山姥――④
「最近、この山で遭難が多いでしょう? そのせいで化け物がおるって噂になっとって。化け物が山にいて、食い殺されるっちゅうんです。いまの時代で化け物なんて、そうそう信じられんけど……」
陽子は少しだけ困ったように目を瞬かせた。
「それでもしかして、地元の伝承に似たようなのがあるんやないかって思って。でも、これがさっぱり。お姉さん、ここに住んでる現地の人なら知っとるかなって」
「ううん、私はそういうのは聞いたことは無いわねぇ」
「あ、もちろん! 実際の被害は、クマとかの可能性の方が高ェかなって思っとるんすよ。ほら、最近は冬眠せずにウロウロしとる個体もいるっていうし」
夏樹はそこまで言ってから、慌てたように付け足した。
「あっ、いや、ここに住んでる方に言う話じゃなかったすよね。そういやあ、お姉さんはどうしてここに?」
空気を変えるように言う彼に、陽子は頷いた。
「私は自然が好きなの。実は半年くらい前に移り住んだばっかりでね、私だと力になれないかも」
「そうやったんですか」
「でも、たまに迷い込んだ人達が来るから退屈はしないわ。場合によっては携帯電話も無くしちゃってることがあるから、結構重宝されてるのよ」
それは事実だ。
「そういえば、慣れっこだって言ってましたね。やっぱり、夏の装備で来たとかハイキングの途中で道を外した……とか、多いんすか?」
「そうね。山を甘く見ている人もいるし、道を間違えて……とかもよくあるわ。このコテージに来て安心してるのを見ると、私もここにいて良かったと思うの」
陽子はそこでちらりと氷華のほうを見た。
彼女は出された紅茶にひとくちも手をつけていなかった。なにか警戒しているのかと思ってしまう。どうぞ、とでも言うべきか。陽子の視線に気がついたのか、ようやく氷華は顔をあげた。
「すみません。……実は猫舌なもので」
氷華は少しだけ口元に手をやった。
「……ぬるいのしか飲めん体質なんよな、氷華」
「はい」
同性だからこそとっつきにくいタイプかと思っていたが、意外にそうでもないらしい。不機嫌なのもあったのだろう。陽子は少しだけ笑った。
「そうだったのね! ごめんなさい、いま氷が無いから作っておくわ」
「いえ、そこまでは……。ぬるくなれば飲めますし」
立ち上がってキッチンへと踵を返す。
「そんなに遠慮しないで。そうだ、二人とも。夕食も食べていくといいわ。冷凍食品しかないけど」
「えっ、ほんまですか!?」
氷華がちらりと夏樹を見て、呆れたような目をした。
少しは遠慮しろというように、紅茶を置くためにソファから離れた背を思い切り叩いた。
「あいった!」
じろりと見ている彼女を見て目を丸くする。
「な、なんやねんいきなり!?」
「べつに」
つんとした表情で目を逸らす。
「仲がいいのね」
「いやあ、それほどでも……」
「いえ、ぜんぜん」
断言した氷華を、夏樹が相変わらず信じられない目で見ていた。
「ええ。とにかく今日はもう遅いし、また夜には吹雪いてくるだろうから。今日はこのコテージに泊まった方がいいわ」
陽子はそう言うとキッチンへと足を運んだ。
二人は恐縮しきっていた。悪そうな二人ではないと感じる。警戒心はすっかり無くなったことだろう。冷凍庫から固まりかけた冷凍食品を取りだす。食事になりそうなものをいくつかピックアップして、取り出した。ずっと取り出していなかったから、すっかり氷が貼り付いて白くなっていた。数も少なくなっている。いちどどこかに買い出しに行ったほうがいいかもしれない。
レンジで冷凍食品を温めているあいだに、製氷機の給水タンクに水を入れておくことにした。使っていないせいかどこにあるのか手間取ったが、一番上の大きな扉を開けると、タンクが隅に入っているのを見つけた。
食事は和やかにはじまった。さすがに少し味気ないかとも思ったが、夏樹のほうは美味しそうに食べていた。充分すぎるほどだったらしい。氷華からも文句は出なかった。
陽子は安心して席を外して二階へと向かった。左右にあるドアのうち、手前にある二つを選んで中を確認する。ベッドも布団も問題なく揃っている。奥の部屋はこのあいだ、布団をひとつダメにしてしまったのだ。陽子は他に何も落ちていないことを確認して、「使用中」のドアプレートをかけた。
そろそろ食べ終わったところだろうと、下に降りていく。
ソファの背中から見えたのは、氷華だけだった。思わずどきりとする。二階に来てはいない。きっとトイレだろう。陽子は戸惑いを隠して、氷華に話しかけた。
「どう、お口にあったかしら。冷凍食品だったけれど」
テーブルに置かれたトレイの中身はすべて食べきってあった。
「はい。充分です。ありがとうございます」
「日向君はどこへ?」
「トイレに行きましたよ。そのへんにいるのでは」
氷華はなんということもなく答える。
「あら、そう?」
陽子はその場を離れて、廊下の奥へと目を向けた。さすがにこの構造で迷うことはないだろう。足音を立てながら廊下を曲がり、その向こうを見た。
ぎくりとする。
廊下の先に突っ立っていたのはまちがいなく夏樹だった。
トイレからは水の流れる音がしていない。目線はドアのひとつに向けられている。
「……何をしてるの?」
「ああ、結構でかいコテージだなと思って。部屋もいっぱいあるんすね。こことか、なんの部屋だろうと思って」
「そこは地下室よ。片付けてないし、電気のスイッチが壊れちゃって。あんまりお客様には立ち入ってほしくないかな」
「そりゃすんません。でもこんなところに一人で住んどって、大丈夫なんですか」
「意外と大丈夫なものよ。ほら、それよりも早く温かい方に来るといいわ。食後のお酒は大丈夫?」
夏樹は困ったような顔をした。
どうやら二人とも未成年なのは本当らしい。
「それじゃあ、コーヒーはどう? インスタントだけど」
「そんな気を遣ってもらわんでも」
「いいのよ、久々に若い人たちが来て嬉しいの」
「……それじゃ、お言葉に甘えて」
陽子はキッチンへと立ち、お湯を沸かしてインスタントコーヒーをカップに入れる。二人からは死角になっている位置だ。陽子はコーヒーミルクと一緒に、棚から見慣れた小瓶を取り出した。中身の粉をほんの少しだけ濡らしたマドラーに擦り付けて、ミルクと一緒にして混ぜた。手っ取り早く小瓶をしまい込み、棚の中に入れる。
「そうだ、奥田さん」
陽子はびくりとした。棚を勢いよく閉めながら振り返る。
気付くとキッチンの入り口に氷華が立っていた。
「私のは氷をひとつかふたつ入れてもらえると……」
「あ、ああ。そうだったわね」
猫舌の彼女のために、冷蔵庫の製氷室を開ける。幸いにも氷は既に出来ている。奥の方でぽつんと転がっている氷をコーヒーの中に落とした。
「ごめんなさい、いつもの癖でミルクを入れちゃった。二人とも、大丈夫?」
コーヒーを運びがてら、陽子は笑った。
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