5−2・雪隠詰め【分析室】

 篠原は分析室に入った。ドアの横で高山が待ち構えていたと知り、つぶやく。

「〝あっち〟はいいんですか?」

「井上が見張っています。ここからも丸見えだし」

「それでもまずいでしょう。記者も見ているんだし」

「だから、です。すぐ済みます」

「話って、なんですか?」

 高山は『取り調べ室に戻る前に打ち合わせがしたい』と連絡していた。他の捜査員に聞かれないように声を落としていたが、その目は厳しい。

「こんなことは言いたくなかったんですが……篠原さん、いつもと違うんじゃありませんか?」

「違うとは?」

「覇気が感じられません。サルを見習ったらどうです? あいつ、楽しそうですよ。あなたはいつも、サルみたいに楽しんでました。魂、抜かれたみたいじゃないですか」

 篠原本人が、苦しんでいたようだった。

「ですが、中里さんが何を狙っているのか全然見抜けなくて……」

 理工系出身の篠原は、〝再現可能な現象〟から相手の目的を見抜くことには長けている。量子の非常識な振る舞いを研究してきただけに、考え方も柔軟だ。だからこれまでは、オカルトがらみの事件にも怯まなかった。むしろ『不可解な現象が増えるほど、犯罪者の目的が絞りやすくなる』と、うそぶく性格だった。

 しかし中里はゲームのルールを隠したまま要求を小出しにし、しかも方向性が大きくぶれる。結果、最終目的の予測が立たない。その端緒すら掴めずにいた。篠原の頭脳を持ってしても考えが収束しないので、先手が考えられない。競っているはずなのだが、迷いが増えるばかりで踏み込めなかった。

 高山はそんな篠原を目の当たりにして、気持ちが強張っていることを感じ取っていたのだ。

「見抜く必要がありますか?」

「見抜かなければ、先手が打てません」

「勝とうと思わなくてもいいんじゃないですか? ゲームじゃないんだから」

「でも、中里さんはゲームのつもりです。それは間違いないんですが、ルールが全然飲み込めなくて……」

「お得意の〝直感〟はどうしたんですか?」

「それが降りてこないから、辛いんです」そして篠原は、苦しげに目を伏せた。「一般的に言って、犯罪の目的はなんだと思いますか?」

「そりゃ、金が欲しいとか怨恨だとか……」

「ですよね。権力欲でもいいし、復讐でもいい。宗教やイデオロギーに基づく信念でも構いません。その目的地さえ見えてくれば、頭も働くと思うんです。だが彼は、まるで量子だ。波動でもあり、粒子でもある……観測によって、その姿をするりと変えてしまう。結果、実体が定まらない。それが量子なら、戦い方の見当は付けられます。ですが、そんな人間にどう対処しろと……?」

「やっぱり人間が苦手なんですね」

 篠原は否定しなかった。

「たったこれだけの時間で、思い知らされました。まだまだ未熟だということです」

「だから、俺らがいるんです。ヘンテコな犯罪者や、理屈に合わない行動を取る連中は、常に扱っていますから。サルはやる気満々です。あいつ、シナバーに瓜二つで、好きなことには没頭する。だから、心が自由だ。サルは、あいつの目的を見抜こうなんて思っていない。ただただ、あいつの頭の中身を面白がっているだけです。純粋に、研究対象と見ているんです。競ってなんかいません。あなたもサルたちと同じタイプで、自由じゃなければ力が出せない人間なんです。組織の縛りとか、官僚の付き合いとか、そんなものは俺らが背負います。だから、肩の力を抜いてください」

「ですが、人質が――」

「それも、俺らの仕事です。所轄は地べたを這うしか能がない連中ばかりですが、あいつらしかできないこともあるんです。信用してください。あなたは自由にやってください。俺らじゃできないことを成し遂げてください」

 篠原は顔を上げた。

「ですね……シナバーさんにも、頼ろうかな」

「それ、いいと思いますよ」

「呼んでおいてくださいね。少し、楽になりました」

「じゃあ、楽しんできてください」

「それができるといいのですが」

 篠原は分析室を出ていった。程なく取調室のドアが開き、中に入った篠原が中里の前にペットボトルを置く。

『これで注文通りですか?』

『注文はもう1つありますけど?』

『人質の公開はもう少し待つように報道機関に依頼しています。ただし、上層部の了解が降りるまで長くはかからないでしょう』

『タイムリミットに間に合うといいですね』そしてカメラを見て記者に語りかける。『もし間に合わなかったら……それ、マスコミの責任にもなるんですけどね』

 モニターで記者たちの動揺ぶりを観察していた岸本がつぶやく。

「これじゃ宗一郎氏を総監室から出すわけにはいきませんね」

 猿橋もうなずく。

「報道協定も完全に無意味。邪推って言うけど、マスコミだってあんなにはしゃいでいるじゃない」

「ですよね。でもなんでそこまで興奮するんです?」

 猿橋が驚いたように岸本を見つめる。

「あんた、ニュースとか見ないの?」

「何かあったんですか?」

 2人の背後に高山が立つ。

「厚労省スキャンダルも知らないのか?」

「なんすか、それ?」

「パンデミック対策をわざと送らせて、製薬業界の利益誘導を図ったという疑惑だ。有効性が確認された安価な一般薬の使用認可を渋って、わざわざ高価な新薬を推奨した。開発したのが他業種からの参入組で、天下りを受け入れていないからだという推測も流れている。おかげで製薬会社は莫大な儲けを手にし、何100人かの患者が余分に亡くなった――まあ、ネットで広まった陰謀論だな。とはいえ、そんな証言がアメリカから出てきたのは事実だ。ワクチン導入に関しても癒着があったという噂も絶えない。与党攻撃の手段に行き詰まっている野党には、格好の攻め所だ。厚労族出身の首相を引き摺り下ろすにも最適の材料になる。厚労省幹部を狙った誘拐事件に正体不明の文書が絡んでくるとなれば、誰だって疑いたくもなる」

 猿橋が不満気に言う。

「でしょう?」

「だが、守秘義務があるのも事実だ。俺たちが口に出しちゃまずいことだ。もはやどこから情報が漏れるか分からんからな。それより、麗子さんの画像だ。発信元は解析できないか?」

 岸本が初心者を諭すように説明する。

「当然、世界各地のサーバを点々と経由するソフトを使用してます。追跡はすぐ始めましたが、サーバの数や所在国が数10に及べば情報開示の手続きも煩雑になります。何ヶ月か時間をもらえれば解明できるかもしれませんけど、協力的ではない国もあるから」

「その程度の防護策は構築済みか……」

 猿橋の関心は中里の要求の方にあった。

「高山さんは、南さんがそんな文書を持ってると思う?」

 それは高山自身の疑念でもある。

「あれだけの地位なら、極秘の内部文書を持っていてもおかしくはない。文書化が許されない密約だとしても、身を守るために密かに録音データを残している――とかな。だが、そもそも疑惑が事実だという確証はない」

「だからこそ記者は期待するんでしょう?」

「文書が本当にあるなら、だ。少なくとも、認めてはいないようだ。炎上を狙った中里のフェイクかもしれない」

「確かに。劇場型愉快犯なら考えそうなことね。マスコミがこれだけ浮き足立っているんだから」

「それでも、遊び半分ではあり得ない。よほど切実な目的がなければ、ここまで綿密な計画や準備は必要ないだろう。愉快犯ごときが警察を手玉に取る頭脳を持っているとも思えない」

「文書が実在するなら、麗子さんを誘拐する理由にはなるかも」

「中里が文書の存在を知っていた、と? たかだかFランク大学の助教が、どうしてそんな機密に近づける?」

「麗子さんから聞いた――とか?」

 高山がうなずく。

「その線は捨てきれないがな……」

「だったら、麗子さんも共犯? やっぱり狂言なのかな……?」

「うっかり漏らしてしまった、とかもあり得る。とはいえ、中里との接点は2年前のカウンセリングで、疑惑報道が起きる前だ。そもそも、娘だからといって厚労省の機密を知っているのはおかしい。官僚は普通、重要案件ほど家庭では語らない。情報が漏れるのは、大半が身近な人間の気の緩みからだからな。麗子さんは父親とはいがみ合っていたようだし」

「父親の電話を盗み聞いたとか、あるんじゃない?」

「だとしたら、それはいつのことだ? 感染症パニック後でなければ辻褄が合わない」

「教授が知ってるわけはない……か。だとしたら、麗子さん主導の狂言だってことになるのかな……?」

 岸本が思いつく。

「中里ってカウンセラーですよね。個人の秘密に近づきやすい職業でしょう? 患者の中に別の官僚がいるっていう可能性は?」

 高山がうなずく。

「ないとはいえないな……。過去の患者が官僚になって機密に絡んでいるということもあるかもしれない。そこで情報が渡るか、共謀しているなら……」そして背後のスタッフに指示を飛ばす。「中里が手がけた患者も調べろ。官僚か、今は官僚になっている人物がいないか精査しろ」

 どこからともなく複数の返事が返る。

「了解です!」

 だが、高山自身はその可能性は低いと見ているようだった。

「だが、どうもしっくりこないな。あいつ、そんなに分かりやすい人間には思えない。単独犯というのも難しいだろうし、共犯者がいると考えた方が自然だ。機密を知り得る何者かが、麗子さんに近づくために中里を引き込んだという線の方が強そうだ」

 岸本がつぶやく。

「結局、ここで話し合ってても結論は出ないっすよね……」

「可能性を検討するのは大事だがな」

「自分は分析屋なんで。データがないと頭が回りません」

「そのデータには、何か気になることは現れていないか?」

 岸本が困ったような表情を見せる。

「あの男、心理状態がつかみにくいんです。かなり自由にバイタルをコントロールできるように訓練してるのは確実です」

「拉致現場の画像も送られてきたんだろう? そっちには不審はないか?」

「何度か繰り返して見ましたが……ヤツが言った以上の情報は得られません。2人の狂言だとしたら、どっちも相当な演技力ですよ」

 彼らの会話に背後のスタッフが割り込む。

「仙台から連絡。拉致に使用したワゴン車を発見しました」

 高山が振り返る。

「どこだ⁉」

「冬期休業中のゴルフ場近く。森の中で、外国人季節従業員の宿舎になっているコンテナハウスです。ここ1ヶ月は無人だそうで、宮城県警のSATが近くで待機中です」

 高山が命じる。

「近くに共犯者がいる可能性がある。身を隠したまま、できるだけ詳細に観察しろ。中継されている人質の画像と一致点を探せ。突入命令があるまでは絶対に存在に気づかれるな」

 高山が岸本に目配せする。

 岸本は、中里を見守る篠原に現状を伝える。

 篠原はしばらく考えてから、中里に言った。

『グランド宮城ゴルフクラブ……知ってますね?』

 中里がほほえむ。

『車、見つかっちゃいましたか。やはり日本の警察は仕事が早い』

 岸本がうめく。

「うわ、直球だ……記者だって聞いているのに。篠原さん、何を狙ってるんだろう?」

 高山が身を乗り出す。

「ようやく本気になったか。篠原さんはそうでなくちゃな。懲戒覚悟で一気に切り込む気だ。変化を見逃すな。お前の能力を信じて、主導権を奪おうとしているんだ」

 高山の予測通り、篠原は躊躇しなかった。

『爆弾、仕掛けてあるんですよね。でも、麗子さんが亡くなってしまったら、身代金も手に入りませんよね?』

『突入する気ですか?』

『文書とやらが狙いなら、それも御破産になりますよ』

『やめた方がいいと思うけど。文書の存在も、すでにマスコミに知られてるわけだし。今さら隠しようはありませんよ』

 岸本がつぶやく。

「なんだよ、この平静さ……何考えてるんだ……」マイクのスイッチを押す。「バイタル変化なし! 異常なほど変化ありません!」

 篠原がまたしばらく考え込む。

『ということは、やっぱり麗子さんは車の近くいるんですね?』

『やめた方がいいって、助言はしましたよ』

 岸本が小声で叫ぶ。

「心拍、変化が出ました! 焦ってます!」

 篠原が言った。

『突入です』

 背後でスタッフが突入命令を発する。

 数秒後、中里がほんのわずかな笑みを見せた。

 岸本と猿橋が同時に叫ぶ。

「中止して!」

 高山が言った。

「なぜだ⁉」

 猿橋がマイクスタンドを掴む。

「罠よ!」

 岸本は泣き出しそうだ。

「騙されました! いきなりバイタルが正常に戻りました」

 篠原もマジックラーを見つめて硬直した。ゆっくりと監禁場所を写すラップトップに目を向ける。

〝臨時指揮所〟の元には、SAT隊員がヘルメットに付けたカメラの映像が数種類届いていた。その1つが、岸本のコンソールに転送される。

 うっすらと雪が積もった針葉樹の森の先に、コンテナハウスとワゴン車が確認できる。画像が動き出し、木々を縫って進んで行く――。

 背後で高山の部下が叫んでいた。

「中止です! 突入中止!」

 間に合わなかった。

 カメラがドアに近づく。手をかけた瞬間、画面がブレて回転した。隊員が吹き飛ばされたようだ。音声が消え、画面が真っ白に変わった。カメラが壊れたのだ。

 高山が振り返る。

 臨時指揮所のスタッフたちが、モニターを見つめて硬直していた。

 1人が、つぶやく。

「ヤバイ……爆発しました……」

 全員の視線が麗子を映すモニターに移る。だが、ベッドに横たわった麗子の姿に変化はない。

 分析室が安堵のため息に包まれる。

 岸本がマイクに言った。

「コンテナハウスで爆発があったようです……詳細を調査します」

 篠原も麗子の無事を確認してから、中里を見つめた。

『爆発が起きました……あなたは一体、何を考えているんです? 麗子さんはどこなんです?』

『刑事さんとか、周辺に待機しているんでしょう? すぐに退避させてください』

『退避? まだ何か企んでいるんですか⁉』

 高山は素早く反応した。

「SATを退避させろ!」

 スタッフが現場からの要請を伝達する。

「突入班に怪我人はなし。小爆発があった室内を鑑識に精査させたいとのことですが」

「ダメだ! すぐに離れろ! まだ終わってない!」

 中里が今度ははっきりと笑った。

『今すぐコンテナハウスから離れてください。3分後に大爆発が起きます。次は命に関わりますよ』

 猿橋が叫ぶ。

「あっちに戻ります! 教授の表情を直に見たい!」

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