第十話「勧請」
背は、たぶん自分とそう変わらない、平均より10cmくらいは高いかもしれない。
スラリとした体格で、白いシャツに奥行きがあるように見えるのは、シルバーか光沢のある白い糸で、地模様として細いストライプが織られているせいだろう。
同じく控えめな半光沢のグレーのスラックスは、腰から脚にごく自然な流れで落ちていて、仕立てのいいものだと分かる。
整っているというには、顎のラインに紛れるような大きな傷が少し目立っていて、美形というには目つきが鋭すぎる。
柔和さのかけらもないその顔に、微笑みをたたえているのが、あまり、いい印象とはいえない。
謝ると言った声に、かすかに笑う色が混じって聞こえるのも、不遜を通り越した嫌な感じがした。
「ミハルが臥竜城を描きたいと言うから、ここで描けばいいと私が言ったんだ。近づくと危ないからね。ミハルの絵が面白いから、ついついもっと描いて欲しいと頼んだんだ」
ちょうど、家まで送り届けるところだった、と、気味の悪い声が締めくくった。
ミハルに目をやれば、うんうんと無言で大きく頷き、男の言葉を肯定している。
はァ……と、大きく息をついて、身を起こした。
ともかく、無事だった。
「ありがとうございます」
男へ向け、丁寧に一度頭を下げてから、ミハルへと向き直った。
「戻ったらまず親御さんに謝れ。他にも、謝る先はあっちこっちあるぞ。お前がいなくなったって、学校中の先生も、大人が何人も、警察まで出て探してるんだからな」
はい、と、しょげるミハルにではなく、もちろん男の方に聞かせる意図だ。
改めてお礼にうかがいます、と、顔を向けた男は、表情一つ変えていない。
冷たい笑みに湧く苛立ちを、だが、ひとまずは腹に押し殺した。
「先生もどうぞ。一緒に乗っていくといい」
はいと応じるか、いいえと突っぱねるか迷って、自分は遠慮すると告げた。
お好きに、とだけ言い残し、建物の方へ戻っていく男と、顔なじみになったらしい運転手の男と話しながら車に乗り込むミハルを見送り。
それほど離れていない、長い間付き合ってくれたタイガーに一言報告しとくかと、問い詰めたい気持ちとを天秤にかけて。
バタン、と車のドアが閉まった音を聞いて、我に返った。
勢いよく振り返れば、車は発進するところだ。
誰が嘘をついているか分からない。それ以前に、子供を何日も隠していたヤクザの車に、その子を一人で乗せていいわけがない。
警察も彼女を探していると聞いて、今の男がどう取ったかも。
玄関の方を振り返って、背筋が凍ったような気がした。
建物の中に戻ったと思い込んでいた男は、玄関の前に立ったまま煙草を喫って、走り去った車ではなく、まっすぐに自分を見ていた。
自分を食う獣が自分を見ていると気づいた時の動物は、こんな気分なんじゃないだろうか。
「なにやってんだ!! 追え! 走れ、見失うな!!」
怒鳴り声にまた振り返る。
逆の、坂の上の方から走ってくるのは、顔が見えなくても分かる。
タイガーだ。
「早く!! 走れ!!」
とんでもなく足が速い。
みるみる近づいてくる彼が指さす方向へ、振り返ると同時に走り出す。ミハルが乗った車だ。
「
背に聞こえる、音にして聞くことは滅多にない、古い言い回し。音が先で意味が後から入ってくるほど、なじみがない。
離れていくのもあり、最後は音だけしか聞き取れなかった。
そして、古語にかぶせるような、笑い混じりの冷酷な声。
「なんだよアマキ! お前が支払うか!?」
答えた声があったか、もう聞こえなかった。
走って車に追いつけるわけがない、と、分かっている。だが、見失ったら最後だ。
上り坂よりマシでも、長く続く下り坂には特有の走りにくさがある。それでも、カーブの多い道で減速せざるを得ない車と比べたら。
言語になる間もなく巡る考えを、洗って落とすよう、足が軽くなった。
「!?」
強い追い風が背を押す。
だが、下り坂と追い風で足が空回る感覚はない。まるで、浮いているようだ。
なにか見えない力が、走っている自分を調べて、調整しながら手伝っているかのように。
走りは軽快で、今まで経験したことがないくらい速く、まったく疲れる気がしない。
自分の足で走っているのは間違いないのに、その疲労や消耗の条件だけを取り消されたような感覚だった。
やや離れて、車の後ろが見えた。
高度が低くなっている。山道を下りきってしまえば追いつけないが、死ぬ気で食いつけば、見失わずに済むかもしれない。
平坦な道では距離が縮まない。さすがに息が上がる。
だが、諦める気はない。
全身が鼓動そのものに変わって、頭蓋骨が脈打ち、眼球が腫れたように感じる。
山を下りきって、車が、川を渡る方に向かわないと気づいた時、焦りと怒りが込み上げた。
タイガーの怒鳴り声が耳に蘇る。
自分に腹が立った。
やがていくつかの道を折れ、ミハルを乗せた車がどこへ向かっているのか気がついた時、寒気がした。
その先は、かつて小さな軍港で、今は使われていない港だ。
倉庫の群れの間に車が入り込み、姿が見えなくなるたびに吐き気すら覚える。
それでも、港中だろうと倉庫の中すべてだろうと、しらみつぶしに這い回ってでも探してやる。
歯を食いしばり、血の味のする乾いた唾液を飲み込んで、いくつかの路地を抜けた先に、見つけた。
駐まった高級車の向こうに、いるはずのない漁船が埠頭に着けているのに気づき、青くなる。
「動くな! 警察に通報した! 動くな!」
車から降りてきた二人の男に、走りながら怒鳴りつける。
一人がミハルを連れ出して腕を引き、船の方へと向かう。
予想外に、もう一人は真っ直ぐこちらへと歩き始めた。
「おい、止まれ!」
一人がこちらを食い止め、一人がその間にミハルを連れていく。意図は明らかだ。
「ずっと後つけて走りやがって、バケモンが。いつ通報するヒマがあったッつうんだよ」
こちらに向かう男が、歯を剥き出しながら笑った。
そのまま走り込み、その鼻面目掛けて殴りかかる。
タイミングを合わせたように打ち出される拳をかわそうと、首を屈めるが、視界が一瞬黒く吹き飛んだ。
数歩よろけて退がり、かかとを
腹を狙って蹴り出される膝を、かすめるだけに辛うじて避け、顎を殴りつけた。
重量のありそうな身体がよろめくが、明らかに不利だ。長距離を全力疾走してきたこちらに対して、相手は今まで高級車に揺られていたのだ。
どうやって。早く殺さなければ、と、浮かぶ物騒な考えにも気づかない。
打ち合ってはよろけ、まるで遊んでいるような、余裕の笑みに短く距離を取りながら、チラとミハルを振り返った。
大声でわめき、抵抗しているが、もう半ば引きずられてしまっている。
まずい。
こいつに背を晒してでも向こうへ、と。
踏み出しかけた足がつんのめった。
風を切る音さえさせて、どこかから脇を擦り抜けていった黒っぽい影。
離れてようやく、それが人間だと判る。
砲弾のように走って突っ込んでいったそれは、数歩で勢いを着け直すと、人間の背の高さほども跳び上がった。
ミハルを引きずっていた男が跳び蹴りを食らって、冗談のように吹っ飛ぶ。
「クソッ! マジか、どうなってんだよ!」
既視感に唖然とするのと、すぐそばの男の声と、敵から目を離して立ち止まっている愚かな自分が殴り飛ばされるのが、同時に起こり。
「失せろ! 俺がモズに支払うことになった!」
他の誰であるわけがない。
タイガーが張る声ひとつで、こちらの男は車の方へ走り出し、一発で沈められた男がふらつきながら車に乗り込む。
なんとかかんとか二人の男を乗せて発進した車の向こうでは、定刻なのか、こちらの様子を見ていたのか、ゆっくりと船が動き出した。
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