山姥――⑤

「眠くなったら二階の部屋を使ってね。さっき確認してきたの。手前の部屋をふたつ用意しておいたから、そこを使って。部屋の入り口にプレートが置いてあるから、わかるはずよ」

「なにからなにまで、ほんとすんません……」


 申し訳なさそうな夏樹の横で、氷華が頭を下げた。


「私は下で仕事してるから、なにかあったら言ってね」


 二人はそれからすぐに二階へあがることにしていた。荷物を持って、陽子に頭を下げてから二階へと引っ込んでいく。


 陽子は外の様子をのぞき見た。

 夜になってから雪は酷くなってきていた。あの二人もこのままでは山を下りられないだろう。

 明かりを消し、万が一のことがあってもいいようにする。そうして物置部屋を開けると、中のほうに隠してあった鉈を手にした。そろそろ眠剤が効いてきたはずだ。もし片方で物音がしたとしても、もう片方はびくともしないだろう。

 二階に続く階段を見る。二階で誰かが動く気配はしなかった。ゆっくりと階段を登る。一段、二段、三段。この瞬間がいちばん高揚する。それにあの二人は若い。このところ山に登るようなのは六十代以上の老人が多かった。それが今日は、なんと十代の若そうな男と――なにより、柔らかそうな女がいる!


 最初に見たときからそうだった。

 あんな柔らかそうで、美しいものにかぶりつくことができるなんて――なんて僥倖だろう!

 男の方にも少しは筋肉がありそうだったが、あの女は別格だ。これほどまで食欲をそそられたのも久々だ。

 あんなに若くて、珠のような肌にかぶりつけるなんて、いったいどれほどぶりだろう。

 獲物として申し分ない。食事としては極上だ。

 女のほうを先に始末してしまおうか、それとも後にとっておくべきか。いや、この際もはやどちらでもいい。二人も一気に転がり込んできたからには。


 陽子は二つある扉を見て、どちらがどちらに入っているのかを考えた。しかしそれを考えたのは一瞬のことで、すぐさま右側を選んだ。荷物は男のものだった。前菜にはちょうどいい。ベッドが膨らんでいるのが見える。ひた、ひた、とゆっくりと近づく。こいつは先に始末してしまえばいい。悲鳴さえあげなければいいのだ。夏樹が、布団を絡めるようにして眠っているのが見えた。おあつらえ向きの姿勢だ。またベッドをひとつダメにしてしまうが、些細なことだ。

 陽子は手にした鉈をゆっくりと振り上げた。陽子の口元が耳まで裂けるように笑い、勢いよくベッドの膨らみめがけて振り下ろす。


 宴の始まりだ。


 布団が僅かな物音と血をおさえながら、真っ二つになった。更にもう一度叩きつける。血と布団の綿があたりに飛び散った。目を覚まさぬまま、夏樹は肉塊となる。

 真っ赤なスープを前菜にしようと顔を近づける。

 鉈を引き上げようとして、背後から突如強烈な炎が投げつけられた。


「ぎゃっ!」


 思わず悲鳴をあげる。熱い。

 ただの炎ではない。炎は陽子にまとわりつき、抗えない痛みを与えてきた。陽子は身をよじり、必死になってその炎を振り払った。その間に指先の爪が鋭く伸び、髪は老婆のように艶を失い、白髪が交じって灰色になった。ミチミチとこめかみが皮膚の下から盛り上がり、牛のような角が生える。骨格が盛り上がり、服を裂く。上着など不要だった。片手で引きちぎって床に捨て去ると、忌々しい炎がようやく消え去った。


「なんだ、これは……!?」


 陽子の声は枯れかけ、老婆のようだ。

 まさしく老婆そのものだった。


「正体現したな――」


 低く響く関西弁が、部屋の入り口からした。

 突き出した片手には札があり、燃えさかる炎の残滓を宿している。それが暗い部屋を照らし出していた。さっきの炎と同じだ。


「なぜそこに……」


 呟いてから陽子はハッとして布団を見た。膨らんだベッドには護符が貼られていて、鉈で真っ二つになったそれがひとりでに燃えた。布団に燃え跡さえ残さず消えていく。

 ――幻影……!?

 燃えた跡に見えたのは、人の姿ではなかった。丸められた毛布がそう見えていただけだ。


「おまえ……、おまえらさては、退魔師か!」

「せや。そっちから正体現してくれて、色んな手間が省けたわ」

 その後ろから、ひょこりと氷華が顔を出した。

「私はただの助手なんですが」

 二人とも意識ははっきりしていた。


「なぜだ。なぜ眠っていない……!?」

「やっぱり何か仕込んどったんか」

「護符のおかげで意識はだいぶハッキリしていますね。ちょっと落ち着かないですが」

「取るなよ。眠剤の効果が出てくるかもしれん」


 氷華は見るからに嫌な顔をした。


「くそがっ、ぜんぶ最初から!」

「おう、わかっとったぞ」


 夏樹は懐から折りたたまれた紙を取り出すと、広げていく。


「現代にだいぶ迎合しとる様やけど、今どき電波なんて、ほぼどこでも通じる。行方不明になった奴らの携帯電話もそうや」


 地図だった。

 印がいくつもつけられているが、そのすべてがコテージ周辺か、コテージそのものに集中している。


「位置情報くらいわかる。ところがそれを調べたら、不思議なことにほとんどがこのコテージの周辺で途絶えとる。山の中腹や頂上ならともかくな。人が住んどる場所やのに、ことごとく登山客がこのあたりで人が消えとるからな。そりゃおかしいやろ。しかも、住んどるのは普通の姉ちゃんやし。そこまで来て帰ってこんなんてことがあるかい」


 目線を外さぬまま、紙を畳んでポケットにしまいこむ。


「おまけにこのあたりはお前の妖気に当てられて瘴気まで発生しとるしな。……それで退魔師協会にもお鉢が回って来たってこと」


 指を再びポケットから出したときには、長方形の和紙を手にしていた。


「まさかここまで食いついてくるとは思わんかったけどな。で……だ」


 指に挟んだそれを軽く振ると、重なった和紙がずれて三枚になった。


「ここで行方不明になった人ら……、いったいどうしたんか、聞いても?」

「ひ、ひひっ。いまから知る事になるよ!」


 その直後、鉈が勢いよく回転しながら夏樹の頭に飛んだ。


「おわっ!」


 慌てて身を伏せると、いままで頭があった場所の壁に鉈が突き刺さった。

 その次の瞬間には老婆の顔がすぐ近くにあった。巨大な口が開かれ、鉄のような牙が迫っている。


「ぐ……っ」


 このままでは符が使えない。

 部屋の入り口から壁沿いに移動すると、ちらりとベッド脇にあるテーブルランプを見た。柄をつかむがいなや、勢いよく振り回し、老婆の顔面にぶち当てた。だが老婆は怯まず、ランプを口で受け止めて振り回した。夏樹はそのままランプに引きずられる恰好になる。


 ――くそっ!


 このタイプに肉弾戦は無理か、と悟る。

 ランプを自分から手放し、ベッドの上で転がりながら受け身をとると、窓際へ落ちる。

 その隙に、老婆が鉈を引き抜いて投げつけてきた。なんとか横に転がると、首のすぐ横に鉈が突き刺さった。そのすぐ後ろから、別の部屋のテーブルランプを持ってきた氷華が勢いよく振りかぶった。ごちん、と老婆の頭に振り下ろす。だが、まったく効いていなかった。はっとした顔で氷華は後ろへ下がる。


「あんたはご馳走だね」


 にやにやとした顔が言った。

 氷華はそろそろと階段の方へ下がりながら、テーブルランプを振り回した。老婆の鋭い爪がランプの布を引き裂くと、氷華はランプを投げつけた。急いで一階へ向かう。笑い声がその後ろ姿へと向けられる。

 夏樹は飛び起きると、鉈をそのままにして老婆に飛びつこうとした。

 だが部屋から飛び出そうとした途端、バキンという凄まじい音が響いたかと思うと、目の前に何か大きくて平たい板のようなものが投げつけられた。ぎょっとして顔だけは腕で防御したものの、強かに打ち付けられる。勢いで板の下敷きになり、小さく呻く。

 よく見れば、飛んできたのは破壊された扉だった。なんとか扉の下から這い出ると、廊下を挟んだ向こう側の扉が無くなっている。笑い声が一階から響いてくる。


「くっ……そ、氷華ぁ!」


 氷華が一階へ行ったのはこっちの時間稼ぎだと気付いていた。重いドアをはねのけて、なんとか投げ捨てて脱出する。木くずで多少の傷はついたが、動けないほどではない。下からは、声と物音が二階まで響いてくる。急いで向かわなければならなかった。

 立ち上がって廊下へ出たとき、下からバタンと勢いよく玄関扉が開かれる音がした。


「外か!」


 夏樹は周囲を見回し、いましがた扉の無くなった部屋へと駆け込んだ。窓に飛びついて開けると、暗い玄関先で氷華が追い詰められているのを見た。

 急いで向かおうとして、一秒だけ立ち止まって悩んだ。


「……任せた!」

 茶色い目に赤い色が宿る。

「我が言霊により、ひととき汝の封印を解き放つ!」


 手をたたき合わせる音が、夜の山に響き渡った。

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