第十五話「向こう岸へ渡るため」
「何の仕事? 見に行ってもかまわない?」
裾を整えながら丸くした目を向けられ、首を傾げて返す。
「……あんた、もの好きだな」
別にいいけどジャマすんなよ、と、押される念に、わかったと大人しく答えておいた。
好奇心が強いのは否定できないが、多分、普段だったら、相手が彼でなければ、わざわざ仕事の見学など申し出なかった。
もう少し彼を見て、彼と話していたいと気づいていて。
面映ゆく、それに、かなり気が重かった。
「うわっ、さすが……」
だいぶ見覚えのあるリールから伸びるロープは、近くで見れば金属製のワイヤーを束ねて
フックは鉄柱のようなものを一回りして外れないよう引っ掛けられ、逆の端はタイガーの身体をあちこち支えるベルトのようなものに接続されていた。
器用にそれを伸ばしては止め、壁を伝って降りていき、しかも壁の途中にワイヤーと両足だけで留まっては、這い回るパイプのうち一本だけを交換する。
作業風景を見るために身を乗り出しても、数十秒もそうしていられない。
異なる床材や壁を貼り合わせた、足元が心許ないのだ。
「シメーイ、出してくれー」
「はーい」
なにか、笑われたような気がしながら、降りる前に指示されていたハンドルを回す。
しばらくすると何か、聞き取れないくらい早口の罵倒が聞こえて、怒鳴り声にしたがってハンドルをまた逆に回した。
結局、予定外の修理箇所が他に三つあったようで、タイガーがずぶ濡れで上に戻ってくる頃には、辺りが暗くなり始めていた。
ああもう、と、ぶつぶつ言っている彼に手を差し出し、錆だらけの柵を乗り越えるのを手伝った。
「水道屋」
「ン?」
「水道屋って、誰かが呼んでた気がするな」
「アー、呼ばれるよ」
後ろに撫でつけるように髪を絞ると、額を出した横顔は思ったよりも精悍だ。
当然だな、と、見つめる先で、ヘイゼルの瞳だけがこちらを向いて、眉を上げた。
養護教諭もはたから見えるほど暇ではないが、これは、全く比べものにならない。
「背中の刺青からタイガーで、水道を直すから水道屋で」
「うん」
こんなことに少し緊張するのは、全然、恋の喜びだけではない。
「名前はなんていうんだ?」
少し迷ってから、厚みのある唇が緩んだ。
「アマキ。
風呂行きてえーとシャツの腹を絞っている横を、風呂まであるのかと驚きながら歩く。
「……いくつ?」
「十九」
つんのめって階段から転げ落ちそうになった。
「足元見ろよ」
「……そうだよね」
頭を抱えるのは内心に留めておいて、足元を見て歩く。
あまり見えない気がして、隣の足に遅れて歩調を合わせた。
「いくつ?」
「……三十一です」
へーと、関心無さそうに返される声。
まあ、仕方ない。可能性を考えるのもおこがましい、と、せめて腹の中だけで、盛大なため息をついた。
そして、また五日と空けず足を運んでしまった臥竜城を見上げた。
つきあきた溜息をつくのをやめて、複雑な通路と階段を間違わずに通り抜け、扉をノックする。
返事がないので声を掛け、扉を開いてみるが、部屋の中にも姿は見えなかった。
「タイガーなら外でタマケリだ」
どこかから聞こえた声に、辺りを見回す。
「中突っ切っ……たら、あんたじゃ分かンねえか。いっぺん外出て海の方まわれ」
先より長い言葉で方角が絞れて、声を頼りに上を見上げた。
すべて塞がっていると思った廊下の天井は、真上より少し奥が吹き抜けのようになっている。
何故そこに窓を、と思う壁の半ばから肘と顔をはみ出させ、上階の住人らしき痩せた男の姿が見えた。
「ありがとう。行ってみるよ」
声を上げるが返答はなく、だが煙草をくゆらせながら、なんとなくまだ見られている気がして、あまり居心地はよくない。
でも、初めて話しかけられたな、と思いながら、一度城を出てあっちかこっちかと歩いた。
来たのとは反対の方に回ると、にぎやかな声が少し聞こえてきて、足を早める。
それほどしない内に、幅広い年齢の少年少女たちが、声を上げながら弾みの悪いボールを蹴って遊んでいる場所に出た。
初等学校くらいの子も何人かいて、タイガーはそれなら最年長かな、と観察する。
よく考えれば当然だったか、ボールの運び方や声のかけ方を見れば、子供に交じって遊んでいるわけではなく、彼らの相手をしてやっているという方が近そうだ。
ボールを操り子供たちに群がられ、何か笑いながらそれを別の子供に蹴り出している姿を、それもそうかと見つめる。
彼の運動神経では、ちょっと、子供と本気で遊ぶわけにはいかないかもしれない。
手に持った彼へのお土産で日陰を作りながら、声を掛けずにその光景を眺めた。
それほど経たずに彼がこちらに気づき、子供らに声を掛けてから走ってくる。
うわ走ってきた。可愛い。と、喜んでしまって、顔を覆った。
「シメイ。声かけりゃいいのに」
突っ立ってっと倒れるぞ、と笑う顔に、ああと。自分の名前を呼ばれて思い出す。
そう、つい。さっきそう聞いたのもあって、彼をタイガーだと覚えていたが。
「アマキ」
「ン?」
シャツの裾で顔の汗を拭いている彼に見惚れながら、もう名前を知っていたのだったと噛み締めた。
「大した用じゃないんだ。これ、僕が使ってた古いやつだけど、取りあえず」
物足りなくなったら新しいのとか、大きいのとかもあるよ、と二冊の辞書を差し出した。
言葉の意味を調べる標準的なものと、字の形や並びから調べられるものと、二種類。
初級用がいいかと思ったが、独学で古典小説を読み始めるタイプだと、すぐに物足りなくなるかもしれない。考えて、自分が同じくらいの年に使っていたものを持ってきた。
本? 重い! と、受け取ってパラパラめくり、ああ! と声を上げる。
「名前が出てこねー。あーそっか、そうか」
「辞書?」
「あーそう、辞書だっけ。そっか、これに書いてあンのか」
うわーすげーと、予想よりも目を輝かせてくれる様子に、こちらの頬も緩まずにはいられない。
「ありがとう。借りてていいのか?」
「いや、あげようと思って持ってきたんだ。別のを持ってて、それは今使ってないから」
「マジッか! すげー! ありがとう!」
両手で辞書を抱え、ドンと胸に頭突きされて、思わずむせる。
痛いのはたぶん、頭蓋骨があたった胸の骨でもない。
乱暴だなあと笑ってごまかしながら、部屋に持っていくという彼と、並んで歩き出し。
「本屋には辞書置いてないのか」
一度見たきりで、さすがに蔵書の内容までは覚えていない。臥竜城ではどんな本が人気なのかと、ぼんやり考えたりして。
「全部読んでっけど辞書なかったな、たぶん」
でも前読んだやつもっかい読もうかな、と、抱えた辞書を嬉しげに見ている横顔を、目を剥いて見た。
「全部!? あそこにあった本を全部読んだの!?」
ン? と、上がる顔が、なんでもないようにうなずいた。
「意味わかんねーとか字がわかんねーとかあるけど、いちおう、最初から最後まで、全部」
なかなか見ない敷地の狭さと、だが壁一面を埋める本棚の密度を考えれば、たぶん、五百冊近い本が並べてあったはずだ。
研究や勉強で資料を多く使ったり、趣味で読書をする人間からいえば、多読というほどではないが。
十九で、就学せず、肉体労働に従事しながら、と思えば、素直に驚嘆した。
「それはすごい……。ほんとにすごいと思うよ……」
なんだよ、と口を尖らせるのはたぶん、照れもあるのだろう。
「べつにえらくねーよ。好きで読んでて、しかも好きで読んでンのに分かってねーとか」
「ああ、読んでても解らないことあるよね。訊いてくれたら、もしかしたら、多少は答えられる、かも」
語尾が段々弱気になって、苦笑いしてしまう。
ただ真面目なばかりで勤勉というほどでもなく、こういう、本や、世界や、才能の方から選ばれた人にはどうしても気後れしがちだ。
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