第二十三話「モズ」
沈黙は一瞬で、我を取り戻したようにモズが小さく笑った。
「シメイ先生はご存じないかもしれないが、インフラというのは、そう簡単には止められないんだ」
目を見て、秘め事のように小さく、首を横に振ってみせる。
探るような目が向けられ、応じる目でうなずいた。
数拍の間を置いて、モズが背もたれに仰け反った。なんだそうか! と、手で目を覆い、声が上げられる。
そのわざとらしい仕草に、なにか、嫌な予感が這い上がった。
「そんなことまで話したのか、あいつ! まったく、しょうがないな!」
交渉は決裂か。いや、上手くいったのか。
目障りで小煩い川向こうの若造を、黙らせておくために、妥協した線くらいは採らないか。
「もういいぞ!」
張り上げるモズの声に、大きな音を立てて扉が開かれ、二人の男が大股に歩いてくる。
もう少し粘るべきか、と、様子を窺う算段を、翻した。
ひとりは、ミハルを乗せた車を運転していた男だ。もう一人もそうなのかもしれない。
だとしたら、汚れ仕事の担当だという可能性がある。
だが、席を立とうと床を蹴るのが遅すぎた。
あっという間に両側から腕を押さえ込まれ、壁際に引きずられた。
「やあ、やあ、やあシメイ、シメイ、なあ」
無理矢理に膝を着いて屈まされ、踊るような足取りで近付いてくるモズを、睨みつけた。
「なんの真似だ」
「なんのなんの、こっちの台詞だよシメイ。ああ、面白かった! 面白かったなあ、シメイ!」
真正面に立って、ジャケットの内側に手を入れ、首を屈めてモズが煙草に火をつける。
ああー……と、煙に混ぜるよう吐き出される声が、恍惚のようだ。
「今、話してて思ったんだが。シメイ」
両肩を押さえつけ、頭を低くされても、睨むことをやめない。
「お前は私と似てるなあ」
突然なんの話だ、と、思わず眉が寄った。
モズが身を屈め、吹きかけられる紫煙に、だが、目も眇めずやり過ごす。
「人を見下している」
ドッ、と、心臓が跳ねた。
アマキをもののように言ったのは芝居だと、叫びそうになるのを堪えて、歯噛みする音が骨に伝わる。
「違う違う。アマキのことじゃないぞ」
心臓が、早鐘のように打ち始める。
モズが立ち上がり、顔を追うのが難しくなっても、もうあまり関わりない。
目が、勝手にうろついた。
「私のことを見るあの目! なんて失礼なやつだ、お前は!」
全身が熱くなるのを感じる。今、この男の目を見ることができない。
「おっと。まさか、私がとても鋭いから気がついたと思うのか?」
言葉が染みるのでも待つよう、ふふ、と奇妙に柔らかい声が降ってきた。
「ずいぶん臥竜城を歩いたんだって? 珍しくて面白かっただろう。けどな、シメイ。ああ、なんてことだろうな、シメイ」
思い起こされる、目を奪われるような臥竜城の中の景色。
「ああいう連中は、自分たちのことを見下す人間に、一目で気づくんだぞ」
心の底から湧き上がる羞恥で、首が熱い。息すら上がりそうで、こらえた喉が鳴った。
まるで自分など存在しないかのように、誰も、声どころか、目すら寄越さない臥竜城の住人たち。
それが何故かと、その心情すら関心がなかったのではないか。
「まあいいじゃないか。みんな慣れてる、平気だよシメイ。アマキだってそうさ」
胸の奥が、ねじくれたように痛んだ。
「アマキなんか、余計にそうだ」
この男が、なにをこんなに笑っているのか、理解できない。
ふつふつと怒りが湧いた。
「知ってるか? もしかしたら、もう知ってるんじゃないか、シメイ。お前ならな」
グイ、と、肩を踏みつけられ、目を剥く。
自分を足蹴にしたことよりも、それを、自分を捕らえている部下の手ごと踏みつけられる感覚が理解できなかった。
「自分より弱いやつを
ああ、と、注意を促すような短い声をおいて、またモズがしゃがみ込んだ。
「違う違う。子供が友達をいじめて楽しむような、そんなちゃちなやつじゃない。やったことがない? そうか、今度やってみるといい。ちょうどいい相手もいるしな」
「は、……」
一瞬で、はらわたが煮えくり返った。
お前と一緒にされたくない、と、燃え上がる怒りが、まるで呪いを解いたように再びモズへと目を食いつかせる。
「もっと、性的な感覚だよ。抵抗するだけの力もないやつを、思った通りに痛めつけるってのは。セックスなんか目じゃない。想像した通りに上がる悲鳴ってのはなァ」
快感だ、と、うっとりと首が振られる。
気持ち悪い、とも。解る気がする、とも思った。
思ったことに、腹の底から寒気がした。
「まあでもな、シメイ」
声の色が変わって残念そうに区切り、もう聞きたくない、と、腹でうめく。
「よく考えるんだが、そんなの単なる本能だよな。こう……」
モズの手が、両手の指先をそっと合わせて、山のような形を作った。
「弱い奴を下に敷いていってさ。それより強いやつ、もっと強いやつが、その上に乗る。それを積み重ねていって、大きくて強い群れを作るんだ。そうじゃないと混乱しちゃうよな」
馬鹿か、と内心で罵り、面には出さない。そんな誰でも思いつく馬鹿の組織論か。
「それでだ、シメイ」
声で応えず、目だけを上げる。そうしようと思わなくとも、目は侮蔑で満ちて、この狂人を睨み上げた。
「アマキがそんな俺に言われて、ゴミクズどもを手にまで掛けるのは何故だと思う?」
「貴様が退路を断ってるんだろうが」
「残念、ハズレだ」
違うか、今のは正確じゃない。感情に任せすぎた、と、一旦つぐむ口が、二の句も次げなくなった。
「アマキは俺を守ってるんだ。あいつ自身の意思で」
しゃがんだ膝に頬杖をつき、モズの顔には頬笑みが浮かんでいる。
だが次には、ブーッと身を屈めて吹き出し、バンバンと激しく肩を叩かれた。
「あいつは俺を心配してるんだ。あんなに、あんなに酷く扱われてるのにな!」
怒りが沸点に達して、はらわたが煮え立ちきり、プツンと途切れて一気にすべてが冷えた。
「あのな」
自分でも聞いたことのない低く静かな声が出て、どこか遠くで驚いた。
眉を上げてモズが寄越す目を、気怠いように見つめ返す。
「どうやって成り上がったのか知ったこっちゃないが、基礎から教えてやるよ。なんなら正座して聞け、無学な下層階級が」
狂喜乱舞していた狂人の顔が、ピタッと正気のように目を据わらせた。
「動物の本能が人間にもあることなんか、初等学校の子供でも知ってる。大発見だと思ったか? 残念だったな。誰でも知ってるんだよ、自分の中に身勝手な本能があること、残酷な欲望があること、自分よりも弱いもの、立場の低いものを見下す醜いものがあること。基礎教育を終えるまでに身につけといてもらいたかった。ああ、教育を受けたのかどうか知らないな、失礼。その上で、人間は動物であることを超えて、社会を築くことを選んだから、契約するんだ。もう一度言おうか? 社会性はな、善悪や道徳じゃない。契約だ」
表情を変えず、だが、話を聞いているのが案外面白い。
「なにが罪かを定め、ふさわしい罰について協議して裁く。少し難しいか? 正義じゃない、法だ。善悪じゃない。神と悪魔じゃない。善良な民と悪徳の輩じゃない。規律の問題、ルールの話だ。他人の身体を傷つけないこと、他人の心を踏みにじらないことも」
怒りと呆れが、忙しなく入れ替わる。
「本能だと? 貴様のようなのは、単にしつけがなってなくて行儀の悪い、未熟な
まったく無反応にモズが立ち上がり、衝撃で視界が黒く落ちた。
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