第二十話「ハリカワアマキのこと」
静かにベッドを抜け出し、服を着込んで、後回しに積もっていた仕事に向かう。
デスクに向かい、ベッドの寝息をBGMにしていたつもりが、ふと違和感を感じて顔を上げると、すぐ隣に全裸のアマキが立っていた。
「あれ、」
ぼんやりと、仕事の手元を見ている。
「起きたの。まだ眠そうだよ」
手を伸ばして撫でる頬が、すりつけて返された。
「……ン。帰るよ、ジャマしちゃ悪ィ……」
「わかった」
帰したくない。
「駅まで送るよ」
ちょっと待ってね、と声を掛け、作業にきりをつけて立ち上がる。
腕時計と財布だけ身に着けながら、欠伸まじりに服を着込んでいるアマキを眺めた。
手早い彼の支度を待って、玄関で靴を履く。
後に続く彼に、平気? と、身体の様子を尋ね。
うん、と何でもなさそうに短い声が返るのは、寝ぼけてイッたことも覚えてないのかもしれない。
玄関の扉に手を掛けなければいけないことに、失望する。
抱き締めてキスしたい。
けれどもう、夜は明けてしまった。
しつこくガッカリしながら先に彼を通して、駅までの道を歩き始めた。
彼に会うために曖昧にしていた出勤を連絡して、と、巡らせる頭に、隣の生欠伸が入り込んで、振り返る。
引き留めたい思いを抑えるのに思考を取られて、雑談が出てこない。
遠回りすればよかったなあ、と、いつものくせで選んだ駅への最短距離を歩く目の先に、ふと、道の汚れが目に入った。
日に日に薄くなって、もうすぐ消えてしまうだろう、黒い
なんとなく靴先で少しこすってから、それを通り過ぎた。
「そういえば今通ったところで、変なことがあってさ」
「ン?」
歩きながらこちらを見る彼に、あの日見た光と、まだわずかに残っている煤と、すれ違った真っ黒な人影のことを話して聞かせる。
「それで、この暑いのに、あの真っ黒な服はたまらないだろうなと思って」
アマキの足が、止まる。
つられて止まるのが遅れて、一歩半分、振り返って彼を見た。
「うん?」
長い指が、厚みのある唇の前に持ち上げられ、小さくすぼまる唇が鋭く息を吹く。
「わ!? 冷たッ」
乾いた氷が顔に当たって、砕けて散ったような冷気。
目を丸くすると、アマキが笑った。
「火の龍だ。一番身近なやつ」
混乱が短い間つづき、答えを言わないアマキの顔を見ながら、ああ……! と、上げそうになる声を潜めた。
「そうなのか……!」
たぶん龍使いだろう、という意味かと、思い当たって少し昂揚した。
「アレ、あんただったのか」
「えっ」
「なんだ、やっぱ、どっかでそうなるってことだな」
表情は変わっていないのに、彼の笑みが陰っていくのは明らかだった。
ヘイゼルの瞳が真っ直ぐに向けられる。
けれど、どうしても、目が合っている気がしない。
「サツに何もできなくても、なんかはあるよな、そりゃ……」
瞼が伏せられ、癖毛の頭が項垂れて、瞳は見えなくなった。
パーカーから覗く肩は、大きく息をついてから、落ちる。
「アー……、……
「なに?」
アマキ、と呼ぼうとした声を遮るように再び上がる目が、今度は合う。
後ろに振り返り、アマキが顎で示したのが何かは分からない。来た道があるだけで、何も見当たらなかった。
「アレは、火の龍で全部燃やした跡だ。足が地面についてたから、どうしても、あそこだけ残っちまった」
そう聞いて、煤のことだとは気がついたが、それ以外はよく解らない。
振り向いて戻ってきた顔には、もう表情がなかった。
「俺が殺したやつが、あそこで燃え尽きて消えちまったんだよ」
開こうとした唇が何故かくっついて、開きづらく、だが、開いても言葉が出ない。
殺した? 誰を?
どういうことか、やっぱり理解できない。
見なかったはずなのに、黒尽くめの人物の目は、今、脳内でヘイゼルの瞳をしている。
「……いろいろ、親切にしてくれてありがとな」
立ち尽くす横を、するりと、足音のない歩みが擦り抜ける。
「もう来ないでくれ」
すれ違いざまに落とされた声は低く、押し殺して隠された色は、見えない。
「っ、待て!」
歯噛みしながら振り返り、手を伸ばして、肘の辺りを掴んだ。
「そんなの聞いて帰せるか!」
肩越しに振り返る顔が表情なくこちらを見てから、肘を掴んだ手を目で示す。
「……痛えよ」
ああ、ごめん。と、慌てて手を離し。けれど、肘ではなく手を、つかまえ直した。
「話を聞かせてくれ」
見つめる目が、あからさまに逸らされる。
「なんの」
「全部だ」
拒否されるか、あしらわれると思ったのに、返ってきたのは沈黙だった。
どこかに入ってゆっくり、という時ではない。
つかまえた手を引いて、また、来た道を戻る。
手を握り返しも、だけど振りほどきもしないで、項垂れたまま、アマキは大人しくついてきた。
ベッドに座らせて、自分はその向かいに椅子を運ぼうとしたところで、ズルズルと滑り落ちて、アマキは床に座り込んだ。
息をついて、椅子は放り出し、その斜め向かいあたりに自分も腰を下ろす。
「どっから話そうか……」
はあ、と、もう一度大きく息をついた。
立てた膝の上に腕を投げ出し、うつむいたアマキは微動だにしない。
「殺したって、……誰を?」
「……。誰?」
「うん?」
沈黙が落ちて、少し考え込んだ。
なにも理解していないことを、人から聞き出すのは難しい。
「間違ってたら、訂正してくれていいよ。君の話を聞きたいんだ」
答えはなくて、溜息を腹に隠した。
「誰か殺したのか。誰を?」
「……なんで“誰”なのか知りたいのか、分かんねーンだけど。殺したのは、モズの敵だ」
唸りそうになる。
まったく話が見えない、と、思いかけ、その、珍しい名前をどこで聞いたのか、急に思い出した。
「――そうか。そうか、……よく考えたらそうだな。アマキは、
ミハルを隠していた、あの気味の悪い男だ。
車に乗っていた二人の男を叩きのめしたわけではなく、アマキはあの時、誰かと話をつけたようなことを言っていた。
その名が確か、モズだ。
向こうでも息をついた気配はするが、まだ、顔は上がらない。
「ほんとは、和諒会に入ったわけじゃねーンだけど。けど、そう。仕事は大体モズからもらうから、俺とモズと、先生以外にとっちゃ、俺は“和諒会のやつ”だと思う」
俺と、モズと、先生と聞いて。もう関係なくなったと、捨てかけていた記憶を拾い出し、頭にもちゃんと顔を思い浮かべられた。
「なるほど……」
情報が渦巻く額を、掌で押さえる。
ヤクザは本当に、手の着けられないクズだ。と、まず湧き上がってくる怒りを腹に押し戻した。
まだ十九の子に、金をやって人殺しをさせるなんて。
当然の手続きなら、警察に自首させて保護を求めて、身柄は自分が引き受けるあたりだが。
アマキが龍使いだということが、話をややこしくしている。
被害者が、たぶん二度と見つからない。
モズとかいう男の、あの、感情のない薄笑いが脳裏に浮かんで、歯噛みした。
「ああ、そうか」
顔を上げると、意外にも、こちらを見ていたアマキと目が合った。
なに、と言う風に眉を上げる表情に、全身から力が抜ける。
「モズって人は、アマキが龍使いだって知ってるんだな」
「ああ、うん。お袋がたぶん死んでから、俺を拾ってくれたのがモズで。龍の力が出たのはそれより後だから、知ってる」
また言葉を失ってしまう。
息を吐いて、もう一度、今聞いた情報を入れ直した。
「お母さん、亡くなったのか」
「……たぶん」
多分? と、深く尋ねるのもためらわれるような内容だ。首だけをひねってみせ。
大丈夫とでも言うように、アマキがうなずく。
「元は
聞いてるこちらの方が、正直、心が折れそうになる。
「そうか……大変だったな」
胸がしぼむような心地で絞り出した声に、何故か、アマキは吐息で笑った。
「そうだな。まだガキだったから、どうしたらいいか分かんなくて困った」
「……何年くらい前?」
「何年だ。ええと、十一の時」
「っ、」
目の奥が痛くなるのを、歯噛みして堪えた。
彼を、抱き締めて泣ければよかった。
けれどもう遅い、八年も遅い。
手で口を覆い、震える息を落ち着かせるのに、少し時間を取った。
「それで今は、モズさんから、……敵を消す仕事を頼まれて食べてるってことか」
んふっ、と詰まってから横を向いて笑っているアマキに、目を丸くしてしまう。
「悪ィ、いや、モズ“さん”って……」
ああ何か、彼にはどんな風に聞こえたのか、予想はつくが。
額を押さえてしまう。
「わかった。モズな、モズ。僕だってさん付けて呼びたくない」
「悪かったって」
笑うと、口元やまなじりにくしゃっと皺が浮いて、可愛い。
仕方ない息を吐いて、肩をすくめた。
「水道の仕事も和諒会だ。臥竜城は、半分くらいは和諒会のモンだと思う」
「ほんとに!?」
「うん」
よく知らねーンだけど、と、アマキが前置きして話してくれた内容によれば、複雑で長い臥竜城区の歴史には、思ったよりも古いらしい和諒会が常に関わっていたようだ。
近い歴史でいえば、戦争で占領を受けた臥竜城が別荘地として作り替えられ、だが、それほど隆盛しない内に占領が終わって売りに出され、そのほとんどを和諒会が買った。という経緯らしかった。
いくらか残っていた城の跡と、人の居なくなった後を、行き場のない人に宛てがった。
まるで慈善事業のように聞こえるが、そうではない。
建物よりも多く、次々に人を受け入れ、住むところにあぶれた人達が路上や城砦跡で寝起きしはじめる。
和諒会はそれを排除せず、放置した。あるいは、手を貸しすらしたのかもしれない。
家と家の間に風雨をしのぐ屋根や壁が置かれ、誰かがそれを補強し、充分な足場となると見た別の誰かが、そこに階段と上階をつくってしまう。
混乱を積み重ねたような違法建築ができていくのに、耐えられない者は逃げだし、行き場のない者はとどまり、また、噂を聞いて似たような者が集まっていった。
だから、つまり、たぶん、と不安定に接続されながら、時を行きつ戻りつして。だが充分に、聞く者に理解させるアマキの話に、取りあえず手放しに圧倒された。
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