第12話 夏休み開幕
「じゃあテスト返却すんぞー! 安曇!」
「はい……!」
七日間の猛勉強、地獄の期末テストを終え、終業式がやってきた。
夏休みまで残された試練はあとテスト返却のみ。
私は担任から渡された成績表を怯えながら目を瞑って受け取る。
まだ、結果は見ない。
成績表を伏せたまま、私は自分の席に戻る。
周りのクラスメイトたちが狂喜乱舞していたり絶望に打ちひしがれている中、私は席で息を整える。
「次は…………佐野橋!」
「はーい!」
悠加が成績表を受け取って、私の方へ小走りで来る。
「じゃ、せーので開こ!」
「分かった……」
「せーの!」
私たちは同時に伏せた成績表を開く。
数秒の沈黙。
成績表に視線を落とす。
科目ごとに私の点数と平均点が並べられている。
私は一科目ずつ、それを比べる。
国語……よし。数学……過去一かも! 英語……ギリギリ!
ドキドキしながら私は視線をゆっくり右へ動かして行く。
社会……よし。理科は…………。
「ああぁぁぁああぁ…………!」
情けない呻き声を出し、私は机に突っ伏す。
「あちゃ〜……物理がダメだったかぁ……」
悠加も一緒に嘆く。
「他の科目は今までに無いくらい良かっただけに、すごい悔しい……」
「その悔しさが君を強くするんだよ……七……」
悠加が、呻く私の背中を優しく叩く。
「でも七、頑張ったね……! 数学、元々あんなにできなかったのに数日でここまで仕上げちゃうなんて。
七要領良いよ!」
そういう風に後頭部を撫でられながら慰められると、この一週間頑張って良かったなぁと心から思う。
二学期も同じように頑張れるかと聞かれたら何も言えないが。
「お前ら早く席戻れ〜!」
クラスメイトたちが騒ぎながら点数を見せあっていたため、担任が釘を刺す。
「おっと……私ももう戻るね!」
悠加が自分の席に戻ってしまう。
それと同時に私の後頭部を撫でていた柔らかい手も離れて行ってしまう。
私は重たい身体をゆっくり起こし、頬杖をついて担任の方に視線を向けた。
「明日から夏休みだな。宿題は計画的にやれよ〜」
期末の勉強をあんなに頑張ったのに、何故まだ勉強なんてしなくてはならないのか。
今は疲れている。暫くの間は頭を使いたくないし、今年は最終日付近に一気にやってやろう。
「あと連絡事項が……各部活、もしくは同好会の代表者は、ホームルームが終わり次第すぐに講堂に集合。必ず各部活から一人出席する事!」
ボーッと聞いていたが、もしや悠加がこれに該当するのではないか。
せっかく試験期間が終わったから、心置きなく悠加と帰宅できると思っていたのに!
私の頬杖をついていた腕から力が抜けていき、私は机に突っ伏した。
顔だけを起こし悠加の方を見る。
悠加は「ごめんね!」とでも言いたげな顔で両手を合わせてこちらを見ている。可愛い。
「連絡事項は以上です。じゃ、ホームルーム終わり。気を付けて帰るように!」
「起立!」
号令係が少し食い気味に言う。
クラスのみんなが凄い速度で立ち上がる。
そうか、みんな夏休みが待ち遠しいのだ。
「気を付け! 礼!」
凄い速度でみんな教室から飛び出していく中、私は悠加の席へと向かった。
「七ぁ……ごめんね、一緒に帰れなくなっちゃった……」
「私全然終わるまで待ってるよ。だから一緒に帰ろ?」
「多分相当長くなるよ? 最悪、二時間くらい待つことになるかも……」
私は苦しんだ。
悠加と帰りたい。でも二時間待つのは辛い。
二時間待っている間にできる事が、勉強くらいしかない。
私のスマホはだいぶ長い事使っているせいで、二時間も使ったら充電が切れてしまう。
別に悠加と帰るためなら二時間勉強するくらいどうということは無い。
しかし、一緒に帰るためだけに二時間待つという行為は悠加の目にはどう映るだろう。
私は恋心を悟られるばかりか、重い女だと思われてしまうのではないか。
もし立場が逆だったとして、悠加が二時間私の事を待ってくれたらどうだろう?
確かに、嬉しい。
嬉しいけど、それは私が悠加の事が大好きだからなのではないか。
なら、親友の西村で考えてみよう。
私に二時間用事があって、西村は私と帰るために二時間待っていてくれた。
嬉しいより先に怖いが来る。
いくら仲が良くても、流石に二時間も特段他の理由も無く待たれるのは怖い。
「……そっか。分かった……今日は一人で帰るね。ごめん!」
「ううん。こっちこそ集会あるのに把握してなくてごめんね。ばいばい七。また明日」
私は長考の末、一人で帰るという選択に至った。
やたら沢山の荷物を背負った学生で溢れかえる通学路。
夏休みが始まったんだなぁ、という感じがする。
蝉は一層騒がしく鳴いている。
普段は悠加との会話に夢中で気付いていなかったが、いつの間にかこんなに蝉が五月蝿く鳴く時期になっていたようだ。
悠加と出会う前の通学路は、空虚だった。
今はそれに加えて寂しさが私の中に居やがる。
私はもう悠加が居ないと苦しい程になってしまった。
「もし、悠加が私を拒絶したら」
そんな考えが、瞬間、脳裏をよぎった。
悠加が私の事を見放し、突然私の前から居なくなってしまったら。
悠加と出会う前に戻るだけ。でも、悠加に出会う前よりずっと苦しい。
悠加への気持ちが私を構成する大切な要素の一つになりつつあるんだと気付いた。
悠加への気持ちは、演劇を辞めて空いた心の穴を埋めてくれたばかりか、私に今まで無かった幸せを植え付けてくれた。
それだけに、もし消えてしまったら取り返しのつかない程に私の心は穴だらけになってしまう。
考えるのをやめよう。
もしもの話だとしても、それがあまりに苦しかった。
それより、もっとポジティブな事を考えよう。
一人でこんな長い道を歩きながら、何も考えないなんて事も私にはできないから。
「もし、悠加と付き合えたら」
そういう妄想をしよう。その方がよっぽど幸せだ。
まず、毎日のように当たり前にハグができる。
悠加のあの柔らかい手の触れる感触を、悠加のあの細い腰を、悠加のあの甘い匂いを、幾らでも堪能できる。
そして、キスなんかもできてしまう。
私はその光景を、拙い想像力で必死になって思い浮かべる。
照れたような顔の悠加、ゆっくり近付いてくる悠加の綺麗な顔、目を閉じる私、重ね合った手、唇の柔らかい感触――
マズい、これ以上妄想していると通学路で一人で顔を真っ赤にする変態になってしまう。
私はどうにか心を落ち着けた。
「ただいまー」
「あ、おかえり、七」
家に着く。
学校を出てからここに来るまで、意外とすぐに時間が経った気がする。
しかし、歩いている最中は流れる時の遅さに絶望していた記憶もある。
私は中学受験の時を思い出す。
受験前、毎日勉強勉強で辛かった記憶はあるし、時の流れが遅い事に絶望していた記憶もある。
でも、いざ受験が終わると、勉強していた期間がとても短かったかのように思えてきてしまった。
今の感覚はそれと似ている。
「七、アイスあるけど食う?」
私が洗面所で手を洗っていると、私より少し早く夏休みに入った姉、安曇六華がリビングから顔を出し、そう尋ねる。
姉は私より二つ上で、私とは違う学校に通っている。
「あー……食べる」
リビングに戻った私は姉にポッキンアイス――地域によっては他の呼び方もあるらしいが、我が家ではそう読んでいる――を渡された。
もちろん、姉が渡してきたのは割るのに失敗して食べにくくなってしまった方である。
「てかお姉ちゃんさ、ちょっと相談いい?」
食べにくいアイスを頑張って舐めながら聞いてみる。
「なになに、珍しいじゃん? 恋愛関係?」
「ぐっ……なぜ分かる……」
姉には彼女が居るらしい。
実物を見た事は無いが、話だけならたまに姉から聞く。
名前は秋庭鈴々香というらしい。
姉は人格が破綻している人間の屑だが、恋愛においては私よりも先輩なのである。
なので少し癪ではあるが恋愛相談でもしてやろうかと思い立ったが、既に間違いだったような気がしてきている。
「でももう結構進んでんでしょ? 好きな人の家泊まったってくらいだし……」
「ちょ、それは誤解! 私が泊まったのは好きな人の家じゃないから!」
姉は、ふぅん、と雑な返事をした。
枯月さんの家に泊まらせて頂いた時の事を、姉は未だに色々と疑っている。
「てか、実際進展あるの? どうなの?」
「まあ、無いことは……無いと思う」
姉がわざとらしくため息を吐く。
「もっとさぁ、好きになったならガンガン攻めないとじゃない? 好意見せないとさぁ……」
姉に説教をされるのはなんとなく癪だ。
お前だってまだ初めてできた彼女のくせに。
「んで、どこまで行ったの。挨拶はできた?」
「馬鹿にすんなぁ……。まあ実際そんな進んで無いんだけどさ…………あっ、でも手は繋いだしハグもした」
姉が愕然とする。
「えっ、もうそれ恋人同士だろ。はよ告れよ」
「お姉ちゃんに私の恋の何が分かるんだよ!」
私の葛藤も知らないで、姉が好き勝手言うので、私は少し腹が立った。
「てか、お姉ちゃんはどうやって彼女作ったの。お姉ちゃんみたいな人が作れる気しないんだけど……」
「失礼な事言うねぇ、七。まあ、私自身もなんで鈴々香が私の事こんなに好きなのかは正直分かってないんだけどさ」
「何、どういうこと? どんな経緯で付き合うとこまで行ったの」
あまにもこの姉が彼女を作れるようなイメージが無かったので、私はその経緯についてかなり興味があった。
「元からそこそこ仲は良かったんだけど、ある日突然鈴々香から学校の屋上呼び出されて、行ったら告られた。んで付き合った」
「省きすぎでしょ! なんかもっと、好きになられるまでの経緯とかないの?」
「それがほんとに無いんだ……ただ仲良かっただけ。友達にしては確かに距離近かったし、私にかなり良くしてくれてたから、結構前から私の事好きだったんだろうけど……きっかけが全く思い浮かばん」
姉が嘘をついているとは到底思えなかった。
本当に、知らない間に好きになられていたんだ、
悠加からしたら、私の恋心もそういう風に見えるのだろうか……。
「私から言えるのは、誰が誰の事好きかなんて全く分からないって事くらい」
「ふぅん……」
悠加も、もしかしたら、私の事が好きだったりするのかもしれない。
だとしたらいいのに。だとしたらいいのに。
「あれ? そういえば相手から告られたって言ってたけど、お姉ちゃんはその人の事好きだったの?」
「いい質問。友達としてならめちゃくちゃ好きだったってのが解答かな。あいつめっちゃ可愛いけど、そもそも恋愛対象って認識無かったし。告られたのがきっかけでそういう目で見るようになって……一日保留にした後にOKしちゃった」
やっぱり、恋愛対象として見られる事、それが今の私の一番の課題かもしれない。
「うーん……恋愛対象として見られるにはどうしたらいいんだろう。私、完全に友達としてしか見られてないような感じするし……」
「やっぱ生半可なアタックじゃ友達としてしか見て貰えんよ。友達じゃしないような事しないと……ハグくらいじゃ別に距離近い友達ってくらいだし」
私は悠加と抱き合ったあの時を思い出す。
ちょっと距離近い友達があんな行為に至る事が許されるのか?
あんな事したら友達だとしてもドキドキしてきてしまう気がするのだが……。
「例えば、どういう事すればいいの」
「ん〜? わっかんないなぁ……友達じゃしない事ねぇ……。突然キスしたり、うなじの匂い嗅いだり、無言で太腿触ったり……」
「馬鹿にしてるでしょお姉ちゃん!」
自分の恋が成就してるからって好き勝手言いやがって。
無性に腹が立ってきた。
「でもお姉ちゃん、相談乗ってくれてありがと」
「いやいや、私も惚気話できて気分良いよ」
惚気話のつもりだったのか。
通りでやけにノリが良いと思った。腹立つ。
「そうだ。最後に、もう一個質問。……キスの味って、どんな? ほんとに味とかするの?」
ふと思い立ち、聞いてみた。
「唇合わせるだけだと、確かに味はしない。でも……なんだろう、味はしないはずなのに、旨味みたいな感覚があるというか……」
「味しないにしても、旨味を感じるにしても、ロマンチックでは無さそうだね……」
キスの味を旨味と形容するような一般論を聞いた事が全く無かったので、少し困惑した。
「でも、キスするだけで気分は良くなるよ。ほら、違法薬物だって味とかしないけどトぶじゃん? ああいうイメージで良いと思う」
「キスを薬物に例えるの最悪だね……まあ参考になった、ありがとう」
夢の無い事ばかり言われたような気もするけど、見方を変えれば現実的とも言える。
ネットに転がっている理想主義的な恋愛論なんかよりよっぽど参考になったかもしれない。
部屋に戻り、私は着替えもせずに制服のままベッドに倒れ込み、また悠加の事を考える。
この前撮ったプリを財布から取り出し、眺める。
相変わらず可愛い顔をしている。
キス……どんな感覚なんだろうか。
単に唇と唇が触れ合うだけなのに、世間の人々はどうしてあそこまでキスを神格化しているんだろう。
そして私も、どうしてここまで唇同士が触れ合うだけの行為を欲しているのだろう。
お姉ちゃんが言っていたように、本当に薬物でも吸ったみたいに気分が良くなるんだろうか。
色々考えを巡らせるが、正解になんて辿り着けるはずも無い。
だってキスなんてした事もないんだから。
突然、悠加からキスしてくれたりしないだろうか。
そしたら、私はただ幸せに身を任せるだけでいい……いやいや、そんな受け身で居ては、いつまで経っても悠加を惚れさせられない。
今は、悠加を惚れさせるために攻めなければならない時だ。
私は決心し、悠加の写真に向かって宣言する。
「絶対、悠加の事惚れさせる……!」
やっていて自分で馬鹿馬鹿しくなってきたが、このくらいの心意気であっても良いだろう。
絶対、悠加に私の事を好きにならせてやる。
絶対、私の方からキスができるくらいになってやる。
そんな気持ちを抱いて写真を眺めていると、それに口付けしたい衝動に駆られた。
「いやいや、そんな事をしたら人として終わりだ」
一瞬、口元に写真を近付けるも、やめる。
流石に、人として情けなさすぎる。
しかし、ここで躊躇う方が却って情けないのではないかという思いが私の中で生まれた。
写真にすらキスできないで、本人にできるわけが無いだろう。
私が悠加の写真にキスをする事を正当化したかっただけなのかもしれないが、その考えが私を奮い立たせた。
私は口元に写真を寄せる。
ゆっくりと深呼吸して、目を閉じる。
少しずつ顔を近づけ……
「ねぇ七ぁ。今日の夕め……」
バタンと、ドアが勢いよく開けられる音がした。
私は振り返った。
姉だ。姉に見られた! 写真にキスしてるところを姉に見られた!
「あー……お取り込み中失礼」
ドアが凄い勢いで閉められる。私は突然冷静になってしまった。
「馬鹿すぎる、私」
それから一週間くらい、私は姉と目を合わせる気になれなかった。
姉があの時の事に一切触れなかったのが、却って私の羞恥心を刺激した。
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