山姥――②

 十一月二十一日のニュースは、事故のニュースから始まった。

「……発見された68歳の男性は心肺停止の状態で、山頂付近より滑落したとみられています。このところの登山ブームにより各地で遭難事故や通報が相次いでおり、警察は注意を呼びかけています。また、N県のYヶ岳では現在までに事故や体調不良などを含めた通報が相次いでおり、そのうちの9件はいまだ見つかっていないということです。これから山は冬期に入ることから、冬用の装備を整えるなど……」


 奥田陽子はテレビを消し、既に暗くなってきた窓の外を見た。

 N県Yヶ岳――陽子の住むコテージもそこにあった。つまり陽子がいまいる場所が、まさにその現場だ。現場といっても山頂ではなく、裾野に広がる観光地にほど近い森林地帯にある。これから、という言葉とは裏腹に、既に冬の気配はすぐそこまで訪れていた。特に今日はそうだ。近年の平均気温の上昇をまるで無視するように、気配どころか窓の外は吹雪だ。ここも山頂と同じように、やがて冬に閉ざされてしまうだろう。

 コテージは場所はともかく、六人あるいは大人数用にできているのでかなり広い。内部は他とあまり変わらないが、正面入り口から入ってすぐに、左手に二階へ続く階段があり、右手側にはリビング・ダイニングが広がっている。対面式のキッチンも奥に繋がっているため、かなり広い作りだ。リビングは陽子がこのコテージを手に入れたときから変わっていない。偽物だが暖炉があり、中央には大きな樹を削って作られた木造のテーブルがある。いかにも山のコテージといった雰囲気で訪問客からは評判が良い。階段をすり抜けて奥に曲がると、トイレや風呂、そしてサウナがある。地下室は石造りの保管庫になっていて使い勝手がいいものの、さすがに客に不用心に立ち入ってほしくなかったため、階段は鍵をかけて閉じていた。


 二階には部屋が四つとバスルームがひとつ。いまはすべて来客用にしている。家としては申し分ないだろう。そこに陽子は一人で住んでいた。こんなコテージに女一人で、と思われることもあったが、反面、訪問客にとっては救いの館にも見えた。なにしろここにやってくるのは道に迷った登山客ばかりなのだから。街中はまだ少し温かい日もあるからと軽く見た人々が、寒さや降り積もる雪で登山を断念するのだ。そして時に、この森林地帯で道を見失う。時折、カフェや何かの店かと思って尋ねてくる人々もいたが、たいていは道に迷って絶望のまま彷徨っていた人々を介抱することになった。陽子は彼らを歓迎した。中には変な気を起こす連中もいないとは限らない。しかし彼らは基本的に助けを求めていた。それどころではなかったのだ。


 ――それにしても、今年は雪が多いな。


 陽子は窓の外に目をやった。窓は曇って景色が見えず、暗い色が見えるばかりだった。カーテンは少しだけ開けておく。こうしておくと迷い人たちの希望の光になるらしい。これも一種の親切心だ。

 彼女がここに住まいを移して半年になる。そのあいだ、特にこれといった不便は無かった。街中に降りることも一度は考えたが、彼女は生来の性分もあり、山に近いところを好んだ。それでもきちんと生活は成り立っている。これも現代文明のおかげだ。

 リモコンを置いて振り返ったところで、ベルの音が響いた。どうやらだれかがやってきたようだ。荷物を頼んだ記憶はない。彼女はキッチンへと足を向け、壁のインターホンを覗き込んだ。

 インターホンの画面では、人間が二人。男女二人が立っていた。

 男の方がベルを鳴らしている。


「すんませーん、誰かいませんか!」


 くぐもった声はわずかに外から聞こえていた。少し西の方の訛りが入ったような声だ。二人ともダウンジャケットを着てはいるがやや軽装で、これから冬の登山をするという恰好には見えなかった。陽子は目を瞬かせる。


「すんませーん!」


 男はベルから目を離すと、今度はドアを叩きはじめた。


「はい、はいはい、いま開けます!」


 陽子はじっくりと二人を見たあとに、いかにも慌てたような声をあげた。

 どうやら、件の迷い人がやってきたようだった。

 玄関先へと向かい、ドアノブに手を掛ける。相手は男女の二人だった。ひとまずは大丈夫だろう。ドアを開けると、冷たい空気が流れ込んできた。


「ああ! 良かった。人がおって!」


 男は人好きのする笑顔をした。声は目の前で聞くとよけいにはっきりと、西の方の訛りがあるのがわかる。インターホン越しでも若い男だと思ったが、思った以上だ。せいぜい高校生だろう。黒のボサボサの髪で、黒目が小さいのか三白眼だ。灰色で少し年季の入ったダウンジャケットを着ている。その他はいかにもごく普通の日本人。少し笑う顔は屈託がない。


「すんません、突然」

「ああ、いえ。どうされました?」


 とはいえ、向こうだってもしかしたら二十代くらいの女が出てくるとは思わなかっただろう。


「オレら、このあたりで迷っちまって。ここ、なんかの店かと思ったんやけど……、もしかして違った?」

「店ではないけど、それは大変だわね」と陽子は続けた。「どうぞ、あがって。寒いでしょう」


 そう言うと、男は驚いたように三白眼を瞬かせる。


「ええんですか?」

「もちろん。外は寒くなるでしょうから。それに、あなたたちみたいな人はよく居るの。こっちはもう慣れっこなのよ」


 あまりにトントン拍子に話が進んだせいだろうか。男は少し戸惑ったようだった。


「えっと……じゃあ、ええか?」


 男は後ろにいた女へと目線を向けた。女の方は静かに頷いた。


 女の方もまた、高校生くらいに見えたが――陽子は思わずどきりとした。

 胸元まである黒髪はしっとりと流れ、長いまつげに薄茶色の目は切れ長で涼しげだ。薄い唇も、通った鼻筋もシャープな印象を持たせるが、なにより、なにより――その若さを引き立たせる、柔らかな白い肌。この雪の下だからか、余計に引き立って見える。

 同性であってもこれほど心騒ぐような人間を見たことがない。ミステリアスな美少女といえばそれまでだが、あまりに人間離れしたようにさえ見えた。薄い青色のダウンジャケットでさえ、隠しきれない何かがある。

 なんて僥倖だろう!

 陽子は目を見開いて、湧き起こってくるものを抑え込んだ。


「それじゃ、お邪魔しまーす」


 男が声をあげて中に入る。


「お邪魔します」


 逆に彼女は訛りの無い、冷たい鈴のような声をあげた。声さえもが、透き通るようだ。

 陽子に少しだけ頭を下げたあと、男に続いて部屋の中へと入った。

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