第5話 揺らぐ想い
目が覚めてすぐ、私、安曇七が考えたのは佐野橋の事だった。
なんなら、それよりも前。夢の中でさえ考えていたのは佐野橋の事だったし、昨日は佐野橋の事を考えていてあまり眠れなかった。
少し優しくされた程度でここまで舞い上がってしまう自分が少し情けない。
しかし、少し思い返してみると、「ちょっと優しくされた」という程度でも無いような気がしてきた。
普段から話すような仲でもないのに、私が暗い顔しているのを気にかけてくれた。
他にも沢山友達が居るはずなのにここ数日私と下校してくれている。
私のため(?)に帰宅同好会を作ってくれる事にもなった。
私、佐野橋からだいぶ優しくされていないだろうか?
今までに無いくらい大事にして頂いているのでは無いだろうか?
流石にここまで優しくされたら少しは舞い上がっても仕方がない。
そう自分を納得させる。
ここでふと、一つの疑問が浮かんだ。
何故佐野橋はここまで私に優しくしてくれるのだろう?
私は佐野橋に騙されているのではないか。
私とある程度仲良くなってから金でも騙し取る気なのだとしたら辻褄が合う気がする。
私のような人は狙いやすそうだし。
しかし、そのためだけに部活まで作るとは考えにくい。
だとしたら、佐野橋は私に何かしらの復讐をしようとしているのではないか。
佐野橋に悪いことをした記憶は無い。というか関わった記憶も無いが、佐野橋が演劇部の誰かと親友で私の事を恨んでいたりしたら......。
だが、それも少々考えすぎだ。
結局、佐野橋が私に良くしてくれる原因は分からないままになってしまった。
「お前、最近やけに元気だな。父さん嬉しい」
朝の身支度を済ませ、朝食。
私の正面に座っていた父が突然そう言ってきた。
そうかなぁ、なんて適当に相槌を返したとき、
「好きな人でも出来たん?」
左隣に座っていた姉が私の顔を覗き込んで冗談のように聞いてきた。
つい口元に運びかけていた豆腐を落としてしまった。
幸い机の上だったので大事は免れたが。
それより、「好きな人」である。
言われてみれば、その人ただ一人の事をずっと考えているのは恋と大差無いのではなかろうか。
いやいやいやいやいや、そんな筈はない。
私が佐野橋に恋?
確かに佐野橋は可愛い。しかも私に優しくしてくれる。だが残念ながら私はレズでは無い(はず)し、佐野橋もきっと恋愛的な意図で私に接触している訳ではない。
心を落ち着かせる。
何より、こんな数日の付き合いで人の事を好きになる訳が無いだろう。
しかも、私の佐野橋への感情は恋愛的な好意ではない。
ただ自分を気にかけてくれた人への感謝から来る好意だ。
私が佐野橋に恋なんておこがましい。
「え......図星? 冗談の......つもりだったんだけど」
何も答えなかったせいで姉が驚いたように聞いてきた。
まずい、勘違いされた。
父、絶句。
味噌汁丸ごとひっくり返し、私より大惨事になっている。
「どど、どうしたの? 何かあった?」
ただならぬ空気を察知し、母が台所から飛び出してくる。
「七に好きな人居るんだって」
姉の報告を受け、母、絶句。
ひっくり返った味噌汁を誰も処理しない異常事態。
そんなに私が青春しているのが意外か!
あまりにも家族の反応が大きかったので、却って私は冷めてしまった。
「え、えぇっと……これは誤解で……」
「なら、なんでさっき否定しなかったの?」
「えっと……それは……いや、でも、別にまだ好きって訳じゃなくて……」
「『まだ』?」
姉に私は追い詰められ、何も言い返せなくなってしまった。
「えっと......私もう出るね〜」
急ぎ荷物をまとめ、玄関に向かおうとする私。
これ以上この空間に居てもめちゃくちゃ気まずいし恥ずかしい。
「ま、待って、七! どんな人?!」
「いってきます」
まだ頭の整理が出来ていない家族を置いて、私はそそくさと家を出た。
行きの電車の中でも、まだ佐野橋の事を考えていた。
無論、電車を降りた後も佐野橋の事を考えていた。
佐野橋の他に考えるような事も無いし。
この佐野橋への感情は、きっと恋じゃない。
恋なのだとしたら、あまりに利己的すぎやしないだろうか。
優しくされたから好き、というのは、本当に佐野橋への好きなのだろうか。
そもそも佐野橋への私の感情は、決して綺麗な物ではない。
佐野橋は、演劇を辞めて存在意義を見失っていた私に、居場所を与えてくれた。
それで佐野橋を好きになるのだとしたら、自分の存在意義を佐野橋に求めているに過ぎない。
それは承認欲求と大差ないものだろう。
そもそも、佐野橋に既に相手がいる可能性がある。だとしたら、好きになったところで無駄だろう。
でもその場合佐野橋が他の人にあんな事やこんな事を......いや、考えるのをやめよう。
ところで、佐野橋は今まで帰宅部だった(というか今も帰宅部だが)訳だが、私と会うまで、佐野橋は放課後何をしていたのだろう?
そんな事を考えながら校門を通り過ぎた時、突然背中を叩かれた。
「おはよぉ、七ぁ」
突然佐野橋の声。
ビクッと自分の身体が震えたのを感じた。変な声が出た。
「も〜、七、驚きすぎ」
私の気も知らず、佐野橋が目を細めて笑う。
こうやって見てみると整った顔をしている。
「え、あ、ああ、うん。おはよ」
ぎこちない笑顔で私も返す。
「七......クマあるよ。ちゃんと寝てる?」
昨日佐野橋の事ばかり考えていて眠れなかった弊害がここで出てきた。
言われてみれば、確かに眠い。
「えっと、その、確かに、あんまり寝てない、かも」
言葉が途切れ途切れに出る。
何故緊張している。私。
「え〜、良くないよ? 何してたの」
「え、えぇっと............その、考え事?」
昨日まで出来ていた事が突然できない。
佐野橋と目を合わせられない。
「あー、考え事しちゃって寝れない時、あるよね!」
「佐野橋もそういう事あるんだ」
こんな明るい佐野橋にもそういう一面があるのは意外だった。
「も〜、失礼な! 私だってセンチメンタルな気分の時もあるんだぞ〜!」
佐野橋がクスクス笑いながら私の頬を人差し指で突いてくる。
私は狼狽えた。
突然触られた事にではなく、触られた事によって動揺している自分に動揺した。
頬が紅潮しているのが分かる。
心拍数が大変なことになっている。
「じゃ、私職員室に用事あるから。またね〜」
幸い佐野橋がここで離れてくれたから、私の乱心に気付く事は無かった。
私は佐野橋に突かれた左頬に触れた。
授業中も私は少しだけ佐野橋の方を見た。
真面目そうな表情でノートを取っている佐野橋。
成績はどうだか知らないが、先生に当てられた時は毎回的を射た事を言うから、多分成績は良い方だろう。
佐野橋は体育の時間も中々だった。
帰宅部の割には運動神経が良い。
今日はバレーボールの授業で、私は隣のコートから佐野橋を見ていた。
長い髪を纏めていて、普段は見えないうなじが見え隠れしている。
綺麗な脚で飛び上がり、ボールにスマッシュを叩き込む佐野橋。
ボールは綺麗に線を描き............コートの外へ叩きつけられた。
「や〜! 惜しい!」
「ごめん外しちゃって!」
そんな会話をチームの仲間と交わす佐野橋を見ている間に、こちらの試合は負けていた。
私は何もしなくても気付かれないような存在感であった。
体育の後、着替えの時......
は流石に佐野橋を見る事はしなかった。
流石にそれをしたら人として駄目な気がする。
そのくらいの事はしっかりと理解している。
しかし、やましい気持ちでは無く、純粋な好奇心として佐野橋の方を見たい気持ちもある。
少し見たところで、別にバレる事も無いし、目に入ってしまう分には仕方がない。
一瞬はそう思ったが、それはただ下心を正当化する理由にしかならないと思い、辞めた。
そうこうしているうちに昼休みが来た。
麗坂学園にはそこそこ大きい学食がある。私は普段から弁当なのだが、佐野橋はいつも学食を使っているらしい。
一緒に食べられない事を残念には思うが、幸い私は一人で過ごすご飯の時間は嫌いじゃなかった。
今日も一人、弁当箱の蓋を開けようとした時、ふと佐野橋が目に入った。
友達と一緒に教室の外へ向かう佐野橋の姿。
これからみんなで学食に行くのだろう。
しかし、なんだこの気持ちは。なんだこの心臓に蝿が集ったような不快感は。
胸の中に霧がかかったような、心の奥底が傷つけられるようなこの感覚は。
佐野橋にとって、私は数ある友達の一人でしかないのだと痛感させられた。
そもそも、佐野橋は陽キャだ。クラスの中心だ。
そんな子が、私を気にかけてくれただけで奇跡である。
しかし、高望みしてしまう。
憂鬱な気持ちを胸に抱いていると、佐野橋が私に気付き、とびきりの快い笑顔を向け、顔の下で小さく手を振ってきた。
それだけで私はその鬱屈とした思いを振り払えてしまった。
単純な女だ、私は。
五、六時間目もすぐに終わり、お待ちかねの放課後が訪れようとしている。
ここまでの授業はとても短く感じたのに、ホームルームの先生の話はとても長く感じた。
私は、自分が思っている以上に帰宅同好会で過ごすあの時間が好きなのだなと気付いた。
まだたった数日の関わりだが、それでも、好きだった。
「じゃあ今日の活動を始めましょう!」
佐野橋が声を張り上げる。
まだ枯月さんは来ておらず、教室には私と佐野橋だけが居る。
「今日は何するの?」
「ふふふ、栞が来てから教えよう」
佐野橋がいじらしく笑う。
佐野橋のこの笑顔が私にもたらす、胸を包み込むような甘い感覚が何なのか、未だに私には分からない。
ただ、唯一の、一番の友達としての感情なのか。或いは......。
友達にしろ、好きな人にしろ、心地よいものに変わりはなかったが。
「いやぁ、それにしても暑いね〜」
そういえば、一学期も終盤に差し掛かっている。
夏休み中、この部活はどうするのだろうか。
佐野橋は、だらしなくネクタイが解けており、ワイシャツを第二ボタンまで外している。
汗でシャツが身体に張り付いていて、薄く下着が透けて見えている。
さっきまであれだけ見ないように心がけていたものだが、一度目に入ってしまうと、やはり目を逸らすことはできない。
決してやましい気持ちではない。不可抗力だ。
「......七のえっち」
「えっ、い、いや、違くて!」
動揺して椅子ごと真後ろにひっくり返りそうになったがどうにか耐えた。
佐野橋はそんな様子を見てクスクス笑っている。
私は話を逸らそうとした。
「ね、ねぇ、悠加......」
下の名前で呼んでみたのは、ただ、少し佐野橋と距離を縮めたかったからだ。
大して、深い理由も無い。
佐野橋と違って、人を下の名前で言い慣れていないから、声が小さくなってしまったが。
「......ねぇ七?! 今なんて?」
少しの沈黙の後、佐野橋が椅子から飛び跳ねる。
「え、えぇっと......はる、か?」
想像以上に大きな反応が帰ってきたため、私は少したじろいだ。
「七ぁぁ!! 漸く下の名前で呼んでくれた! すっごい心許してくれた感じする! ありがとう!」
佐野橋がいつも以上に楽しそうな声で言うと、いつも以上に快活な笑顔で私を抱きしめてきた。
突然の事に驚き、私の心拍数は上昇していく。
かつてないような、胸を押さえつけるような甘い甘い感覚。
佐野橋の柔らかい腕が私を包み、頭を撫で回した。
心地良い。
この胸を包む甘い感覚を、恋と呼ぶのならば、簡単に世の中にあるラブソングの歌詞を理解できてしまうかもしれない。
そう思った。
しかし、これを恋と呼べる自信は無かった。
恋というものが汚い感情ならばそれで説明がつくが、どうやら世間の評判からしてそうでは無い。
ならば、私のこの佐野橋に抱いている感情は恋じゃない。
そう自分に言い聞かせた。
「悠加」
「どしたの七ぁ〜」
「ちょっと苦しい」
幸せな時間ではあったのだが、息苦しくなったため一旦離して貰うことにした。
佐野橋......いや、悠加は「ごめんごめん」なんて言いながら離してくれた。少し寂しくなった。
それから少しして、廊下から何か重いものが這うような音が聞こえてきた。
その音は少しづつ大きくなってくる。
「ん? 何の音?」
教室の前で音が止まると、次に教室のドアが開いた。
「開けて!」
枯月さんの声だった。
悠加がドアを開けるとそこには......
「ごめん二人とも、お待たせ。新入部員の子連れてきたよ!」
首から下を袋に詰められ、猿轡を嵌められた少女を引きずりながら枯月さんが教室に入ってきた。
悠加と私が呆然としていると、枯月さんが袋を開いて中の少女を出し、猿轡を外した。
「おいテメェ何すんだよ栞!!!」
息を切らしながら立ち上がった少女の身長は私や悠加より一回りも二回りも低く、可愛らしい印象を受けたが、その声は力強かった。
「ゆかりが私の言うこと全然聞かないからだよぉ」
「だからと言ってなぁ......」
呆れたように少女が言う。慣れているような印象である。
この仕打ちに慣れているとは一体?
「えぇっと.....栞のお友達? 新入部員?」
悠加が目を輝かせて聞く。
「誰が新入部員だ! こんなふざけた同好会入ってたまるか」
ムッとした顔でその少女は言う。
声は高いが力強い。
「まぁまぁ、そんな事言わずに入ろうよゆかり〜。すっごい楽しいよ?」
「だからあたしこういうの性に合わないし嫌だって......」
枯月さんと話している少女は、心做しか先程より少し優しい喋り方をしていた。
「まあ一旦自己紹介。ね?」
「はぁ......わーったよ。自己紹介だけな? 栞と同じクラスの、雨雅ゆかり。この同好会には入らない。以上」
四人目の部員は、少々手強そうであった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます