第六話「ガラクタの城」

「いッた!」

 唸るような声が自分のものだと気づくのと、痛みを認識するのが同時。

 向こうずねを手でこすりながら、軽く頭を振った。

「なに堂々と寝てンだよ。出てけッたろーが」

 聞き覚えのある声に目を上げ、見慣れない顔を見て、ああと勝手にこぼれた声と一緒に、現実が戻ってきた。

「……名前を聞いてなかった」

「いや言わねーし。んなことのために人んちで寝てンのかよ」

「えっ、いや。寝てた?」

 寝ていたことは、もうすでに理解しているが、ボンヤリした頭で無為な言葉を口遊ぶ。

 チッという盛大な舌打ちに、意外さを覚え。あらためて、ルーツの違うその顔を見上げた。

 目を覚まして、出て行けと言った自分が居眠りしてるのを見つけたのに、暴力で排除するわけではないのか。

「ミハルを探すのを手伝ってくれないか」

「ハア?」

 日が、暮れてしまっている。

 暗い室内に、ようやく涼しくなった風が通り、頼りない光源を探して天井に目をやれば、ずいぶん古いタイプだが、電灯が点いていた。

「誰だよミハル」

 彼の顔は逆光だ。暗く沈んだ造作に、色の薄いヘイゼルの瞳だけがギラついて見える。

「ミハルは学校の生徒だ。僕はそこの保健室の先生」

 不思議な短い沈黙があって、あっそと素っ気ない声が降ってきた。

 思いつきそうなすべての疑問はよこされず、腹の底から興味がないってわけか、と、少し苦笑いする。

「何回も言ってンだろ。来てても来てなくても、もういねーよ」

 小さな驚きは続く。

 何度も言ったかはともかく、それなりにきちんと納得させようとしているのだ。

 出て行ってほしいだけかもしれないが。

 よいしょ、と、まだ疲れの残っている身体を起こして、立ち上がった。

「わかった。気が済むまでもう少し、他の人にも訊いてみるよ」

 助けてくれてありがとう、と、声を掛けて、素直に席を辞することにした。

 正直、散々だ。

 だが、彼が現れなければ、もっと無惨だったろうことは想像にかたくない。

「ハ? おい待てよ。まっすぐ帰れ」

 子供に向けるような注意の声に、うん? と、彼の方を振り返る。

 フードをすぐにかぶってしまうのは、癖なのだろうか。

「そんなに長くはいないよ」

「長え短えじゃねえよ。ただ帰る間くらいならともかく、ウロウロしてたらどっかで裸にムかれるぞ」

 裸に剥かれる、と聞いて、よぎる記憶はあるが。そういうニュアンスではなさそうだ。

 靴を履いてからしっかりと身体を向け直し、彼と対面する。

「何人かに話を訊くだけだ。危ないと思ったら走って逃げるよ」

 また、沈黙。

 それから、ああ、もう。と、苛立ったようなため息をついて、大きな二歩で彼の姿が近付いた。

「まともに口がきけるやつと話させてやる。あんたが納得しようがすまいが、それで帰れ」

「……なんで、」

 狭すぎて、擦れ違う肩がぶつかる。

 その勢いを使うよう踵を返して、彼の後に続いた。

「なにが」

「なにか、放っといて僕が殺されたら困る理由があるのか?」

「困ンねえよ。単純にうぜえ」

「うっとうしいなら、放っとこう、とは、ならないのか……」

「あんたがじゃねえよ。住んでる近所で人殺しがあったらうぜえだろ」

 言葉に詰まってしまう。

 体験したことがないが、実際に近所で殺人があったら、

 どう感じるだろうかと思う頭に、脈略ないようよぎる記憶があって、ゾワッと全身が総毛立った。

 帰宅途中の路地で擦れ違った、黒尽くめの人影。焼け焦げのような、けれど熱のないすすの跡。

 そうか、と、単なる相槌のような返事だけして、歩いている道の把握につとめる。

 けれど、無駄な努力になりそうでも、ある。

 八百石ヤオイシ区の中でも、自分の住居のあたりは、それほど整っている方ではない。

 だが、充分に“人間が暮らす”べく秩序があったのだと思い知った。

 あまりにも雑多な床と壁の不規則な連続は、素材だけでなく、その狭さや曲がる角度においてすら一定さを保っていない。

 外から見て、中を歩いてみて、なんとなく工法は解ってきた。

 自分でも知っているような、元あったという城砦や別荘があるかは判別できないが、ともかく、そこにあるものに足して、つないで、結果として建物になっているらしい。

 通路は意外に広い場所もあり、それはそれで座って何かの作業をするものや、何故か寝ている者もあって、結果として通りにくくはある。

 外より気温は低そうだが、湿度が高い。あちこちにポタポタと落ちている水滴が、気ままに細い流れを作っていた。

 人の出入りする姿も思ったより多く、何人かに一人は必ず、自分の前を大股で歩いている彼に声を掛けた。

「あれ。タイガーおかえり」

「おう」

 ようタイガーと寝たまま手を上げる色の黒い男には、黙って手だけを上げ返している。

 顔が広いようだと感じるが、土地勘のない自分に分からないだけで、狭い近所なのかもしれない。

 脇を走り抜けようとした少年達が、あっタイガーだ! 遊ぼうぜ! と、声を掛ける。

 もう寝ろバカと、答えて笑う横顔が、少し胸に残った。

 しばらくして、じわじわと実感されてくる。

 それほど彼が声を掛けられているのに、自分は誰とも目が合っていないし、もちろん声も向けられない。

 “タイガー”に、それは誰だと尋ねる者すらいなかった。

 これは確かに、彼なしでどこを歩き回ったとして、よくて徒労だったかもしれない。

 何度目かの「ようタイガー」に、彼が足を止めた。

「ママ見た?」

「メシ」

「ああ」

 驚くほど短い言葉のやりとりのあと、再び大股で歩き出す彼の、背と、フードの後頭部を見つめる。

 母親を紹介してくれるのか、と、半分くらいはいぶかる鼻先に、香ばしい匂いが届いた。それに続いて、閉鎖的に渦巻いていたサビ臭さと獣めいたにおいを吹き飛ばすような、生ぬるい風。

 短い下り階段を軽い足で降りたタイガーの向こうに、ぱらぱらとまばらな灯り。

「わ……」

 円形の、いや、円形と呼ぶにはかなり歪な、だが思いがけない広い空間が、視界に開ける。

 いびつな円に、別のいびつを重ねて積み上げた、円筒の広場。

「夜市があるのか……」

 そう、と、フードの後ろ頭が振り向きもせず答えた。

 色とりどりの灯りが点り、簡素な露店で様々な料理が提供される、夜市をはじめとした露店文化は波照ナズレ国の名物だ。

 地方や街、それぞれに特色や流行があり、安く腹が満たせることもあって、波照ナズレでは一生自炊しない人間が世界一多い、などというまことしやかな噂すらある。

 ピンクに黄色、緑に赤、破れた提灯ちょうちんもあるし、色電球も多い。

 ああ、ここは波照ナズレなんだなと、一歩歩くごとに景色が自分に近付いてくる。

「アーいた、ママ」

 ひとつの露店の前で足を止めたタイガーが、ひょいっと身軽に長椅子を跨ぎ越して、そのまま腰を下ろした。

「ン? タイガー。なに?」

 背を向けて麺をすすっていた女性が、器と箸を置いて彼に振り返る。

 ママ。タイガー。

 ふいに、彼らが互いを呼ぶ言い方で、その両方があだ名のようなものだと直感した。

「川の向こうから女のガキが来たか?」

 タイガーがこちらに向けて顎をしゃくり、ママが振り返った。

 あっと声が出そうになる。

 一瞬すれ違っただけなのに、はっきり覚えていた。

 臥竜城に来て、最初に早く帰れと言った女性だった。

「あんたまだいたの」

 顔をしかめられて、なんだか苦笑いしてしまう。危ないからやめなさいと言いつけられたことを守らず、まんまと痛い目にあったような、まるで子供の頃のような心持ちだ。

「来てないよ」

 こんな、短い言葉に、これほどはっきりと、多くの意を込められるものなのか。

 ぴしゃりと、言い聞かせるようなママの声に、小さく目をみはった。

 川の向こうから見慣れない少女など来れば、すぐに気がつく。だから、確かに来ていない。つまり、お前のしていることは無駄だから、今すぐやめなさいと、それだけの情報が込められていた。

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