第4話「顔のない男」

 殺意の間をくぐり抜けるようにして、地面を掴み、引き寄せる要領で這い上がって立つ。

 ファイティングポーズなど虚勢だ。

 飛び掛かり、繰り出される拳や足の連係の悪さの隙をつき、逃げて、払いのけ。背を向けて走り出せるだけの機を待つ。

「おいッて!」

 反射のように、降ってくる声に目だけを向ければ、腰の辺りに蹴りをくらってよろめいた。

「デカけりゃ助けてやるッてンのに」

 ニヤニヤ笑う口元が、一瞬、見えた気だけはした。

 逃げ回っているだけで、男達を削れていない。このままではジリ貧だ。

 ためらいを、砂を噛むよう飲み込んだ。

「――見せた相手にはデカいって言われる!」

 距離のあるフードの男に向けて声を張る。あまりにも破廉恥すぎて殺意が湧く。

 ブチ殺してやりたいと、六人のごろつきでも高みの見物のフードにでもなく、状況に憎しみを抱きながら、助けるなら助けてくれと、切実な思いは投げ遣りに近い。

「降りンぞ! 逃げンなら今すぐ全力でダッシュしろよお前らァ!!」

 それまるで、咆吼ほうこうのような。

 高らかと笑うような大声に、男達があからさまにたじろいだ。

 一人がボス格らしき男の顔色を窺い、ここからは見えないが、おそろしいものでも見たように縮み上がる。

「ッ!」

 内部がどうなっているのか判らないが、助太刀が来るまでの時間を稼がなければ、と、腹に力を込めた。

 それが、その先から目の前に開かれた景色に、霧散する。

 フックのついたロープと、それを巻き取るリール、だというのは、辛うじて見て取れた。

 袖なしのパーカーから長く伸びる腕が窓の外にフックを引っ掛け、窓枠に足をかけながら、振りかぶってリールをブン投げた。

 いや、投げる格好なだけで、手放してはいない。

 離れた窓から投げ出されるリールを手に持ったまま、その勢いを借りて軽々と窓の外へと飛翔する。

 打ち所がよければ死にはしないだろうが、それなりの高さだ。

 二の腕とうなじにゾワッと鳥肌が立った。

 叩きつけられるぞ、と、あのロープで寸前にブラ下がるのかと、言葉より早く想像を巡らせるイメージとは別の光景が、目前に疾走する。

 勢いをつけたとしてもそこまで、というほど斜め前に落下していくフードの男の手元から、ロープが伸びていく。そこまでは想像通りだったが。

 高さの半分ほどを過ぎた辺りから落下速度が上がり、手元のリールから火花が噴き出していく。

 地面に突っ込む、と、見えるタイミングでリール自体が放り捨てられ、まさかと思うしなやかさで地面に両手が着かれ、勢いのままにしては全く乱れずくるりと地の上で前転して、そのまま立ち上がった、のだと、思う。

 ギリギリ目で追えてはいるが、認識はまるで追い着かない。

 前転して立ち上がった勢いのまま、一番近い男のところへ吹っ飛んでいった灰色の塊があり、そこにいた男が吹き飛ばされるのが、まるで玉突きのようで。

 ガン! と、重い音がして、ああ放り投げられたリールだと気がついた辺りでは、次の一人が高い回し蹴りを顔に受けて垂直に崩れ落ち、後退ろうとした次が腹を押さえての字に折れ曲がっていた。

 肘、膝、それから蹴り。

 六人のすべてが一発か二発で地面に這いつくばり、ボス格らしき男だけは三発までねばったが、反撃のパンチは空を切って、膝を着いた。

 あっけに取られている自分に気づくのすら、数秒を要した。

りろよなァ。俺が逃げろッたら逃げろッての」

 せせら笑うほどの悪意も感じられない。ただ愉快でしかないとでも言う風な声。

「えらいえらい、よく頑張ったな」

 つかつかとばかりにこちらへ向かってくるフードの男に、ハア!? と再びの声が出てしまう。

 なにか悪態のようなものが浮かびそうで、けれどまだ混乱が解けきれない頭の中、言葉は現れる前に消えていった。

 そうだ、それよりも。

「助けてくれてありがとう、き」

 手首をつかまれ、引き寄せられて、次の「み」の声が「ミッ!」と跳ね上がる。

「えっ、ちょ、」

 なに、と、言葉は短い音ばかりになってこぼれるようで。

 すごく強い力というわけではない。いや、違うのか。

 手首を掴んだフードの男の手は、握りしめているとは感じない。なのに、腕にはまり込むというか、がっちりと固定され、しかも、揺らぎを感じない。

 金属でできた輪をつけられたかのように、びくともしないのだ。

 それだけではない。

 手を引かれ、引きずられるように歩いている感覚はなく、身体全体をまるごと運ばれているような、奇妙な感じ。引きずられても足は動くに違いないが、手伝ってもらって自分で動いているかのようだ。

「待っ、てくれ! どこ行くんだ?」

 声が揺れる。

 身体感覚としては歩いているし、目の前の彼が大股で歩いているのも見えている。

 だが、速い。

 小走りぐらいには、と感じていたのが、ガラクタの城の中へと引っ張り込まれて、もはや走っているのではないかと少し目を剥いた。

 左右で色の違う、汚れたコンクリートの壁、ペンキのはげた通路を伝う得体の知れない水。

 ところどころ木箱や別の素材で補われた鉄の階段は、数段もまっすぐに続かない。

 統一感のない扉、と思えば、どれも全部同じで見分けがつかない扉、そもそも扉のないわくだけの間口もある。

 トタンってこんなに種類があるのか、と場違いに感心してしまう、壁というか仕切りというか、何かを隠しているだけなのか。

 階段を上がり通路を進み、小路を曲がり、現れては過ぎていく景色におどろく。

 生き物の住みつく生々しい臭い、サビくささ。

 とにかくあちこち水が小さく流れたり溜まったりしているが、意外にもゴミは目立たない。


「待て! ちょっと……、何のつもりだ!」

 いくつかの階段と通路と曲がり角を経て、方向感覚は乱れて自信がなくなったとろこだが、つまりたぶん、彼が窓から身を乗り出していた場所だという気がした。

 扉も、靴を脱ぐ土間すらあって、外から見た建物や内部の様子からいえば、立派に部屋と呼べる部類だと思えた。

 なんとなくいびつな空間に、木箱がひとつ一斗缶いっとかんがひとつに、床に直置きのマットレスしかないとしても。

 衣服を引っかけるためらしく壁から壁へと渡してあるロープをなんとなく見た短い間に、拘束された。

 タオルではなさそうな、何かの布で背中に腕をまとめられ、別の布で大きく目隠しされた。

 六人を数秒で沈めた先ほどの動きを思い出せば、驚くほどではないかもしれないが、それは本当に一瞬で起こり。

 突き飛ばされ、固い床を想像して強張った身体は、たぶんマットレスに受け止められた。

 臥竜城区の人間は誰も信用できなそうだと身に染みたばかりだし、格闘になれば手も足も出ない。

 殺されるのかとか、金を持ってきてなくてよかったとか、いや持ってたら命を買えただろうかと思うが、フードの男の目的がまったく分からない。

 助けておいて、殺して金でも奪うのか。

 いや、それにしては目隠しは遅すぎるし、必要だとも思えない。

「なあ、話をしよう。金なんかあるだけ置いていくし、君からは走って逃げられないよ。なにか欲しいとかしたいとか、」

「はいはい。好きなだけしゃべってろよ」

 金属が鳴らすカチャカチャという音と、腹のあたりにもぞつく感覚で、全身に鳥肌が立った。

 目隠しをされても分からないわけがない。ベルトを解かれ、ボタンを外され、ボトムスを下着ごと下げられて、裸の尻がマットレスに触れた。

「まっ、待て!」

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