第七話「紙を喰う虎」
ママはタイガーに向けて目だけで頷いてから、背を向けてまた食事に戻ってしまった。
パス回しのように、今度はタイガーがこちらに向けて肩をすくめる。
長く、息を吐き出した。
「よかったじゃねえか」
思いがけない、皮肉っぽい言い方に、下がっていた目を上げてタイガーを見る。
「うん、もちろん」
フードをかぶっているが、歩き回ったせいか、それほど目深ではない。片眉を跳ね上げたのが見えた。
おかしなものでも見たような顔をされたが、もちろん、それこそが欲しかった情報なのだ。
大の男がこれほど危険を警告される場所に、たった十四才の女生徒が来ていなかった、という確信が。
「手伝ってくれてありがとう、タイガー。お礼にご馳走するよ」
短い沈黙。
「あア。おごってやるよってことか」
「うん、そう。なんでも」
そういえば、自分も午前中にツマミのようなものを口にしたきりだと、気づいた途端に腹が減ってきた。
立ち上がるママと入れ替わるよう、タイガーの隣に腰を下ろす。
隣で開きかけた口から声が出る前に、ママが足を止めた。
「ああそうだ。タイガー、カラスのとこが漏れてるらしいんだ。あと、本屋が寄れってさ」
「アー、カラスんとこはそうだろうな……」
わかった、とタイガーが答え、別れた二人からは挨拶らしい言葉も聞こえないままだったが、別のことに気を取られていた。
露店の柱に釘で貼り出された品書きの、値段が異常に安い。
似たようなメニューを
一体どんな材料を使ってるんだ、と戦慄する。
「なア、あんた。金出してくれンなら、メシよりちょっと付き合えよ」
「うん? うん、いいよ」
また今度などと断りもせず、座った席を立つタイガーに、思わず露店の店主の方を振り返った。
タオルと呼ぶには薄すぎる布を頭に巻いた店主は、まったく、こちらを見てもいない。
すみません、と、自分は一応会釈などしてから、また歩き始めたタイガーに続く。
「安うけあいすンだな。高えモンだったらどうすんだか」
タイガーは笑っているが、気になって目で探す店々の値段を見れば、どこにせよ、それほど高価なものが置いているとは思えない。
もしくは、話にならない額の、二重の意味で法外な代物はありそうだが。
「今持ってる分で足りなかったら、そう言うしかないな」
無いものは無いのだし、手持ちの一日分の食費くらいは、彼のために
チラ、と、フードの頭が振り返った気がするし、口元は笑っていたように思うが、見えたという確信はなく、そもそも彼からもこちらが見えたか怪しいものだ。
「どこに行くんだ?」
「本屋」
ああ、今さっき、耳にしたような、という合点と同時に、驚く。この状況の街で、書店があるのか。
いや、と、視界に広がる閉じられた街を見渡す。
地上階であろう高さはテントのようなもので埋め尽くされて判別できないが、その上に積み重なる円筒の街には、雑多な商店がひしめいている。
看板のある店は半分以下だが、それでも、電器屋、金物屋、荒物に小間物、履物屋があるのがわかる。
酒、煙草、薬屋は、販売許可が必要なはずだったか。他にも、客がいるのかと訝りたくなるマッサージ屋、なぜか目につく複数の歯科医院。
ここにはなんでもある、と言ったのは誰だったか。
いびつな円筒を成す商店街を上がったり下がったりして、毛細血管のような路地に入り込んで少し。「臥竜大書房」と大風呂敷を広げた文字が、壁に直接書かれていた。
ガタつき軋む戸を開けるタイガーに続いて足を踏み入れたところで、おお……、と思わず声が出た。
驚くほど狭い。タイガーが寝起きしている部屋よりさらに狭そうだ。
だが、壁の二面がまるまる本棚になっており、少なくともその片方は隙間なく本で埋め尽くされている。
もう一面の本棚も、半分以上は埋まっているように見えた。
残った少しの壁には、事務机にしては奥行きの狭いデスクがある。
その上あたりに、手書きのメモのようなものがびっしりと貼り出されていて、少なくともなんらかの
「よォ、タイガー。友達か? ……まさか誘拐してきたのか?」
「どっちで」
「ええ!?」
思わず声を上げてしまって、返答していたタイガーの声を遮ってしまった。
「……どっちでもねえ」
タイガーから白い目と、本屋から丸い目を向けられた。
「失礼……。そんな風に見えてるのか……」
どちらかといえば図体はデカい方で、そのせいで、職業柄付き合いの多い女性や子供を怖がらせないよう、大人しくするくせがついているくらいだ。
タイガーとはルーツが違う、カイト人だが、
誘拐されそうに見える要素に、思い当たらない。
「金の匂いがするからな」
あっさり答えを口にする、タイガーの片頬笑いに目を丸くした。
「プンプンするよなァ。――いィい~においだ、俺ァ好きだぜェ」
ニィっと笑う本屋の口元には、歯が何本も足りない。
あんなに歯医者があるのに、と、思わずよぎった。
「人を探しに来たんだ」
はあ、と、自分でも内容を説明できない大きなため息をつきながら、何度目か分からない説明を繰り返した。
「川の向こうから来た女のガキを探してンだとよ」
へえ~と、興味のなさそうな相槌を打ちながら、これだよとタイガーに本を見せている。
「ママが見てねえッつうから、あきらめて帰るとこだ」
「ママが知らねえなら誰も知らねえだろうなァ」
経緯を説明しながら、タイガーの指がパラパラと文庫本をめくった。
隣に立って、なんとなく覗き込む。
中古本のようで、古い小説だ。昔読んだことがあるはずだが、内容は曖昧にしか思い出せない。
「用心棒のお礼に“ゴチソウ”してくれンだとよ」
「へェ。ついに食っちまうのか、本をよ。歓迎だぜ」
こちらを顎で示すタイガーに、本屋がニヤついて応じ、そんなに珍しい表現だっただろうかと、反省のような気持ちが湧いた。
「おごるッて意味だよ」
「知ッてらァ、バァカ。ここが何屋だと思ってンだョ」
「……クソッ」
牙を剥くように歯を軋ませたタイガーと、今、同じ思いだ。
「どいつを食うよ? 紙喰いのトラちゃんよ」
笑う本屋に、ためつすがめつしていた本を、タイガーが重ねた。
「全部。置くとこねえから手形書いてくれ。一個だけ持って帰る」
はいはい、と答える本屋がメモを書きつけ、本のタイトルをリストにする。タイガーが一冊だけ選り分け、残りの五冊がメモと重ねて狭いデスクの隅に積まれた。
本屋が言うままの金額を支払い、金の匂いか……と、なんとなく気落ちする。
思ったよりあからさまに機嫌良く、店を出るタイガーと並んで歩きながら、周囲を歩き、または露店で食事をとる人たちを観察する。
それほど自分と違うだろうか、と。
相変わらず誰とも目すら合わない。
だが、ふと。
「なああんた、まだ金あるか?」
「うん?」
足を止めたタイガーの視線の先を追う。どの街にもこれはありそうな、スープの店だ。
大丈夫、と、うなずいて返した。
「シメイだ」
「ン?」
露店の軒先に並んで腰掛け、メニューを確認しているタイガーの横顔を眺める。
「僕の名前。
珍しい名字だなと相槌を打つタイガーに、よく言われる、と笑った。
個人を尊重する文化だとも、政争と戦争が絶えず血筋が大事だったから、気軽に姓で呼ばないとも云われ、諸説あるが。
体感としても名前で呼ぶのが普通で、姓で呼び合うのは堅苦しい、もしくはよそよそしい感じがする。
名前ではなく、これほど徹底的にあだ名しか聞こえないのはどうかといえば、論外だが。
ここは
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