第十六話「川の向こう」

「物知りだもんな」

 どうかなあ、と、今度はこちらが首をひねる。

 大事そうにアマキが辞書をしまう木箱を、そう開くのか……と戸口から眺めた。

 てっきり上に開くか、蓋だと思っていたが、前開きの開き戸だった。

「入れば?」

 しゃがんだまま肩越しに振り返るアマキに、いや、と身を起こす。

「今日は長居せずに帰るよ」

「ふーん? 忙しいのか」

 この、間口をくぐり抜け、靴を脱いで部屋に上がったら。

 何かがあふれそうだから。とは、言えずに。

「辞書をあげようと思ったのと、今度、きみに時間がある時にでも出掛けないか誘いに」

「どこに?」

 立ち上がってすぐそばまで来てくれる彼を、少し見上げた。土間の分、今はこちらの方が低い。

「どこにしようかな。おすすめの店も色々あるけど、アマキを腹一杯にさせたいから、川向こうの露店街でもいいかな」

「金がなくなるぜ」

 ニヤッと、キレイに片側だけ吊り上がる悪い笑みが様になっていて、笑ってしまう。

「大丈夫。大人を甘くみるもんじゃないよ」

 フッフ、と、吐息を抜くような笑いが返って、目の前の表情が変わる。

 笑みだが、限りなく無表情に近い。

「なんで?」

 探る色の瞳を真っ向から向け、短い言葉で問いただされる、真意。

 返す笑みはもしかしたら、同じような表情なのかもしれない。少しでも、上をいけていると思いたいが。

「君を太らせたいなと思って」

「なんだそれ」

 冗談のように言えば、冗談を聞いたように笑ってくれる。

 通じたのかは分からない。いや、今、拒んだのは自分か。

 喉がヒリついた。

「じゃあ今から行く」

「えっ今から?」

 留まっていた空気が割れて、蝉の声が遠くで聞こえる。

「今ヒマだし、明日ヒマか分かんねーし。あそっか、シメイが忙しいんだっけ」

「いや、こっちは大丈夫」

 仕事が溜まり始めているが、スケジュールを詰めればなんとか。

 駄目すぎる、と思うのに、止まれない。

「ちょっと待ってて。ビッショビショだから着替える」

 返事を聞かずに部屋の中に戻るアマキに、うんと答え、開き放しだった扉を閉じた。

 間口の壁に適当に寄り掛かり、眼福と拷問を同時に享受して、背を向けて着替える若い虎を見つめる。

 下着まで替える必要あるだろうか。実はわざとやってるんじゃないだろうな、と、己の愚かさを嘲笑って遊び。

 最初に会った時と同じ、袖なしのパーカーと色褪せたボトムスでサッパリした顔のアマキが振り返るのを、迎えた笑みが五才くらい老けたかもしれない。


 住居と勤務先のある八百石ヤオイシ区には、規模としては珍しく露店街がない。

 大規模な商業区の門前トマエ区があるのも理由だろうが、区の発展自体が遅かった、比較的新しい街なのが理由としては大きい。

 隣の歴史ある開扇カイセン市に比べると目立った特徴もなく、こざっぱりして中途半端で、住みやすい。

 が。若い欠食の虎を太らせるにはやはり門前トマエの方だ。

 門前に限らず波照ナズレ名物として名高い鶏のスパイス揚げをおかずに、豚の角煮丼を頬張っているアマキを眺める。

 露店から持ち出して適当に座って食べるスタイルの一角で、四人掛けだろうテーブルに二人で陣取っても、そのテーブルの上はあふれんばかりだった。

 唐揚げ、かも、豚肉の料理が多いが、牛もあるし、野菜炒めにスープ、麺類、なんでもござれだ。

 野菜を巻き込んだ卵焼きをかじりながら、大きな口が次々と料理を平らげていくのを見学する。

「食わねーの」

「食ってる食ってる」

 君ほどじゃないけど、と笑った。

 全然少ない量ではない、カリカリに焼いた平たい餅だの、肉を炊き込んだおこわだので腹を満たしていく。

 食後のコーヒーを買いに席を立てば、俺もほしいというリクエストをたまわって。

 二人分のコーヒーを運んで戻ってくると、あれほどあった皿がほとんど空になっている。

「ほんっとにすごいな、その身体のどこに入ったの?」

「……全身……」

 すげー食った……と呆然とするアマキの表情に、声を立てて笑った。


 満腹に追い打ちをかける、露店街の雑多な香りから身を守るように、コーヒーのカップに目を伏せる。

 アー…、と、至福の声を垂らしながら、だらしなくテーブルに肘をついているアマキを微笑ましく見て。

 太陽が頂点を過ぎた空を見上げ、空の手首を見て、そうだったと腕をこすった。

 臥竜城に向かうのに、貴金属はやめようと、時計をつけずに来ていた。

「まだたぶん時間あるから、散歩がてら八百石まで行ってみる?」

 ン? と、アマキがコーヒーから目を上げた。

「図書館があるんだ。たぶん、臥竜城からは一番近いはず」

「トショカン……」

 鸚鵡おうむがえしの声が返って、おっ意外、と眉を上げた。

「本がたくさんあるところ。色んな人が本を読んだり借りたり」

「アー、図書館」

 なにかに思い当たったらしい様子に、そうそ、と簡単なうなずきで応じた。

 少し思案する風な顔に、引っ張り回しすぎかな、と返答を待って。

「……身分、証、がない」

 ああ、と、もう一度うなずいて返す。

「見るだけでも、中で本を読むのも市民カードいらないよ。というか、臥竜城区は市が違うから、どっちにしても貸し出しはできないんだけど」

 利用者としては当たり前の感覚だが、図書館という言葉がとっさに思い出せない距離感だと、違うらしい。

 首をひねっているアマキに、どう説明しようかと、こちらも目がうろつく。

「ええとね」

 他県までは分からないが、少なくともこの閉扇トセン市と隣の開扇カイセン市では共通の、市立図書館の利用法について説明する。

「……すげえ。そんなことできんのか」

 治安がいいからね、という言葉は、飲み込んだ。

「まあ一案だから、他でもいいしね。服見るとか、カフェ行くとか、ぶらぶら歩いて何もしないのでも」

「いや、行きたい。図書館」

「うん、わかった」

「たぶん、あんたと一緒の時じゃなかったら、行かねーし」

 笑っているが物憂げな表情は、恋するものには重い。

 行けばいいのに、と、中身のない言葉を口にしながら、二人で席を立った。


 これを見たかったんだ、と、思う。

 図書館の建物を見上げた時から、アマキは一言も口をきかなくなった。

 特徴の乏しい閉扇トセン市では数少ない自慢の建物の中で、分類され整列され、その構成自体がアートのようにそびえる書棚に、ひしめく本たち。

 書棚の前で数歩ごとに足を止めて背表紙を読み、掲示に気づいては分類法についてじっくりと目で追う。

 イベントのお知らせに目を通し、自習室の利用方法を読み、あちこちに設置された読書スペースで本を手にする人々を遠くから眺め。

 誰も視線を寄越さない静寂の空間を、足音も控えるようスニーカーの足がゆっくりと泳ぐ。

 初めてアマキが手を伸ばし、触れた本を引き出したのは、ずいぶん歩いた後だった。

 パラパラとページをめくって、また元に戻し。

 それでもまだ、こちらに振り返りもしない。

 こちらも黙って、適当に椅子に腰掛けて遠くから眺めたり、また近くにいって彼が何の本棚で足を止めたのか確かめたりして過ごした。

 録音らしい閉館の案内が放送され、そうかと顔を上げる。

 すっかり少なくなった利用者たちの足に紛れるよう、走ってくるアマキに、歩いて、歩いてと合図して迎え。

 何度も大きな息をつくアマキと、暗くなった道を並んで歩きはじめた。


「悪ィ……夢中で……」

「日が沈むのが早くなってきたよね」

 それでも、川向こうの淦門アカトまでの鉄道はまだあるだろうし、自分と違って彼は、バスの便が終わっても平気ではありそうだ。

「なんか、本屋みたいなの想像してたんだけど、全然すげー……」

「臥竜城の本屋は、あれはあれですごいよ」

 そもそも臥竜城にも本屋があることもすごい、とは、きっと一番の顧客だろう彼の前では言わず。

「けど、やっぱ一人じゃアレだし、俺が買わなくなったら本屋がつぶれるってのもヤだしな」

「それは確かに。まあ、本屋に読む本がない時なんかはいいかも?」

「ああー。そうか、そうだな」

「外で仕事することもあるんだっけ。仕事の種類によっては就業証明が出せるだろうから、図書カード作る方法もあるかもなあ」

「そうなんだ?」

「うん。確か、閉扇市に居住または就業中って条件で作れたはず」

 沈黙が落ちるのに、住んでる人か、閉扇市に来て働いてる人ってことだね、と説明を加え。

 あーと理解の声が返ったあとは、また少し沈黙が続いて。

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