5−1・雪隠詰め【取調室】
中里のイヤホンに音声が聞こえる。すでにコール音が入っていた。
中里がテーブル角のカメラを見据える。
「記者の皆様にお願いです。これから行われる親子の会話は、サイトからも確認できます。報道規制を要請されていることは承知していますが、皆さんで一斉に反故にすれば処罰はできないでしょう。何かしらの方法で外部と連絡を取って、ぜひテレビでも報道してください。録画でも構いません。ただし、なるべく早急に。それが人質の生命を救う唯一の方法であることを、誘拐実行犯である私が保証します。マスコミは人質救出に力を貸すだけだということを、くれぐれもお忘れなく。あなた方は〝善意の第三者〟なのです」
中里が念を押すまでもなく、報道各社はもはや規制に従う考えを捨てていた。記者クラブに残ったほぼ全員が、スマホを隠し持っている。取調室を映し出す大型モニターに、堂々とカメラを向けている者さえいた。
それを知りながら、制服警官たちも黙認していた。というより、状況の変化に追いつけずにいる。
命令系統は破綻していた。
末端の警官は混乱に陥り、誰がどんな決断をするか見極められずにいる。指示が降りても、従うべきかどうかが判断できない。常識を破った中里の行動が、警察組織の行動規律を根底から揺るがしていた。
誰もが自分の行動が人質の死につながることを恐れ、身をすくめている。
〝警視庁の崩壊〟が可視化され始めていた。
中里がテーブルのラップトップに見入る。そこにはすでに麗子の監禁場所が映し出されていた。
モニターの中でかすかなコール音が鳴っている。iPhoneデフォルトの着信音だ。
ベッドに腰掛けていた麗子が顔を上げ、あたりを見渡す。だが、やはり部屋は真っ暗なようだ。視線が忙しなく動き、定まらない。何も見えないようだ。しかもロープに縛られているので、動きようがない。
猿橋が、画面から目を離せないままつぶやく。
「電話、取れるの?」
中里がうなずく。
「自動で応答できます。iPhoneの機能で、15秒後に設定していますから」
と、回線がつながった気配がする。同時にイヤホンに南宗一郎の声が聞こえた。
『麗子か⁉』
一瞬遅れて、画面の中の麗子が視線を定めたが、動きは鈍い。
『お父さん⁉』
『無事なのか⁉ 怪我はないか⁉』
わずかなタイムラグがあるが、画面とイヤホンの通話は一致していた。
『怖い……真っ暗で……怪我はないみたいだけど……縛られてるし……どこかも分かんない……』
麗子の声は、不自然に抑揚が欠けていた。泥酔しているように、舌も回っていない。なんらかの薬剤を注入されて意識が不明瞭な様子だ。
『暴行はされていないんだな⁉』
『注射打たれたみたい……そしたら気を失ったらしくて……頭がフラフラする……。他には別に変わりないみたい。でも、怖い……』
中里が高山に言った。
「誘拐犯から命じられた内容を話せ――と伝えてください」そしてマジックミラーを見る。「宗一郎氏に依頼できるんでしょう?」
高山は何も答えなかった。だが、反応はすぐにあった。
『麗子、犯人から何か言われてるのか? 警察に何か命じろ、とか……』
『うん……。なんのことだか分かんないけど、〝あの書類〟が欲しいって……警視庁に書類を持って来させろって……言ってた。書類って……何? それだけで分かるの? お父さんが持ってるの?』
宗一郎の返答には、明らかに不自然な間があった。
『……書類、って言われても……それだけじゃ、なんのことか……』
麗子の声に恐怖がにじむ。
『どうしても欲しいって言ってた。それ、なかったら……わたし、どうなるの……?』
『安心しろ。警察が必ず助け出す。怖いだろうが、我慢しろ。何がなんでも助け出すから……』
そう答えた宗一郎の言葉には、しかし力はなかった。娘の身を案じてうろたえる父親の態度が、急変している。
まるで、予期せぬパンチを受けて放心するボクサーのようだ。
その声の変化は、中継画面を見守る記者たちの脳裏にも刻まれた。
『早く助けて……わたし、怖い……』
中里が命じる。
「娘の安全は確認できたでしょう。通話を切ってください」
宗一郎がうめくように言った。
『……電話を切るように命じられた』
『待って……怖い……助けて……』
『すまない。切らないと何をされるか分からない。全力を尽くすから、安心して待ってろ』
そして通話が切られる。
『やだ……切らないで……お父さん、助けて……やだよ……怖いよ……』
麗子のうめきは押し殺した叫びに変わったが、もはや電話からの反応はない。
回線が切断されたと知った麗子はベッドに突っ伏した。暗闇で頭を抱えたまま、背中を震わせる。不安と恐怖で嗚咽しているようだ。
電話を切った宗一郎の判断は止むを得ない。
麗子は監禁場所に仕掛けられている爆発物の件は知らないという。だが、宗一郎には教えられている。中里は単独犯だと明言しているものの、外部に協力者がいないという確証はない。
逆らえば麗子に危害が及ぶという危惧が消えないのだ。
それでも、〝あの書類〟という単語に食いつかない関係者はいない。
特に記者クラブの面々は、明らかに色めき立っていた。小さなモニターの中の動きだが、見間違うはずはない。その動揺は、中継を見守る所属新聞社やテレビ局にも広がっているはずだ。
猿橋も例外ではない。中里を見つめる。
「〝あの書類〟って、何? 教授が麗子さんに『持って来させろ』って命じたのよね」
「そうですよ」
「で、それって、なんなの?」
「南宗一郎氏なら、おそらく分かってるでしょう」
猿橋もうなずく。
「確かに、そんな感じだったわね」
高山の声は厳しい。
「サル、いい加減な発言は控えろ。記者も聞いている」
猿橋から不意に挑戦的な態度が消え、意外なほど素直に応えた。
「ごめんなさい……緊張してるせいか、なんだか気分が悪くて……」
高山が敏感に、その意図を嗅ぎとる。
「外の空気を吸ってこい」中里に冷たい視線を向ける。「こいつに振り回されてばかりだからな。まだ簡単には終わらないだろう。分析室で休め」
「ありがとうございます」
猿橋が席を立つ。
「俺も少し疲れた。管理官が戻ったら、交代して欲しい」
「誰か他の人に頼みましょうか?」
すかさず中里が命じる。
「それは困ります。担当が変わると、意思疎通のやり直しで面倒になる。私の相手は、あなた方3人に限定してください」
猿橋も立ったまま成り行きを見守る。
高山が肩を落とす。
「勝手なことばかり……」
「無駄な時間は使いたくないでしょう? タイムリミットのこと、お忘れなく」
「時間制限は本当にあるんだな?」
「もちろん。あなた方が信じないのは自由だし、責任を取る覚悟があるのならお好きなように」
「あとどれぐらい残ってるんだ?」
「それ、まだ明かせません。大事な交渉材料なんだから。ただし、無駄に引き延ばす余裕はありませんから。それと、マスコミに報道の許可を出していただけませんか? すでに人質の中継画像は渡っているんですから、もう規制は無意味でしょう? テレビ局だって、正式に許可が降りれば安心して私の〝依頼〟を実行できますから」
そして中里は、3台のテレビに視線を移した。
怒りを圧し殺した高山が呼吸を鎮めて、マジックミラーを見る。
「ということだ。管理官に伝えてくれ。南氏の相手が終わったら、交代を頼む」
高山も猿橋も、中里に知られずに現状を再検討したかったのだ。
岸本が答えた。
『総監室はまだしばらくかかるそうです。向こうでも、〝あの書類〟ってヤツについてやんわり事情聴取をしているそうで。さすが高級官僚、口は固いらしいですね。知らぬ存ぜぬを貫き通す気らしいです。どうも、厚生省の内部資料のことらしいって感触だとか。それから、通話先が絞られてきました。やはり仙台近郊です。冬季休業中のゴルフ場の近辺で、Nシステムや近辺の監視カメラ映像とも一致します。今、所轄がローラーをかけています』
高山の背中にかすかな寒気が走る。
猿橋も同様の危険を察知したらしい。顔を見合わせる。
中里のこれまでの行動を見れば、ワゴン車の行き先が探知されることは確実に予期している。その近くに人質が監禁されているなら、無理な突入は爆発を招くかもしれない。ワゴン車そのものが、新たな〝罠〟だという恐れもある。
彼らはもはや、中里の周到さを微塵も疑っていなかった。
猿橋が慌てて部屋を出る。
取調室に残る高山のイヤホンに、すぐに通信が入った。
『サルさんの意見で、ローラー捜査、控えめにしてもらいました。罠かもしれないし、共犯者が見張っている恐れもあるということで。確かに、パトカーで派手に走り回られると警戒させちゃいますよね。篠原さんが戻るまで、目立つ行動は控えます。それでも、ゴルフ場の近くの森の中らしいってとこまで絞れたそうです』
高山がかすかなため息をもらす。少なくとも、突入には篠原の許可が不可欠だ。その前に、現状を再検討する必要がある。
「中里、あんたも休憩が欲しいだろう? 飲み物を持って来させる」
「できれば、ペットボトルのお茶を。記者たちが見守っている中で自白剤なんか盛られないとは思いますが、万全を期したいので」
「警察はそんな手段は使えない。記録を取られている以上、証言を無価値にしかねないからな。むろん、暴力も脅迫も禁じ手だ」
「不満そうですね」
「化石並みの老ぼれ刑事には、居場所が少ないんだよ。ここじゃタバコも吸えねえしな」
猿橋がイヤホンに出た。
『篠原さん、すぐ来るそうです。宗一郎氏の対応は、総監自身が買ってくれたそうで。官僚同士の秘密のすり合わせが必要なんでしょう。管理官程度では口を挟めない案件らしいですね』
と、篠原の声が割り込む。ヘッドセットを着用して署内を移動しているようだ。これまでの経過も追跡しているのだろう。
『篠原です。猿橋さん、邪推は慎んでくださいね。不確実な憶測がマスコミに広まれば、政府の活動を著しく阻害しますから。あなたは警官ではありませんが、守秘義務は負っています。くれぐれも忘れないように』
篠原の叱責は、猿橋の推論が事実を言い当てているような印象しか与えなかった。
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