9−1・投了【取調室】
およそ10分後、取調室に戻った猿橋は椅子に座って中里を見つめた。
中里はテーブルに突っ伏してかすかな寝息を立てている。
篠原がささやく。
「ご苦労さまです」
シナバーが加わったことで新たな展開が拓けてきたことは、すでにイヤホンで伝えられている。
「本当に眠っているんでしょうか?」
「そのようです。ふてぶてしいやつですよね」
中里は体を動かず、顔も上げないまま応える。
「眠れるはずないですよ。敵地、なんですから。ちょっと呼吸を鎮めているだけです」
猿橋が肩をすくめる。
「でしょうね。テレビの放送、始まりましたよ」
モニターに映される3つのバラエティ番組で、ほぼ同時に緊急放送が開始された。各社が協定を結んで開始時間を合わせたようだった。
だが、内容は統一されていない。
神妙な面持ちでメモを読み上げる司会者、報道局からの中継に切り替わって状況を説明する記者、そして大慌てで制作したらしいボードを示す画面と、バラバラだ。音声もダブって、内容は判別しづらい。
だが、どの局も、麗子の監禁画像の中継を画面の隅に固定していた。
中里が顔を上げる。
「そのテロップの局、音を聞けるようにしてください」
篠原がリモコンを操作する。
『――以上が、現在確認されている事件の概要です』
テロップは、関連する事柄を時系列で整理したものだった。短時間で整理したためか、通常番組で使用するような華やかさはない。イラスト類もなく、ゴシック体の箇条書きの一部が赤で強調されている程度だ。
厚労省大臣官房審議官の娘の誘拐、都内2カ所の小爆発、そして寄付という名の〝身代金〟要求が並べられている。宮城の大爆発は外されていたが、直前に起きた大事件だっただけに無視していることが逆に異常さを際立たせている。それが事件に関連していると予感させる構成になっていた。
説明しているのは、政権批判を売り物にしている男性局アナだった。左翼的言動を非難されても意に介さないという強硬姿勢が、一部の視聴者から圧倒的に支持されている。
テロップが切り替わる。
『そして以下が、犯人からマスコミ各社に新たに示された要求です』
中里が要求した〝目安箱〟の概要が列記されていた。それを説明した後に、アナウンサーが付け加える。画面の下に、電話番号とメールアドレスが表示されている。
『詳細についてはまだ詰められていない部分がほとんどですが、我が局では人質の安全を第一に考慮して犯人の要求に即応する体制を整えました。具体的には「電話、メールでの不正摘発受付部門の設置」になります。該当すると思われる情報は、こちらに通報ください。警察はじめとする捜査当局と協議しながら、正当と思われる案件について対応、調査、広報を行なってまいります。また、情報提供者の秘密や安全も、警察と共同しながら確実に守って行きます』
猿橋がため息をもらす。
「ご満足かしら?」
中里はかすかな笑みを見せる。
「これから、ですよ」
画面のアナウンサーがアップになり、その表情が引き締まる。
『以上が誘拐犯から私たち市民に突きつけられた要求です。しかし、これはある意味、この国の未来を変える大きなチャンスでもあります。これまで官僚組織の掟に縛られて発覚しなかった数多くの不正を暴くきっかけにもなります。100億円という身代金は法外ですが……私個人の気持ちとしては、慈善団体などに分配されるなら必ずしも悪いこととも思えません。人質を救出するため、そして同時に各団体を支援するために、視聴者からの善意の寄付をお願いいたします。しかしそれだけではこれほどの金額を集めることはできないでしょう。ぜひ大企業にも支援をお願いいたします。我が局としても、いち早くこの支援運動に参加すべく検討を開始しております。さらにこの番組では、大型の支援を行ってくださる企業を広く募り、その名を大きく報道して企業理念を視聴者にお伝えして行きます。誘拐という犯罪は許せるものではありませんが……率直に言わせていただくと、私はこの犯人が突如現代に現れた〝義賊〟なのではないかという気すらしています――』
中里が笑みを広げる。
「音、小さくしてもらって構いませんよ」
篠原がリモコンを使う。
画面から視線を戻した猿橋が、小さなため息をもらした。
「狙い通り……ってところ?」
中里がうなずく。
「まさに。真っ先に喰い付くのはこのアナウンサーだと思ってました。厚生省疑惑は、まさに彼が先頭に立って火を放ったといってもいい。誘拐されたのが疑惑の中心人物の娘ですからね。まさか、死語同然の〝義賊〟って単語が飛び出すとまでは期待してなかったですけど。ネットではヒーロー扱いしてる言説もあるはずです。マスコミだって無視はできない。当然、他局も追従を強いられる。テレビ局の多くが手柄を競い合って不正摘発に熱心になれば、人々の関心も高まる。新聞も雑誌も反論ができにくくなる。犯罪性を非難するという正論が封じられていく。いったん風向きが定まってしまえば、逆らえなくなるのが大方の日本人ですからね」
篠原が言った。
「そう、思い通りにいくでしょうか?」
「前例はあります。テロリストが元首相を暗殺したというのに、マスコミは新興宗教団体を叩く論調一色に塗りつぶされたじゃありませんか」
篠原も抗弁ができなかった。
「そして、互いに互いの不正をあげつらうギスギスした社会が生まれる……それが望みなんですか?」
「いけませんか? だったらそもそも、不正などしなければいい」
「正論ですが、実現は不可能です。人間がそこまで賢いなら、法律も警察も要りません」
「あなた方の仕事を奪う気はありません。それどころか、このイベントで本物の不正が炙り出されてきたら、その時こそ警察の出番じゃないですか。当面、仕事には困らないと思いますよ。巨悪を眠らせない組織になってください。そうすれば、日本はより良い国になる」
猿橋が中里を見つめる。
「いかにも良い子の発言ね。とても誘拐犯の言葉とは思えない。でもそれって、ただの目眩しでしょう?」
「はい? 目眩しって?」
「教授自身の利益はどこにあるの? それが知りたい」
「寄付と不正摘発で、充分すぎる利益ですよ。寄付の分け前も多少はあるとしても、それは〝労働への正当な対価〟と考えて欲しいな」
「確かに、教授に大金が転がり込む可能性は高まったようね。寄付集めにマスコミが奔走すれば、本当に100億円を集めてしまうかもしれない。寄付受付のサイトが注目されれば、一部の組織への分配だけ除外するのも難しくなるでしょう。『極左グループの隠れ蓑だ』と公表したところで、国民が納得しなければ反発されるだけだから。きっとマスコミは、政府や警察の横暴だと非難するわね。彼らの中には、そんな組織の支持者も混じっているでしょうから。でも、身代金の一部を掠め取れたとしても、こうして捕まっていたんじゃ使うこともできない。意味ないと思うんだけど?」
「何が言いたいんです?」
「あなたはまだ本当の目的を隠している。ここから逃げる方法――わたしたちが思いつけないようなとんでもない手段を隠しているのか、捕まったままでもその目的が叶えられるのか……。どちらかは分からないけど、絶対に何かを隠している。人を傷つけるのを嫌ったのは、義賊っていう仮面を被れなくなるからじゃないの? こんな方法で世間を騒がせて、最後には何を企んでいるの?」
「それより、もっと心配すべきことはあるんじゃないですか?」
「何?」
「こんなに簡単にマスコミが操れるとは思ってませんでしたが、〝義賊〟と呼ばれた時点で流れは決まったんです。誘拐されたのは、汚職疑惑がある官僚の娘。要求は寄付と不正の告発。器物破損は犯罪だけど、人命に危害は及ぼしていない。いろいろと不満を抱えてる庶民にとっては、怒りの捌け口としてはぴったりですよね。居酒屋談義にも格好の肴です。経済が上向かない原因が財務省の権益を守るためだってことは、相当数の人が知ってしまった。天下り利権や省益を守るために踏みにじられている庶民は、吐き出す先のない怒りを溜め込んでいるんです。いくら私を罰したところで、流れ始めた水はいずれ大河になって堤防を破ります」
「堤防って、日本の国そのもの?」
「国が悪いわけじゃない。国を運営する政府に巣食う、私利私欲の権化を暴きたいんだ」
「それも記者に聞かせるための建前ね」
「建前だろうがなんだろうが、それで国への害悪が取り除かれるなら歓迎すべきじゃありませんか? あなた方だって、〝必要悪〟って言葉、使うでしょう?」
猿橋が論争を諦めたように言った。
「テレビ局を競わせるようなことをしたのは、そのため?」
「互いに凌ぎを削って事件が大きくなれば、視聴率もどんどん上がる。久々に、幅広い国民がテレビにかじりつく。年寄りしか見なくなっていたテレビが、ネットに逆襲できる状況が生まれます。テレビ局は私を応援しなければネタが増えない。だが私が犯罪者の汚名を背負ってしまえば、応援も許されない。だったら、私を擁護する大義名分が必要ですよね。それが義賊やヒーローの仮面です。あのアナウンサー、期待通りの働きをしてくれました……」
猿橋と篠原が、同時にため息をもらす。行き詰まった会話に疲れを感じたようだ。そして、テレビの画面に視線が向かう。
急速に変化が現れていた。
画面の下部には、寄附金を示すインジケーターが表示され始めた。総額表示のみならず、どこも自局を通じて集まった金額を併記している。各テレビ局が寄付の金額を競い合い始めたことは明らかだ。
毎年恒例になっている〝24時間テレビ〟のようなノリで、キャスター兼任のアイドルが寄付を勧める局も現れる。
寄付のインジケーターはじりじりと進むが、まだ総金額は微々たるものだ。それでもサイトを見た多くの人々が、寄付先の社会的意義に共感して協力を始めたようだった。番組の構成は、どの局も表向きは人質解放に寄与する情報を求めていた。しかし、誘拐を非難する論調は強くない。
中里が語った空想的な目論見が、凄まじいスピードで現実を侵食しつつあった。日本中が、警視庁に囚われたたった1人の誘拐犯にコントロールされ始めている。
と、時々インジケーターが一気に進む現象が起き始めた。数億円単位の大口寄付が現れたのだ。中里の期待通り、中堅企業がイメージアップのために大金を注ぎ込み始めたようだ。
企業名と金額を堂々と表示する局も現れた。
篠原が呆れたようにつぶやく。
「こんなに早く……。これも予測通りですか?」
「その通りです。日本にだって、趣味と売名を兼ねた〝宇宙旅行〟に100億円を出せるエスタブリッシュメントが存在するんですよ。対外純資産だっていまだに世界一なんだし。ですけど、反応が凄まじいですね。予測は軽く越えられてしまいました。企業名を見ると、まだワンマン経営者の目立ちたがりみたいですけど。大手は今、必死に会議を召集してるでしょう。稟議にこだわって競合に遅れを取れば、その分イメージを損ないますからね」
篠原の表情が真剣に変わる。
「あなたは革命を望んでいるんですか?」
「革命……ですか? 争い事は嫌いですけど、ある意味、そうなのかもしれませんね。硬直化した大学制度に息を詰まらせて、こんな日本から逃げ出したいとずっと願ってましたから。だからといって、共産主義や社会主義を信奉しているわけじゃない。むしろ、暴力的な大変化は御免です。大学の中での勝手放題を見逃されてきた左翼組織にも消滅してもらいたい。だからこそ、警察にはしっかり働いてもらわないと」
「警察が手を抜いてきた、と?」
「だって、テロリストまがいの反社会的な暴力集団さえ生き続けているじゃないですか。しっかり働いていれば、元総理の暗殺なんて起きるはずがない」
「主義や思想を強権で圧殺することは、この国の理念に反します」
「だからって、迷惑な連中はどこまで行っても迷惑です。日本人拉致の中心だといわれる組織だって、堂々と居残っている。不法滞在の外国人が法を犯しても見ないふり。実態は解明できているのに、国には取り締まる気概も手段もない――そう非難する識者もいます。他国の犯罪に目をつむるのは、手放せない既得権益があるからでしょう? 警察だって、パチンコがらみの利権を取り沙汰されてますしね」
「不当な憶測です」
「だとしても、犯罪の元凶は消えていない。あなたが知らなくても、どこかに不正を許して利益を得ている存在がある。それを炙り出したいんですよ」
「思い上がりだ……と、自分を疑ったことはないのですか?」
「何度も自問しましたよ。確かにドン・キホーテ並みだと認めます。でも、風車の中には本物の怪物も混じっているかもしれない。少なくとも、マスコミは私を後押しする方向に動いた。視聴者の反応は、賛同を示している。私と同じ疑いを持つ国民は無数にいると証明されたんです。これからおびただしい数の案件が持ち込まれるでしょう。いうまでもなく、私はその内容には関与できませんから」
「この先ずっと警察を操る気なんですか?」
「正しい仕事をしてもらうために、退路を塞いだだけです。もう言い逃れはできません。人員も強化して、体制を整えてください。官僚同士の馴れ合いとか、政治家への忖度とか、過去のしがらみの隠蔽とか、そんなもので滞るようだったら国民の不満はさらに高まります。これまで言いなりにできたマスコミだって、視聴率を競い始めれば些細な失態も見逃さない。マスコミが政権批判に手心を加えるようなら、今度はスポンサーが離れていくでしょう。そのために、手を尽くしてここまで煽ってきたんですから。さらにはネットも不正摘発の最前線になるでしょう。私たちはもう、ごまかされません。事実は事実として、日本中に曝されることになります」
「だからあなたは、義賊として安全地帯に逃げ込みたかったんですか? 慈善団体への寄付はそのための〝仮面〟に過ぎないんでしょう?」
「逃げ込む必要なんてない。あと少しです。歯車がしっかり噛み合って回り始めれば、誰も勢いを止められなくなる。不正摘発の流れはきっと終わりません。国民の注目が臨界点を越えれば、寄付だって宣伝戦略に変わる。特に製薬会社は、疑惑払拭のためにも大金を支払う。広告代理店不要の、新たな広告媒体といってもいいかも。何より、寄付するメリットより、寄付しないデメリットの方が大きい。競合に遅れをとることは、『横並びなら御の字』というサラリーマン経営者の恐怖です。その兆候は、こうして見え始めているじゃないですか。勢いが本物になれば、私の出番は終わりです。人質も解放するし、爆弾の場所も教えましょう」
「そんなに都合よくは行きませんよ!」
「事実、行ってるじゃないですか。おそらくマスコミや世の中が、閉塞感を打ち破る出来事を求めていたんでしょう。計画した私自身がびっくりです」
岸本からの報告が入る。
『人質監禁の映像が偽装されたものと仮定し、収容可能なトラックを割り出しました。宅配便によくある小型の冷蔵車でも充分です。フェリーの乗船リストの中でそれ以上の大きさのトラックは85台。小型冷蔵車は24台です。おそらく、冷蔵車のどれかが監禁場所です』
直後に、高山からの報告がイヤホンに届く。
『ビンゴでした。フェリー乗り場の監視カメラに、冷凍トラックで乗船する麗子さんが写っていました。化粧と宅配便の作業服でごまかしていますが、80パーセント以上間違いないとのことです。同伴者として25歳前後の若い男。本社に確認を取りましたが、今日はフェリー便はありません。九州でスクラップ車両として廃棄した車が、ナンバーを偽造して使われているようです。狂言誘拐で確定です。仙台出港は昨夜8時前、フェリーはすでに苫小牧に近づいています。SST――あ、海保の特殊警備隊に応援を要請しました。幸い、海自の大港基地で訓練中の部隊がありましたので、宮城県警のSATと合流して、ほどなく人員を送り込めます。フェリーにはヘリポートも装備しているので、突入は容易でしょう』
篠原はそれを聞いても表情を変えなかった。わずかな迷いが生じていた。
SSTは海上保安庁が創設した対テロ特殊部隊で、高度な実戦訓練も積んでいる。関西国際空港やプルトニウム海上輸送の警備が当初の任務だったが、かつて小笠原に押し寄せて赤珊瑚を密漁した中国漁船団を急襲したのも彼らだ。サブマシンガンや閃光弾などの実戦的な火器を装備し、ヘリコプターからのラペリング降下でテロリストに占拠された艦船を奪還することも可能だ。当然、爆発物処理のスキルも有している。
麗子たちを左翼活動家、あるいはテロリストと断定することは、まだできない。しかし爆発物の懸念がある以上、半端な部隊で対処することも危険だ。一つ間違えば、フェリー内の車両に引火して大惨事を引き起こす。
とはいえ、民間人に対して海上自衛隊員を送り込めば法的な軋轢を生む。その点、海上保安庁の一部門であれば警察行動の一環として処理できる。
現場の対処を任せた高山が選んだ行動は、妥当なものだった。
篠原の迷いは、そこにはない。
直ちに情報を開示してマスコミの関与を断ち切るべきか――。
南麗子の確保を待ち、概要を掴んでから行動に移すべきか――。
速やかに決断する必要があった。
世論は今、この事件に耳目を引きつけられている。岸本からの報告では、ネット中継や検索数も幾何級数的に跳ね上がり、ダウンするサーバも出始めたという。玉石混交の憶測記事も飛び交っている。テレビとネットが同時に炎上状態に陥っている。そこに度重なる爆発事件が重ね合わされ、収拾がつかない状態になりつつある。
そんな状態で憶測をもとに情報を遮断すれば、逆に〝体制側の横暴〟を印象付けかねない。
実際アメリカの大統領選挙ではマスコミやネット企業の偏向が問題になり、世論の怒りを燃え上がらせてしまった。結果として、旧体制の利権体質や他国の浸透工作を暴くこととなった。
〝消せば増える〟
この言葉が、ネット社会の自然発生的な真実なのだ。放置する時間が増えれば増えるほど、鎮静化は困難になっていく。
とはいえ、政府や大企業の明らかな不正が告発されるなら、警察や検察の本来の目的から見れば悪いことではない。混乱は極力抑えたいが、悪事は糾されなければならない。官僚組織のしがらみの中で見逃さざるを得なかった〝巨悪〟を摘発できるなら、日本にとって千載一遇のチャンスともなりうる。
それもまた、真実の一面だ。
中里の最終的な狙いがどんなに悪魔的な犯罪であろうとも、現段階では巨悪の解明にも有効なのだ。警察が目を背けてきた〝正義〟の実現に、突如現れた誘拐犯が解決策を与えたのだ。
見て見ぬふりをして諦めてきた〝犯罪的行為〟にもメスを入れられる――。
篠原は、若い。不正や犯罪を憎む心を抑えるには、若すぎた。
もう少し待とう――。
南麗子を拘束して狂言だったとの確信を得られた時点で、情報封鎖に移行しよう――。
それが結論だった。
それまでに告発された不正行為には、喜んで対処しよう。だが、中里の企みは完全に叩き潰さなければならない。
警察は、犯罪者に加担してはならないのだ。
篠原がようやく口を開く。
「我々警察に大掃除をさせるつもりなんですか?」
中里は薄笑いを消さない。
「そもそも、掃除があなた方の仕事でしょう? 私のような民間人では、どうあがいてもできないことばかりだ。だったら、本職のあなた方を少しでも働きやすくする……背中を蹴飛ばすぐらいならできるかもしれないって、気づいたんです」
猿橋が話を戻す。
「でも、どうやってここから逃げる気? わたし、ずっとそれが気になって仕方ないんだけど」
「こだわりますね。納得できませんか? 逃げる気なんて、最初からないんですって。私は逮捕されに来たんですから」
「それ……信じられないんだけど」
「信じないのはあなたの自由です。でもこの件については嘘は言いません。あ、隠し事は少ししてますけどね」
「その隠し事が知りたい」
「隠すのは、隠す必要があるからです。爆弾の場所だって、隠しているからこうして要求を通すことができる」
「時間稼ぎかしら?」
「タイムリミットも、まだ明かしてませんからね。でも、あなた方の持ち時間が減っているのは間違いない。だから、焦った方がいいですよ。マスコミにももっと協力してもらって、どんどん寄付と告発を集めてください」
篠原がテレビ画面を示す。
「それは見ての通り、今も進行している。あなたの要求は充分に叶えられたはずだ。そろそろ、タイムリミットを教えてくれてもいいだろう? せめて、麗子さんは早く救ってやりたい。リミットに余裕があるなら、家族も少しは気が楽だろう。寄付を早めるように世論に訴えることも可能かもしれない」
「私にはまだ充分だとは思えませんね。でも、予定より順調に行っていることは確かです。警察の頑張りは認めます。ですので……あと30分したら、タイムリミットをお教えします。今の様子だと、リミット前に寄付は集まるかもしれませんけどね」
岸本の声が入った。
『ナイスです! 寄付の集まり具合から推測すると……うわ、また大口が入った! これじゃ5時間――いや、4時間程度で目的金額に達するかもです。ま、山勘ですけど。時々入る数億円単位の寄付が効いてますね。その頻度も高まっています。奴の表情を見ながら、カマをかけてみてください』
篠原が言った。
「100億なんていう大金、無理だと思っていたが……大口の企業献金も出始めていますね。これもあなたの計算の内なんですか?」
「大型の不正の大半は高級官僚がらみ、でしょうからね。探られたくない腹もあるとは思ってました。今のうちに好感度を上げておきたい企業なら、慌てて寄付するだろうってね。当然国民は、金額によって企業の本気度を測ります。国民感情を理解しているなら、他社より高額の寄付をしないとね。話題になるためには、2番じゃいけませんから」そしてカメラに向かう。「ということですので、企業さんからの寄付はテレビで大々的に広報してあげてください。宣伝効果が認められれば、会議や稟議も通りやすくなりますから。大口が増えれば、人が傷つくことなくこのイベントを終えることができるでしょう。逆になんらかの邪魔が入って進行が遅れれば、結果は悲惨なことになるかもしれません」
そして中里は篠原を見て、笑った。
猿橋が言った。
「あなたにとっては、ただの〝イベント〟なの?」
「言葉の定義は人それぞれです。世界大戦だって、歴史の上では1つのイベントに過ぎません。事態が穏便に収束すれば、正しい暮らしをしてきた人々には大した影響はないはずです。逆に不正を行なってきた人々は、摘発に怯えることになるでしょう。悪人がのさばる世界よりはずっと生きやすい。そうは思いませんか?」
「爆弾で脅しているくせに、義賊の見せかけは捨てないのね」
「義賊と称しているのはマスコミでしょう? 私はずっと、ただの犯罪者だと自認しています」
「わたしは、それが分からない。自分を犯罪者と呼ぶなら、どんな種類の犯罪者なの? 教授の犯罪って、いったい何?」
「名称なんて、なんでも構いませんよ。人騒がせな愉快犯でも結構。勘違いの革命家気取りでも結構。押し付けがましい偽善者でも結構。ブレーキが壊れた誇大妄想狂でも結構。あなたは犯罪心理学に精通しているんでしょう? 私に名前をつけてください。この先誰かに尋ねられたら、その名称で自己紹介しますから」
「それって……教授の犯罪は完結したってこと? すでに目的は叶えられたの?」
「まあ、近いですね。寄付が満額に達する頃には、完全に叶えられていることを望んでいます」
「……ってことは、まだこの先に何か企みがあるのね?」
「さあ、どうでしょう? あったとしても、言いませんよね。まだ叶えられていないのなら」
猿橋がため息をもらす。
「本当、教授は腹の底が読めない人ね……」
「ポーカーフェイスは商売道具ですから。患者の言うことにいちいち感情を昂らせていたら、正確な分析や対処法の選定もできないでしょう?」
と、高山からの報告がイヤホンに入る。
『麗子さんの同乗者は、弓削翔也27歳と判明。中里と同じ大学の英文学教授の孫だ。職業はインテリアコーディネーターということだが、実際はほぼプータローだな。大学時代は極左グループに接近していた。公安の資料によると、現在は関係を絶っているらしい。だが、日本で行われたBLMのデモなどに参加した写真もネットに上がっていた。父親も左翼系の学者なので、思想的にはリベラルだな。地下ではずっと極左とつながっていたんだろう。たぶん、麗子さんと肉体関係を持っている。こいつが洗脳の元凶だな――数分前にフェリーに突入したと連絡が入った。そろそろ……お、弓削が捕まったぞ! 客室で平然としていた! ……麗子さんを監禁してる車を白状した!』
猿橋が篠原と目を合わせる。篠原が小さくうなずいた。
猿橋が言った。
「もう、時間稼ぎは必要ないみたい」
「どういうことです?」
篠原がラップトップ画面を中里に向けた。
麗子の監禁場所の暗視カメラ映像が映されている。その瞬間、画面がほとんど真っ白に変わった。
「見て。今、冷凍車のドアを開いた。麗子さんが発見されたわ」
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