ちょっとくらいは浮かれてもいいよね。ほんのちょっと、魔法が解けるまでの間だけは。

 

 ――それが、私が生きている宮下くんと会った、最後の日の話だ。

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