山姥――⑥

「……思ったよりも、年齢が上の方だったようですね」


 一階の玄関近くまで逃げてきた氷華は、階段を軽く飛び越えてきた老婆の姿を見てそう言った。彼女は部屋にあった椅子を掴んでいて、持ち上げようとする。勢いよく椅子を叩きつけたものの、老婆はにやにやと笑うだけだった。


「それだけかい」

「私は助手ですからねっ!」


 もうひとつあった椅子を投げつける。だが、それだけだった。

 氷華は玄関を開け放ち、勢いよく外へと飛び出した。外は暗く、吹雪いていた。後ろからは笑い声が響いた。


「外へ行けば逃げ切れるとでも思ったか!?」


 雪は既に降り積もっていた。裸足で飛び出てきたことに気付いたのは雪を踏んでからだ。あたりは茂みに囲まれていて、ここへ来たときの細い道がどこにあるのか見えなくなっている。コテージのわずかな明かり以外になにもない。月さえ無いのだ。氷華が並んだ木々を前にした途端に、上から影が落ちるのに気付いた。


「……っ」


 なんとか横に避けるが、すぐさま老婆が大きく跳躍した。

 雪の上でうまく歩けず、避けるのが精一杯だった。しかしそれも限界がある。氷華が後ろを振り向いた瞬間、かぎ爪のついた手が腕を掴んだ。いまにもかぎ爪が柔らかな腕に食い込んでくる。もう片方の手で、なんとか老婆の首に手をかける。締めようと足掻く。老婆はにやにやと笑うだけだった。見た目こそ老体であっても、その強靱な肉体は人間のそれ以上だ。

 醜悪な顔が近づく。


「……っ、近づかないで!」


 叫びは吹雪の中に消えていった。

 氷華の首めがけて顎が開かれる。歪に生えた上下の牙を、異臭のする粘着質の涎が繋げている。氷華は首を動かして避けようとし、腕を引っ張った。ぴくりともしない。

 そのとき、二階の窓が開いているのが見えた。何か叫んでいる。いや、確かに意味のある言葉だ。

 拍手の清浄な音が氷華の耳に届いた。


 ――ぱん。


 かみちぎらんとした老婆の口の中が、一気に凍り付いた。

 口の中の水分がすべて氷と化したように固まり、それ以上に氷塊が口の中に突っ込まれていた。老婆のあぎとが氷に阻まれ、その目が驚愕に見開いたのと同時に、腕が離れた。氷華は翻り、一気に距離をとった。


「……あ!?」


 雪がまとわりつくように、封印を解かれた氷華の黒い髪は白く変色し、その瞳が青く色づく。

 真っ白な振り袖に身を包み、冷たい瞳が射貫いた。


「お前――雪女かあっ!」


 老婆は氷をかみ砕きながら叫んだ。細い氷が老婆の口の中を裂き、血が口からあふれ出た。

 吹雪が天候のためではなく、彼女のために吹きすさぶ。もはや雪が彼女の歩みを邪魔することもない。

 過去、小泉八雲によって物語として書き留められ、人々からの強烈な存在承認を獲得した怪異。その代償として、同時に弱みも広まってしまった存在。人の前から姿を消さざるをえなかった雪の怪。


「なぜだ。なぜお前のようなやつが、退魔師なんかとつるんでる!?」

「あなたには関係のないことですね」

「その封印――退魔師に捕まったか! 人間の作家なんぞに暴かれた間抜けな妖異どもが! 自分の本性さえも見失ったか!」

「どうぞ、お好きなように」


 憂うような吐息がきらめき、ただでさえ冷たい空気が凍り付いていく。

 それはコテージの中にまで吹き付けると、玄関の明かりを凍らせ、氷柱が垂れ下がる。氷華を中心にして辺りは氷に覆われていく。

 老婆の足元で音がした。氷がその体を地面に縫い止めるように這い上っていく。


「はっ。こんなもの!」


 勢いよく足を引き抜き、氷が割れた。しかしその先から、なおも氷が追いすがる。自分の腕さえもが動かなくなっていくのに気付いたのは、その後だ。何度指先を動かして氷を割ろうと、その先から凍り付いていく。


「私と遊んでいていいんですか?」


 背後では、二階から飛び降りてきた夏樹がちょうど老婆を挟み撃ちにしたところだった。自分の足元に一瞬絡みついた氷を蹴飛ばして、指に挟んだ長方形の和紙を払って伸ばす。和紙に焦げた文字がひとりでに浮かび上がって護符を作った。

 少しずつ重なった和紙がずれていく。一枚。三枚。五枚。十枚。

 そこで空中に護符を並べると、更に一枚ずつ二枚に分かれた。

 払うような仕草をすると、護符が老婆の体に一気に貼り付いた。縄で縛られたように動きを止める。


「残念やけど、……人間に手ェ出した以上は、見逃せんな」


 赤い色を帯びた三白眼が、まっすぐに射貫いた。最後に作り上げた一枚を静かに投げつけた。

 ひらりと、老婆の額に落ちていく。

 護符が一斉に燃え上がり、雪を溶かさずに老婆の姿だけを焼いていく。老婆はもがいて声をあげたが、貼り付いた護符が更にきつく圧縮した。さながら、紙を貼り合わせた珠のように。叫びは吹雪に混じって消えていき、老婆の姿を内包しながらやがて檻のように小さく丸まっていく。火の珠のようにも小さな太陽のようにも見えたそれは、やがて――。


 ――ぼっ。


 大きく燃える音とともに、その場に灰だけが落ちた。そうして、一枚の護符だけがひらひらとその上に落ちた。

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