第十七話「欲しいもの」
駅に着くのが惜しいな、と、ぬるいことを考えた横で、アマキの足が止まった。
「なあ」
「うん?」
おっと、と、彼を置いていきそうになった足を、こちらも止める。
「なんか、辞書もらってメシ食わしてもらって、連れてきてもらって、アレなんだけど」
「うん」
街灯が少し遠くて、額を伏せた彼の表情は読み取れない。
「何したら、こないだみたいにしてくれる?」
思考が、いっそ驚きで固まったらまだよかった。
「俺の部屋でしたみたいなの。……なんだっけ、缶詰くれた時か」
少しうつむいた顔が上がらないまま、なんだ俺、もらってばっかか、と笑っている。
手を伸ばして、頬に触れただけで、全身がしびれるような感覚が走った。
欲望と葛藤と見栄と、言い訳と弁明と、言語化されるより早い感情が駆け巡って、言葉が遅れる。
「……なんでもしてあげるよ」
自分でも思わない湿った声が出て、気味が悪い。
ようやく上がった顔に差す光が遠いせいで、ヘイゼルの瞳だけが際立って見えた。
「……なんで」
笑みを作って、歯噛みする思いで、言葉を探した。頭に浮かぶ言葉を置き換える、別の言葉を。
「もっと、君が太るとこを見たいから」
十九の若さを、一晩より長く繋ぎ止めるほど、意気地がない。
ふっと、相好を崩してアマキが笑った。
「意味わかんねーんだけど」
一晩でも充分に図々しいに違いない。
いや、今ここに、こうしていることが、意気地がない割にはあまりにも。
計画的だったか、下心があったんだったっけ。
そもそも市立図書館の場所が。
「俺の部屋、この近くだから。おいで」
手を取って、歩き出す。
自分の欲望が気持ち悪すぎるが、自己嫌悪も良識も年の差も、この状況で欲望に勝てるはずがない。
「おっ、おれって言った」
「エッ今俺って言った?」
真っ赤になっているだろう顔が、暗くて見えないだろうことが幸いだ。
欲望が気持ち悪いの上に、めちゃくちゃ色気を出してしまって恥ずかしい、が、積み重なった。
マジかーつれえ、と、部屋に上がって室内を見回すアマキの姿を見ながら、振り返らず後ろ手に玄関の鍵を閉めた。
「やっぱ金持ちだったな」
頭を後ろにひねって振り返るアマキの、肩をつかんで笑ってみせた。
「ここはそうでもないけど。大人を甘く見るなって言っただろ」
実家の話はもっと先だなとか、頭に浮かぶあれこれも、全部、退いて消えていく。
胸に当たる骨張った肩の感触とか、首を屈めて寄せる唇を、受け止める唇の吐息なんかに負けて。
先に弾みはじめるアマキの吐息に、微かに声が混じる。
身体が勝手に距離を潰したがって、肩から胸を大きく抱いて閉じ込め。巻き付ける腕の中、窮屈そうに身をよじられ、ゆるめてやるのに、やたらに理性がいる。
解いてやった腕の中で細い身体が振り返って、胸を擦り付けてきて。それでも、それよりも早く、離れた唇を互いに求めて、また絡める方が先になった。
うなじに腕が絡みついてくると、首から耳、彼の肌が触れたところに遅れて痺れが通った。
辛うじて爪を立てていない、というくらいに強く、指を食い込ませながら痩躯を探っては掻き寄せ。
「は、ぁ」
息をつこうと浮かせ、甘い声をこぼす唇を、忙しなく追いかけてまた塞ぐ。
ボトムス越しに彼の勃起を感じて、小さな尻を掴む。引き寄せて、擦りつけさせるよう捏ね回してやると、淡い悲鳴が鼻から抜けるのが聞こえた。
「 、は、シメイ、待って、ちょっと……」
胸を仰け反って逃れようとする身体に、歯噛みする思いで腕を緩めても、それ以上は押さえられなくて、首筋に鼻面を押し込んだ。
太く浮き出した筋に唇をつけ、吸い上げないよう丁寧にしゃぶる。
「どのくらい?」
「っ、のくら、って……」
困った声まで甘えた色で、応じるふりをしたくせに少しも待てず、尻と腰で抱えるようにしてベッドに連れ込んだ。
シーツの上に引き倒して、身体中まさぐりながら耳から首から、襟口からのぞく鎖骨まで、舌と唇を這わせ。
「ぁっ、なあ、頼む、てば、」
弱ったような声は、けれど笑っていて、なかなか理性を引きずり出せず。
風呂を使わせてくれと三度ねだられてようやく、己を一旦押さえ込んだ。
シャワーの使い方を教えたら目を輝かせていたから、たとえば面白がって遊んでくれたら、その間に頭を冷やせるかもしれない。
そんな馬鹿なことを考えている時点でもう、大分手遅れだと薄々は気づいていたが。
部屋に来いとアマキの手を取る前、どうして何を悩んでいたのだったか思い出せない。
待てと言われてヨシを待っている犬にしか過ぎず、ベッドに腰掛けて、ただ己の血潮を聞いていた。
「悪ィ、待たせて」
軽く髪を絞りながら出てくる身体が全裸で、女神が降臨したのかと思った。
「いや」
待ち伏せるよう、手を広げて立ち上がらない。招く意図を汲むよう、膝を跨いでベッドに上がってくるカフェオレ色の背を抱き寄せた。
「ごめんな、さっきはちょっと乱暴だった」
胸の、筋肉が交わるくぼみの辺りに唇を埋めて、柔らかく吸い上げてやると肌が震えた。
ンン? と、笑う声が降ってくる。
「ぜんぜん平気。……なあ、」
うん? と、今度はこちらが鼻先で問い返した。
「嫌だって言ったら、やめてくれる?」
思いがけない言葉に、顔を上げて。
屈託のない笑みを浮かべている女神に、託宣を下された騎士のように真剣にうなずいた。
「ブレーキが遅いと思ったら殴っても蹴っても構わないけど」
ゆるく肩に預けられている手を片方取って、指の背にくちづける。
「必ずやめる。約束する、君を傷つけない」
返らない答えに顔を上げて、初めて見る赤面に、思わず頬がくずれた。
「や……そんな……おおげさなつもりじゃ……」
ねえんだけど、と口の中でもごもご言っているのを、聞き取ろうと耳をそばだて、顔を見つめる。
「あーの、……俺が相手でもできるくらいでいいんだけど、」
一度聞いただけでは意味が分からず、何度か頭の中で繰り返してみて、嫌がるだろうと思って、と言われたのを思い出した。
「手加減なしでいいよって思って……」
なんとなく意図が錯綜するような言い方に、うん、と、まとめて引き受けるようにうなずいた。
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