第二十一話「扉」
「すごいな……。よく知ってるね」
アマキは、軽く眉を上げた。
「年寄りが話したがるからな。何回も聞いたし」
ああ……と。あのごちゃごちゃした臥竜城の片隅で、老人の話し相手になってやっているアマキを想像して、腹に落ちる。
でもだから、やっぱり、この若者の手を汚させるものが、許せない。
「お母さんのご親類とかいないのかな」
「ゴシンルイ?」
「ああ、家族とか親戚のこと。親子、兄弟、親の兄弟とか」
「知らねー」
口角を下げて、アマキが今度は肩をすくめる。
「最初は臥竜城じゃなく
本人がここにいるのだから、調べて辿ることはできそうにも思えた。
ああ、と、心当たりのような声をあげるアマキに、思わず期待して目を向けた。
「そうじゃなくて。調べた、つか、調べてもらったことはあるんだ。けど、そもそも俺に戸籍がない」
「えっ?」
言葉の意味が、まず理解できなかった。
戸籍を失う、という状況が、いくつか思い浮かぶ。
「どういうこと? 誰かが、知らない内にアマキの戸籍を誰かに渡したとか?」
まず思い浮かんだのがそれだった。
犯した犯罪から逃れようとする者や、他国から逃げてきて
「いや。最初からない」
「っ、?」
今度は、声にすらならなかった。
その、他国からの難民。身を潜めていた犯罪者。たとえば、彼の母が。
思い浮かぶが、とても、軽々しくは口に出来なかった。
どう言うべきか、次の言葉を選びあぐね、アマキの顔を見る。
静かに向けられている笑みに、少なからず動揺した。
「調べたし、探したことはある。和諒会には弁護士もいて、モズがその辺からけっこう詳しく調べてくれたんだけど」
動揺の上に、緊張がゆっくりと、覆ってくる。
「たぶん、そもそも生まれた時に届けが出てないんじゃないかって」
唖然としてしまう。だが、確かに。
生まれた子どもについて届けが出されない、それだけで、その子どもには戸籍がない状況になる。
聞いたことがないが、起こり得るのはすぐに解る。
そんな明らかな欠陥を、補填するものがないのだろうか。
「……なんでなのかは、判った?」
出す声も、思わず慎重になってしまう。あまりにも、自分の知識が足りない。
アー、と、声を浮かせながら、アマキが少し身を寛げて、目を上向けた。
「なんでなのかは、たぶん、もう俺しか知らねーな。どう言ったらいいか……」
固唾を呑むように、続きを待った。
「お袋がバカで、親父は卑怯者だったから」
短く、淡とした言い方に、冷や水を浴びせられたような心地がした。
「すげーガキの時だから、記憶がウソかもしんねーけど。たぶん、お袋は俺を産んだから山に帰れなくなって、親父は逃げた」
力が抜けて、その場に崩れ落ちたい気持ちだった。
なにが起こったのか、断言はできないが、察しがつくような話だった。
「アマキのお母さんは、サントだったんだ?」
たぶんね、と、和らいだ目が向けられて、胸が軋んだ。
「君のお父さん……」
単なる思いつきが浅はかすぎて言い淀むのを、ン? と促された。
「モズさんとか……」
ぶはっと、また噴き出された。だが多分、今度は敬称に笑ったわけではなさそうだった。
「ないない。どっちもクズだけど、種類が違えンだよ。モズはかんぜんに頭が変だけど、親父は単なる卑怯者」
そうか、と、理解したことだけは示して、口の中では歯噛みした。
「そんで、だから、俺はどこにも行けねーの」
その声に、吸い寄せられるよう振り返る。
向けられた声と笑みに、知らず目を瞠った。
きっとそういうものだろうと思い込んでいた先入観。
だが一度も目にしなかった荒んだ色が、今、ヘイゼルの瞳にも声にも、ありありと浮かんでいた。
そして、その瞳が、瞼の下に伏せられた。
「だからもう、俺には構わねえでくれ」
「っ、待ってくれ。そんなことは君自身に、」
「あのさ、シメイ」
明確な意図を持って遮られた言葉を、引っ込め。
「……俺、あんたといると、すげーシたくなんだけど」
一気に、心臓が跳ねて、そのままバクバクと躍り回っている。
「俺、四人殺してんだけど、あんたそれ聞いても勃起できるか?」
「――ッ」
想像だにしなかった視点に、思考がうまくまとまらない。
だが、肌を晒してベッドに身を投げ出す、アマキが、殺人犯だと知っていて、できるかと言われると。
その、まったく考えもしない切り口に、言葉が出ない。
それは。
「あんたと俺は、住む世界が違う」
使い古された、こんな聞き飽きたような言い回しが。
本当はこれほど、人間にはそれぞれ違う“住む世界”があることを、的確に言い表していたという発見が、鋭く胸を貫いた。
「なんか、ちょっと浮かれて忘れてたんだ。勃たねーだろとか言って、……黙っててヤラせて、悪かった」
言葉が出なかった。思い浮かぶ言葉も、ない。
何か言わなくては、と、そればかり思った。
行かせたくない。だが、ここに引き留めて、この無知さで、彼に何をしてやれるのか。
こんな風に突き放されるのは心外で、けれど、そちらに行けるのかと、問われれば。
立ち上がろうとする気配を追いかけるよう顔を上げて、思いがけず近い距離に目を瞠る。
「ごめん、シメイ」
顔を覗き込むよう、首を傾いで唇を重ねられ。
よけい身動きできなくなった。
走っている風でもないのに、振り返るともう、玄関の扉を開いて出て行くところで。
閉じていく扉の向こうで、フードを目深にかぶり直しているのが見えて、なにか、意味の解らない納得があった。
パタン、と。
音を立てて扉が閉じて。
最後に、唇に吹きかけられた吐息の熱さだけが、残っていた。
図書館に住みたい。
訪問者のない保健室で、積み上げた本のページをめくる。
蝉の声も、夏休み中の部活にいそしむ生徒たちの声も、遠い。もう窓を開いていられない気温で、カーテンも大人しく垂れ下がったままだ。
国籍、戸籍、住民登録についての法規、または戸籍を失う事例について探すが、これはと思うものにはなかなか当たらなかった。
むしろ、頭の痛くなるような事例の方が多い。
アマキから話を聞いたときに思い浮かべた、犯罪者や亡命者、それにスパイが戸籍を獲得しようとすることを想定した、成人の戸籍申請に対する厳重な扱いだ。
自分が執政者でも、簡単な手続きで得られる新生児戸籍を逃した者の拾い上げよりも、そのふりをして偽りの新規身分を獲得しようとする者を警戒するだろう。
本を閉じ、デスクにだらしなく頬杖をついてため息をついた。
たとえば方法があったとして、アマキが自分に付き合って和諒会から離れる手続きをしてくれるのか。
否であることは、想像にかたくない。
肩を落としたところで控えめなノックの音がして、本の背表紙をまとめて向こうに向けた。
「はい。どうぞ」
おずおずと扉を開いた生徒が、体操着ではないのが予想外で、眉を上げ。
失礼します、と足を踏み入れたミハルに、ああと思わず声が出た。
「どうしたの。部活? どこか痛めた?」
「あ、いえ。科学部は夏休み部活ないんです」
美術部じゃなく科学部だったか、と、するともなしにしていた想像が外れて、へえと頷いた。
どうぞ、と問診用の椅子をすすめ、自分もそちらに身を向けた。
「あの、この前はありがとうございました」
勢いよく、深々と下がる頭に、頬がゆるむ。
ついこないだのことなのに、ずいぶん懐かしい話を聞いた心地だった。
「どういたしまして。手分けして探してたからね、僕が見つけたのはたまたま」
はい、と、詳しい話を聞いたのだろう、ミハルが深くうなずいた。
「どうだった、夏休みの冒険は。少しは気分転換になったのかな」
上げたミハルの目が、まん丸で、こちらも同じような顔になってしまう。
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