第二十五話「龍使い」
ドン、と、テーブルに背を預けたスーツ姿の、左側、腹から胸に掛けて真っ赤に濡れている。
「知ってたよ、アマキ」
まるで差し伸べるよう、モズの手が前へと伸ばされる。
「もちろん、知ってたに決まってるだろ!! あんだけベソベソ泣いてりゃァなァ!!」
その口に拳でもねじ込んでやりたいが、どうせ死ぬだろう。
アマキの傷を見なければ、と、歯を食いしばって壁伝いに身を起こし。
「我が命と引き換えろッ!!」
「は……?」
モズの怒鳴り声と、呆然とするような、アマキの声。
「シメイッ!! 離れろ!!」
「えっ」
まだ何かある、ということだけは解ったが。身体がそれ以上動かない。
崩れそうな身を堪えていたアマキが、背を起こしながら、パン! と、音を立てて胸の前で両手を合わせる。
「ここへ来い! 五の
「ご、――ッ、この血に乗ぜよ!! 持て!! 捧げるッ!!」
「踏み殺せ! 地の龍!!」
「押し戻せ!! 天の龍!!」
共に絶叫するような二人の声が交互に混じり、一拍おいて、身体が床に叩きつけられた。
続く凄まじい縦揺れに、動くどころか、何かにすがることすらできず、壁に身を打ちつけ、吹き飛んできた何かが身体中に降り注いだ。
揺れは短い間だったが、身体の中に入り込んだように、頭を掻き回されて、自分の身体も知覚できなかった。
ようやく床を見つけて、そこに手を這わせてしがみつき、空の胃から酸っぱいものを吐き出すと、這いつくばる。
なにが、どうなった。
身を起こせば驚くような状況で、テーブルに掛かったクロスすら乱れておらず。
ただ、二人の男が身を投げ出して転がっていた。
四つん這いになりながら、黒尽くめの方へと、近寄る。
身を丸めるような身体の肩を掴み、開いて、引いていた血の気すら失せていく。
腹から胸に刺さった銀色は、どれがナイフでフォークだのと区別がつかないほど、深々と突き立って。その下には、小さく血だまりができはじめていた。
アマキの前に回って、できるだけ揺らさないよう、仰向けにさせ。
これだけ深いと、抜いたら出血が広がる可能性が高い。
圧迫。止血。止血を、と、口の中で唱えて頭を整理しながら、シャツを脱いで裂き、応急処置にかかる。
「おい、何してんだモズ。すげえ音、」
扉を開く音と同時に聞こえた声に振り返り、迷わず怒鳴った。
「救急車を呼んでくれ! アマキとモズがひどい怪我してる!」
「えっ、マジかよ、なに」
入ってこようとする、なにか見覚えのある女性に、さらに声を荒げた。
「先に救急車を呼べ!! このままじゃ死ぬ!!」
えっ、わかった、と、まだ戸惑ったような声に、苛立つのも、すぐに狼狽と焦りに塗り変わる。
「救急車は……」
弱くかすれた声に、圧迫のために押さえつけたままのアマキを振り返った。
ヘイゼルの目が、こちらに向いて、柔く細められている。
「アマキ……!」
「救急車は、ここには、……、わざと、遅れてくる、から、」
間に合わねーよ、と、笑う顔に、まさかと思う。
そんなことがあるだろうかと、思うたび、だが確かに、ここでは裏切られ続けていた。
「シメイ、」
「……うん」
持ち上げる手を伸ばせないでいるのを受け取り、頬へと引き寄せた。
「ほんとは、来てほしかった、……ありがとな」
言葉が出ない。
ついさっきまで、殺されてもいいと思っていたのは自分の方だったのに。
「けど、できたら、」
こんな形で礼なんか聞きたくない。
「ここじゃ、なくて、……俺の、へやに」
青くなっていく顔が笑うのに、力を失ってしまいそうで、眉が下がる。
「ああ……そうか。そうだ、ごめんな、アマキ」
深くなる笑みに、くしゃりと寄るしわが、本当に可愛い。
「駄目だ、まだ起きててくれ、アマキ。話をしよう、なにか」
ン、と、頷く瞼がそのまま閉じそうで、頬に手を当て揺すった。
「行かないで。まだ行かないで、アマキ。救急車が来ないなら、ここではどうするんだ? 君の方が詳しいだろ」
何を話しているのか、分からなくなりながら、必死に、ほんとうに必死に声を掛け続ける。
「……あのさ」
「うん。なに、アマキ」
「……こないだみたいに、してくれる? また……」
少し目を丸くしてしまって、けど、もちろんと頷いてみせた。
「いくらでも」
だからどうか、と、力無く下がっていくアマキの手を、両手で握る。
「
「なに……?」
うわごとかと思って強く手を握ると、思いがけずしっかりとした目線が、こちらに据えられた。
「呼んでも、こねー……。……あんた、代わりに、呼んでくれ」
文脈から、龍の
「教えるから、くりかえして、」
「わかった。言う通りにする」
とにかく、アマキの意識を保っておきたい。
「
「謹みて勧請し奉る」
「臥竜の地に根付く、
「臥竜の地に根付く、緑の樹の龍」
「この、傷を洗い、……命を、戻せ」
「……この傷を洗い、命を戻せ」
復唱して、目を瞠った。傷を治す龍がいるのか。
アマキは諦めていない、と、気づけば血が熱くなる気がした。
腹に力を込め、あらためて耳をそばだてる。
「我が、血に、
「我が血に乗ぜよ」
うんうん、と、アマキが頷きを重ねて、重そうな目が待つ。
そうか。言えというのではなく、代わりに呼べと言われたのだ。
「謹みて勧請し奉る。臥竜の地に根付く緑の樹の龍。この血を洗い、命を戻せ。我が血に乗ぜよ」
ふふ、と、こちらを見るアマキが笑った。
「……ダメ。……魔法のじゅもんじゃ、ない。……あんた、意味、……わかンだろ……」
先に瞼が閉じ。はあ、と、大きな息をついて、アマキはそれきり意識を失った。
「っ、」
救急車、と、川の方角を見て、だが、気配すらないのに歯噛みする。
「謹みて、」
口に出してみて、何をしているのかと溜息をついた。自分は龍使いではない。
だが、と思い直す。
もうできることがない。
「謹みて勧請し奉る。臥竜の地に根付く緑の樹の龍。この血を洗い、命を戻せ。我が血に乗ぜよ」
何も起こりはしない。
けれど、次にする処置は、心肺停止からの蘇生だ。アマキの心臓は、まだ動いている。
手を離すのは不安だったが、アマキを真似て、合掌してみる。
「謹みて勧請し奉る。臥竜の地に根付く緑の樹の龍、」
意味だ、意味。アマキは以前にも、この言葉の意味がわかるのかと言ったことがあった。
それほど難しい言葉とは感じない。頼むから来いと言っているんじゃないのか。
「謹みて勧請し奉る……」
そうじゃない、と、思い直す。
最後にアマキとモズが起こしたこと、あれも多分龍の力だ。だが、二人ともこんな長い勧請はしていない。
「謹みて、」
だったら何故、ここに、この言葉が必要なのか。
「謹みて勧請し奉る。臥竜の地に根付く緑の樹の龍。この血を洗い、命を戻せ、」
頭から考えてみる。まず“つつしみて”が、雰囲気しか理解できない。
「謹みて勧請し奉る、」
最後まで唱えてみて、あっと気がついた。
まず、命令文ではない。勘違いしていた。だから“謹んで”と、ひれ伏す。
そう考え直すと全体像がぼんやりと見えて、心がくじけそうに感じた。
これは、祈願し神を降ろす儀式だ。
一度息をついて、突き立った刃物の間に指を這わすよう、そろりと胸を探り、首筋に触れる。
「ああ、まずい」
鼓動も脈も、弱くなっている。
胸の、傷のない場所に手を当て、熱を持たせるように繰り返し撫でる。
「……。謹みて勧請し奉る。臥竜の地に根付く緑の樹の龍。この血を洗い、命を戻せ。我が血に乗ぜよ」
何度も繰り返したせいで、言葉が自然に出た。
「謹みて勧請し奉る。臥竜の地に根付く緑の樹の龍。この血を洗い、命を戻せ」
他に願いはない。
失せかけている彼の命を、繋ぎ止めたい。その力を誰かが持つというなら、自分の持っているなにと交換でもいい。
「っ、謹みて……」
救急車はこない。ここは、見捨てられた場所だからだ。
親は死に、悪党がはびこり、自分のような不愉快な余所者が現れれば見下していく。
「謹みて勧請し奉る…」
ありふれた身分すら生まれつき与えられず、あるいは奪われて逃げ込む者達に、社会が命を救う約束すら反故にする。
「臥竜の地に根付く緑の樹の龍…」
選択肢はなく、チャンスは訪れず、訴える相手はいない。
「この血を洗い、命を戻せ」
せめて、せめてこの子を、こんな風に殺さないでくれ。
誰か、
「謹みて勧請し奉る! 臥竜の地に根付く! 緑の樹の龍! この血を洗い! 命を戻せ!!」
怒りに震えながら、見たこともないものへと叫び、訴える。
「俺のものなら何でも差し出す!! 助けてくれ! ここへ来てッ! この子を助けてくれッ!!」
絞りすぎて喉を引き千切るような痛み目掛けて、突然、下からの衝撃が突き上げた。
「アッ!! ッガ!!」
さっき二人の龍使いが起こしたのとは違う、別の凄まじい力が。
あの縦揺れを例えるなら、叩きつける力と、蹴り上げる力で。今、これは、どこか深いところから、とてつもなく長く太く、何かを食い破るように貫いて上昇していく。
「カ……ッ!」
線路に沿って寝そべって、長く繋いだ鉄道に
手に取ることのできない、どこにも触れない、結晶し純化して取り出したような“力”そのものが。轢き潰すように、だが通り抜けていく。
ズッ! と、引き抜いた音が聞こえたような錯覚があって、ようやく解放されても、まだ呆然としていた。
アマキは、簡単にいうと龍とは、自然界にある力だと言っていた。
それを何故、伝承の生物にたとえて龍と呼ぶのか。
身体の中を通り抜けられて今、
どこにも触れていないのに、通り抜けた、轢かれていると感じるような、言葉に出来なさ。
だが確かに、見えないというより
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