第2話 掌握

 まだ秋の気配が満ちている頃だった。

 廊下の真ん中を歩いていく彼女を、だれもが振り返った。

 腰まである長い黒髪が揺れると、だれしもが一度は振り返った。しかしそれは彼女の容貌以上に、この学園にあんな生徒はいただろうか、いたとしてどうして気付かなかったのか――という視線だ。しかし彼女が冷たい風とともに通り過ぎた時には、だれもがあれは学園の生徒だと認識していた。

 彼女は一年生のクラスのひとつに目をつけると、教室の扉に手をかけた。迷いなく開ける。


「おはようございます」


 にこやかに笑って声をかけた。

 教室の中にいたの面々は思わずというように振り返った。思わず見とれてしまうような、しかし見知らぬ少女への戸惑い。だが一瞬の間があってから、皆はおはよう、と口にした。彼女がずっと以前からこのクラスにいた知り合いだったかのように。


 怪異や都市伝説に比べ、妖怪は意外と人間社会に近しいものである。タヌキやキツネが人間に化けるのは稀にあることだ。葬式に現れた遠縁の爺さんの様子が変だと思ったら、実は化けたタヌキが寿司をただ食いしに来ていた、などということがあった。

 雪女もそうだ。

 雪女は人に擬態して、人間社会に潜り込むことが出来る。力が強ければ周囲の人間の認識すら騙して、以前からずっとそこで生活していたかのように振る舞える。


 彼女――神宮寺氷華も、そうして人間社会に潜り込んだひとりだった。

 ラフカディオ・ハーン、即ち小泉八雲に逸話を広められてしまって以来、雪女は用心してそれほど人前に姿を現さなくなった。いまや呪いや魔を退ける人間たちでなくても、「雪女と約束してはいけない」と誰でも知るところにある。たとえ小泉八雲の影響が薄らいでもそれは変わらなかった。それでも周囲の認識を惑わせるほどの力があれば、こうして人間社会に溶け込めた。

 氷華は可憐で整った顔立ちに、雪のように白い肌、同じく雪に映える墨のように黒い髪、そして透き通るような青い瞳を持っていた。見慣れた学園の制服でさえもが、彼女が腕を通すと違って見えた。しかしその目の色も、どこか人間離れした容姿も、だれも気にすることはなかった。クラスメイトや教師はみな彼女のことを知っているように振る舞ったからである。


「順調ですね。それじゃあ次は――」


 彼女は生徒会室に向かって歩いていった。

 騒がしい教室棟を出た別棟にある生徒会室は、通常の教室より少し狭い作りになっていたが、十分な広さがあった。ノックをして中に入ると、床には市松模様の赤いカーペットが敷かれている。氷華は左右に置かれたソファとテーブルの間を堂々と通り、一番奥にある生徒会長用の少し大きな机に向かって歩いた。そこには職員室にありそうなレザーチェアがあり、そこに座って業務に勤しんでいた男子生徒が、少し驚いたように彼女を見た。彼の学生服には、二年生の印である緑色の印章がついている。

 彼の口は、本来であれば「だれだ?」とでも告げるところだった。


「ああ、会長!」


 次の瞬間には、彼はそんなことを口にしていた。にやりと笑う。


「すいませんね、椅子をお借りして。ええっと……」

「氷華です。神宮寺氷華」

「そうでした。神宮寺会長!」


 わざとらしい敬語で、にやりと笑う。

 彼女はそれに応えて、少し困ったような顔をする。


「いいんですよ。終わるまでどうぞごゆっくり、先輩」

「いやいいよ、ちょうど終わったところだから」


 彼がやっていた業務はたちまちに彼女のものになった。そうして彼は、たったいま用事を済ませたという風に立ち上がった。


「しかし、一年生で会長とはなあ。頑張れよ」

「ありがとうございます」


 生徒会長だった人間でさえなんの疑問も抱かずに、部屋を明け渡した。こうして氷華は、生徒会室という自分だけの部屋も手に入れた。

 そうなればもう、彼女は学校でほとんど自由を手に入れたも同じだった。この学園都市はこの高校を中心に形成されており、生徒会もそれなりに自由が利いたのだ。

 こうしてゆっくりと、あまりに自然に、学園はひとりの雪女によって掌握されたのである。

 雪が、覆い隠すように。

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