第十一話「ふたたび虎の巣」

「ミハル!」

 先生、せんせい、と、立ち上がれず地面に両手までついているミハルは、ぐしゃぐしゃに泣き崩れていた。

「タイガー! ありがとう、」

 ミハルに駆け寄りながら、顔を向けるが。

 まるで何事もなかったかのように、彼はフードを目深にかぶり直し、ポケットに両手を突っ込んで歩き出していた。

「ちょっ、待ってくれ、礼くらい言わせてくれ!」

 まるで聞こえていないかのように、そのまま淡々と歩いていく彼を、もちろん追いはしない。

 改めて彼を訪れようと決め、ミハルのそばに屈み込んだ。

「大丈夫か、怪我は?」

「してない、してないです……ごめんなさい、先生、ごめんなさい……」

 ぼろぼろのぐずぐず、といったていのミハルを抱き締め、背中を撫でてなだめてやる。

「もう大丈夫。大丈夫、家に帰ろうな」

 はい、と答える声も崩れそうな泣き声に、こちらもドッと疲れが出て、身が砕けそうな思いだった。



 重い荷物を抱えて、バスを降りた。

 和諒会の目前を通ると分かっているのに、バスを選ぶのはどうかとも考えたが、彼らが自分に復讐する気なら、家の前を避けたくらいでは何にもならないだろう。

 すぐに行こう、すぐに行こうと思いながら、学校への報告や警察の聴取などに時間を取られ、三日空いてしまった。

 彼らを真似た服装で行ってみようかと考えたが、金の匂いのする川向こうの男に“馬鹿な”がつくだけのような気がして、これもやめた。

 立ち止まらず歩きながら、姿を現す臥竜がりゅうを見上げた。

 先日よりは少し、ここがどんなところかも解っている。

 多分ここを上がって、ここを曲がれば、と、何度か間違いを繰り返し、通り過ぎる人々のうさんくさそうな視線を浴びながら、見覚えのある一角へと辿り着く。

 ノックに返答のない扉を、迷ってから開いた。

「タイガー?」

 足を踏み入れれば一望できる小さな部屋だ、目の前に居るのに声も返さないタイガーの姿に、すぐに気がついた。

 一斗缶の椅子に座らず、それに背を預けて片膝を抱え、気怠い様子で隣の木箱にもたれかかっている。

 許しを得るのを待たず上がり込み、眠っているのだろうかと、そのそばに屈み込んだ。

「……なんだよ」

 フードに陰る瞼が持ち上がり、ヘイゼルの瞳がジロリとこちらを睨む。

「お礼を言いに。君のお陰でミハルは無事に家に帰れたよ、ありがとう」

 あァそうとすら、答えない。

「……殴られなかったか。すまなかった」

 間を置いて、肉厚の唇だけが皮肉っぽく笑みの形になって、微かな息を吐いた。

「殴られたに決まってンだろ」

「そうか、迷惑かけた。けど、本当に助かった。ありがとう」

 肩をすくめるだけのタイガーに、知らず、大きく息をついてしまった。

「お礼ってわけじゃないけど、お土産を持ってきたんだ」

 ガラリ、と、重い音を立てるバッグを彼との間に開いてみせる。

 ようやく、目を開いて顔を向けてくれて、隠すように胸を撫で下ろした。

「なに」

「缶詰だ。瓶もあるけど。冷蔵庫がなさそうだから、常温で保存できる食べ物があれば便利かと思って」

「……ムカつくなァ、あんた」

「えっ」

 床に片手を着いてバッグを覗き込んでいるタイガーの顔を、慌てて見る。

 強張りが解けきってはいないが、皮肉っぽさの残っていない笑顔だった。

「絶対ェ二度と関わらねえ、次会ったら泣くまで殴ってやるって思ってたのに」

「……それは……痛そうだね……」

 最初に会った時、六人の男達をあっという間に殴り倒し蹴り倒してしまった彼を思い出した。

 何発耐えられるかな……と、現実逃避のように考え。

「ありがとう。正直、これが一番嬉しいわ」

 よかった……と、今度は隠さず胸を撫で下ろし、大きくため息をつくと、タイガーが笑う。

 肉や魚、粥や豆の缶詰、瓶詰めを取り出しては積み上げる彼を少し眺め。

 あっと思わず上げる声に、ン? と、ヘイゼルの瞳が向いた。

「皿も箸も忘れてた」

 洗い場もなさそうだ。使い捨てのものを入れればよかった、と、腹の内でうなってしまう。

「皿なんかいらねーよ」

 中身のが大事、と、肉の煮込みの缶を持ち上げて目を細める彼に、それもそうか、とひとまず収めた。

 円筒状の商店街には箸でもフォークでもありそうだし、彼の言う通り、缶や瓶から直接食べれば汚れ物も少ない。

 自分とは違う感覚だが、缶詰に箸を直接つっこんでいるタイガーを思い浮かべれば、生きるために食うことの生々しさを感じる。

「買ってこようか。箸とフォーク、いや、どっちもあればいいか」

「いい。自分で行く」

 立ち上がろうとするのを、押し止めたつもりはないだろうが。

 嬉しそうに見ていた缶詰が、静かに積み上げられた音に、なんとなくまた座り直した。

 殴れたせいで食欲がないのか、とは、さすがに尋ねにくかった。

 手を伸ばして、頬に触れる。

 ビクリと肩を跳ねさせ、驚いた顔でこちらを向くタイガーから、一度手を離し。

 嫌がりはしないのを確かめるよう、ゆっくりと、もう一度触れた。

 目立った傷はなさそうに見えたが、遠い方の唇は端が少し切れていた。

「痛むところは? 大したことはできないけど、よければ見せてくれるかな」

「いやだ」

 即答に、頬を緩めて素直に手を引いた。

「わかった」

「手当はした」

「そうか、それならよかった」

 短く交わす言葉と沈黙の後、フードの影になっている瞼が、閉じて。

 もう一度持ち上がったのを見て、少し、目を丸くしてしまう。

 さっきまでは見えなかった凶暴さで、底光りするような目が、舐めるようにじわりとこちらを見た。

「悪いと思ってンなら、また縛らせろよ」

「ッ、」

 とっさに言葉と、息が詰まった。

 混乱する頭に、落ち着け、考えろ、と言い聞かせながら、気怠そうながら手をどこにも伝わず立ち上がる彼を見上げる。

 フードの落とす影は深くなり、色の薄い瞳ばかりが光るように見えた。

「後ろ向けよ」

 壁と壁の間に渡されたロープからタオルくらいの布を引き抜いて、振り返りもせず投げられる声は、暗い。

 知らず鳴らしてしまった喉に自分で驚きながら、大きく息を吸って、吐いた。

「タイガー」

「はやく」

「それは、縛らないと駄目なのか?」

「……は?」

 獲物を狙うような、緩慢だが隙のない動きが止まり、好機とばかりに立ち上がる。

 見下ろされているのはまずい、と感じたことを、動物みたいだと自分で驚く。

 立ち上がれば、こちらの方が背は高い。

 ピリッと、強張る空気が見えるような気すらする。

 力が強い方が有利で、背が高い方が威圧できる。直感のようなものはどうやら、彼と共有されているようだった。

「するのはいいけど、縛られたり目隠しはされたくない」

「なんで」

「なっ“なんで”!?」

 声が大きくなってしまって、ヘイゼルが瞠られる。

 間抜けなやりとりだ。

 だが、毒気が抜けでもしたか、彼の目から凶暴な色が失せた。不審そうに見上げられて、意味がわからず眉が寄る。

「べつに縛っても殴らねーよ」

「殴られなくても縛られたくないよ」

「ええ……」

「えっ、僕がわがままみたいな流れなのか、これ」

 検討するように斜め下に視線を落としているタイガーに、少し首を傾いで視線を探す。

「ええと、縛らないと興奮できないとか、そういう話?」

 今度は怪訝そうに眉を寄せて見返され、こっちが訳が分からない。

「いや……まあいいけど。嫌がるかと思って」

 無茶苦茶だ。

 そう思うのは何度目だろうか。笑ってしまう。

「嫌じゃないよ」

 言ってから、自分で驚いた。

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