第二十二話「欲望が心を蹴飛ばす」

 一度開いた口を閉じてから、苦く苦く唇を歪ませてミハルが笑った。

「こわかった……です」

 だろうね、と、笑って肩が揺れてしまった。

 ああ、この子が無事でよかった、と、あらためて大きく息をついた。

「死ぬのが怖くなったかな」

 ハッとしたよう、ミハルの笑みがなくなる。

「あ、あの……」

 短くない沈黙を肯定するよう、うん、と、声を落としてうなずく。

「わからなく、なったんですけど。でも、じゃあやっぱり、生きてる間の方が怖いんじゃないかって、……思いました」

 死んだらそれで終われるじゃないですか、と、小さな声が、切実な苦鳴を訴えた。

 やれやれ、と。うつむいたミハルに見えないのをいいことに、肩をすくめた。

「まだ生きてる時と、死んでしまった後、一番大きな違いは、続きがあるかどうかだと思う」

 僕ならね、と、真っ直ぐに見つめられる目を、見つめて返し。

「苦しくて怖いことが続くだけ、みたいに感じてしまうことも、多いけど。それを変えるチャンスがあるとしたら、生きてる間だけだ」

 キュ、と、音がしそうに結ばれる唇に、つい傾けようとした頷きを、やめておいた。

 もっと色んな人、友達や家族と色々話して、困った時や判断に迷う時は、大人に相談してほしい、と。結論はありきたりなものだが。

 うなずきを重ねる彼女に、少しは響いているとありがたい。

 学校の住人である彼らと、運営者である教師もまた、別世界に生きているのだとしても。



 一体なにをすればいいか、何ができるのか。それは彼の望むところだろうかと、繰り返し繰り返し、やめて諦める理由を探そうと、心が身を縮める。

 けれど、なによりも。

 胸に鼻先をこすりつける横顔、腕の中で寝ぼけていた彼を、取り戻すにはどうしたらと。欲望が心を蹴飛ばし、揺さぶった。

 あさましい、と、己を笑いながら、情報を集め、伝手をたどって歩き回る。

 手応えはなく目星はつかず、期待は打ち砕かれ続けた。

 散々うろうろと遠回りをして、過度な欲は捨て、それでも最後まで諦められないのは何か、と、的を絞った。

「やあ先生」

 バスを待つ淦門アカトの停留所で、横着けに寄せられた高級車の窓が下がって、外観だけは愛想のいい笑みを浮かべた顔が現れた。

 一瞬で沸き立つ怒りが強すぎて、かえって全身の血の気が引く。

「上へ? よければ乗っていかれますか」

 親切そうな台詞すら、横柄な響きがある。

 ありがとう、と、笑みで返し。自分と同じ焦げ茶の、モズの目を見つめ返した。

「偶然ですね。今日は、そちらをお訪ねしようと思ってたんです」

 貼り付けたようなモズの笑みが、歪む。

 形容しようのない違和感に、少し鳥肌が立った。

 不快を示しながら、強い喜びを押し殺したような、相反する感情がその顔に浮かんで。

「聞こえたか?」

 少し前に身を屈め、そんななんでもない台詞を、睦言のようにそっと囁く声。

 窓が上がってモズの顔が引っ込み、代わりに、命じられた助手席の男が車から降りて、自分の前に扉を開いた。

「どうぞ。一度はお招きしようと思っていた」

 後部座席の奥で足を組み上げ、モズが笑う。

「部下のに気づいて、ミハルを無事に送り届けてくれた、お礼をしないとね」

 ゾッと寒気を覚えながら、けれど収まらない怒りが、なお深くなった。



 テーブルに並べられる、大陸式の豪華な昼食を目で確かめて、鼻白んだ。

 国内回帰が盛り上がる波照ナズレでは、郷土料理や歴史の再現が流行で、富裕層の間でも最近は定着しつつある。

 時代後れの成金趣味だな、と、食堂の室内を遠慮なくぐるりと見渡した。

 通されたのは臥竜城に近い方ではなく、ミハルを見つけた、もう一回り小さな建物だった。

 広間というより一家族と、せいぜい友人を招く想定だろう食堂はそれほど大きくはなく、アンティークとして価値のありそうなテーブルセットも、六人掛けだろう、こぢんまりとしたものだ。

井戸イドのお孫さんにはつまらないだろうが、料理人の腕は保証する。それとも、食欲がないのかな」

 ナイフとフォークを操るモズに、ありがとう、と、型通りの礼儀を通し。

 テーブルの上に手を出すが、カトラリーに触れはしない。

 胃の辺りが歪んだ感じがした。

 井戸のお孫さん、だと?

「祖父をご存知でしたか。――失礼、なんとお呼びしたらいいだろう?」

 前菜を口に運ぶ口元が歪む。いや、笑んだのか。

「ただ“モズ”と」

「わかりました。では、僕も“シメイ”で構いません。後を継ぐのは父の次ですし、その時まで家らしきものが残っているかも分からないな」

 肩をすくめてみせ、食事の外側に置かれたグラスに目だけやった。

 水ですら、毒が入っていても驚かない。

「商売をしていて、イド家の名を知らない者はいないでしょう。後継者は家を継ぐまでに外で身を立てるという、古風な――失礼、堅実な家風なんかもね」

「父に才覚がないもので、祖父が商売を手放して、もうしばらく経つ。残ってるのはその“古風”な家と名ばかりですよ」

「どうかな。お孫さんはそうじゃなかったのかも知れないしね。今日は、どんなお話で?」

 うっとうしい。端から端まですべてが。

 家柄と金にまとわりつく下衆どもそっくりだ、と、肉を食い切るのに、わずかに歯を剥いたモズの顔を見つめた。

 その、狙いが読めない薄笑い以外は。

梁川ハリカワ天騎アマキを売ってくれ」

 優雅に動いていたモズの動きが止まり、張り付いていた笑みが消える。

 それから、ハハハハハ! と、こちらが驚くような大声で、弾かれたように笑った。

「これはこれは。ははは、いや、失礼」

 ナイフとフォークがテーブルに置かれ、空いた両手の指が絡まって組み合わされる。

「家も継いでいない孫息子が、お祖父様の金で人身売買か? お許しが下りるかな?」

「金の出所など、あなたの気に掛けるところじゃない。それとも、キレイな金以外はご覧になったことがないか」

 ピク、と、モズの眉が跳ねた。

「やあシメイ。――そもそも、アマキは商品じゃない」

 自分で収めてまた浮かべる笑みが、禍々しさを帯びる。

 黙って首をひねってみせた。

「和諒会の構成員ですらない。アマキと私は、親子のようなものだよ」

 初めて聞いた話のように、目を開いてみせ。半分は本気で、強張った身体から力を抜くように、息を吐いた。

「なにがそれを証明する?」

 肩をすくめるモズを、射抜くように見つめる。

「さあ。築いてきた絆かな。アレの母が亡くなってから、私が育ててきたんだ」

「孤児だったのか。まあ、孤児を引き取るのは、奥さんやお子さんが戸惑うだろうしな」

 またモズの表情が消えて、こちらは眉を上げてみせる。

 裏で情報を集めていたのは、向こうだけではない。あいにく、妻子の件からは大したカードは作れなかったが。

「それでは、その絆とやらは、いくらで手放してもらえそうだろう?」

「おい」

 歯を剥いて向けられる深い笑み。いや、もしかすると、元々、一度も笑っていなかったのかもしれない。

 なんだろう、と問うて返すよう、ゆっくりと首を傾ぐ。

「安く言うつもりはない。どのくらいだ? 採算の合わない臥竜城の経営が、ひとまず回るていどとか」

「まさか。あの木偶でくがどんな金食い虫だと思ってる」

 イド老が現役でもありえない、と、声を揺らして笑っている。

 答えず、続きを待つと示すよう肩をすくめた。

「ハッタリだな。――それに、何度も言わせるな。アマキを手放すつもりはない」

 たっぷりと間を置いてから、そうか、と思案するよう唇を撫でる。

「では、仕事をやめさせてくれ。汚れた身体で部屋に上げたくない」

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