第2章・中盤戦
4−1・奇手【取調室】
もはや、演技していられる状況ではなかった。
篠原がマジックミラーに向かって言った。
「記者クラブはどうなっていますか? 情報流出は防げますか?」
高山の返事は悲壮感を隠せない。
『無理だ……もう何人も署を抜け出ています。見えるでしょう?』
見えていた。
記者クラブの面々は全員席を立ち、出口に押し寄せている。数人の制服警官が抑えようとしていたが、無駄だった。
麗子が不倫の子だという嘘は猿橋が暴いたが、その攻防はマスコミを惹きつける序章に過ぎなかった。中里が本当に見せたいものは、爆発をコントロールできるという現実だったのだ。
1人がきっかけを作れば、それは報道規制の反故を意味する。所詮は紳士協定に過ぎない。法的権限のもとに行われている規制ではない以上、破ったからといって処罰はできない。1社だけならともかく、全社に処罰を与えれば、マスコミ全体を敵に回す結果になる。
猿橋の〝勝利〟は、一瞬のものに過ぎなかった。
篠原がつぶやく。
「あれほど念を押したのに……」
『スクープを競うブン屋が相手ですよ。力づくでなら、ともかく……これで振り出しに逆戻りです……』
岸本の声が混じる。
『それどころか、もうマスコミの餌食です。隠し事なんてできません。一挙手一投足まで暴かれます。がんじがらめに縛り付けられたと言っていい……』
その言葉通り、クラブに残った記者は身を乗り出して取調室を映すモニターを凝視している。彼らは明らかに、本社との連絡役として残されているのだ。
「せめて、音声は消せませんか……?」
『中里に確認してもらえますか?』
篠原が中里を見つめる。
「取調室の公開を中断させて欲しいのですが……」
「私が認めるとでも?」
「音だけでも切らせてもらえませんか?」
「記者に知ってもらいたいからこそ、こんな手間をかけたんです。それぐらい理解できているでしょう?」
篠原は首をうなだれるしかなかった。
高山がつぶやく。
『今さら中断だなんて、記者だって納得しないでしょうしね……』
その声には、堪えきれない悔しさがにじみ出していた。
記者を抑えられなかったことが、ではない。単身で警察の牙城に乗り込んできた誘拐犯に、いいようにあしらわれることが我慢できなかったのだ。
なのにまだ、その真意さえ見抜けていない。日本全国の警察組織を動員しての誘拐捜査も、端緒に付いたばかりだ。捜査初期段階にして犯人が心臓部に侵入することを易々と許し、それどころか一方的に振り回されている……。
だからといって、どうすれば防げたのかも思いつかない。事態の中心にいながら何もできなかった自分が、情けない。
もはや〝敵〟の周到さに舌を巻くしかなかった。
『マスコミとは敵対できません。となれば、中里にも抵抗しにくい。この先、何を要求されるやら……』
篠原も言葉を失う。
意外なことに、猿橋は少しも落ち込んでいなかった。むしろ、楽しそうにしていることを隠すのに腐心しているようだ。
「教授、あなた、すごいわ……まさか、こんな方法で報道規制を破れるだなんて。嘘を重ねてわたしたちを翻弄したのは、記者のテンションを上げるためだったわけ?」
「もちろん。ですが、嘘の必要はここで終わりです」
「それも嘘だったら?」
「私は1人で警察に――いや、日本という大国に牙を立てたんです。これぐらいの嘘は許して欲しい。だからこそ、これからは本気です」
「本気の〝斬り合い〟……かしら?」
中里もかすかな笑みを浮かべる。
「1つ。麗子さんを監禁していることは事実です。2つ。監禁場所に爆薬を仕掛けていることも事実です。3つ。タイマーは起爆装置に繋がっています。少なくともこの3つは、信じていただかないと、話が進められません」
「わたしって、嘘つきを信じるお人好しに見える?」
「まあ、嘘ではないと証明しなければ要求も通らないでしょうからね。では手札を1枚――すぐに確認可能な事実を晒しましょう。スマホを貸していただけますか?」
「何をするの?」
「地図ソフトに住所を入力するだけです」
猿橋が篠原を見る。
篠原は小さくうなずいた。
猿橋が自分のスマホをテーブルに差し出す。
中里がスマホを操作する間、篠原はじっとその手先を見つめていた。危険な操作が行われないかどうか、見守っていたのだ。
篠原が弱気だと感じたのか、中里が挑むようにスマホを差し出す。
「管理官にお願いします。身代金要求を行った時刻の12時間前の、このコンビニの防犯カメラ映像を確認してください。あ、映像の内容は私には話さないで。確認後に、私が詳細を証言します。映像と照合すれば、証言の信憑性は確かめられると思います」
それを受け取った篠原が、席を立ってマジックミラーに近づく。高山がいるだろうと思われるあたりに、スマホの画面を押し付ける。テーブルのカメラにかざせば分析室のコンソールでも確認できるが、その映像は同時に記者クラブでも読み取られる恐れがある。
誰かが再びリークすれば、混乱に拍車がかかるだけだ。
篠原の判断に、迷いは感じられなかった。
イヤホンに高山の返事があった。
『住所、確認しました。至急捜査員を送ります』そして付け加える。『篠原さん、俺が代わりましょうか? 犯罪者相手の立会いなら慣れてますし、俺ならしくじっても大事にはならない』
篠原がようやく笑みを見せた。鏡に向かってささやく。
「ご心配をおかけしたようです。ですが、お気になさらずに」
そしてかすかに笑うと、席に戻ってスマホを猿橋に返す。
中里が篠原と目を合わせる。
「おや、やる気になっていただけましたか?」
篠原の目には意思の光が戻っていた。何かのスイッチが入ったかのようだった。
「あなたが犯人だという証言は、もう変えませんか?」
「それは約束しましょう」
「では、これからは僕も本気で〝誘拐犯〟に向き合うことにします」
「やっと本題に入れます」
「今までのはただの舞台づくりですか?」
「試合を始めましょう」
「ルールはあなたが決めるんですか?」
「そちらには膨大なマンパワーと権限がある。国家権力とやりあうには当然のハンデだと思いませんか?」
「あなたはなんの試合を望んでいるんですか?」
「さて……ボードゲームといったところでしょうか」
「人質の命をゲーム扱いですか?」
「傷つけない約束はできませんが、傷つけたくないのは本当です。だったら、チェスとか将棋と一緒でしょう?」
篠原は疑い深そうに中里を見つめる。
「あなたは嘘ばかりだ。実際はポーカーなんでしょう?」
「ゲームが嫌いなら、ボクシングでも構わないんですよ。私はひ弱ですが、本当に殴り合う気はありませんので。私は共和党のやり方が苦手でしたから、ぜひ青コーナーで。あ、アメリカ大統領の話ですけどね」
篠原は中里に調子を合わせる気はなかった。
「防犯カメラに写っているという映像、説明してもえませんか?」
「実物を確認してからでなくていいのですか?」
「どちらが先でも、内容が一致していれば同じでしょう?」
「でも、ここで私が話せば記者たちに筒抜けになりますよ」
篠原は記者たちの様子をモニターで確認した。クラブの中は平静を取り戻していた。半数ほどは外に出てしまったようだが、残った記者は大型モニターに見入っている。
だが、彼らと外部との連絡は絶たれているはずだ。
「それが望みでこんな手間をかけたのでしょう?」
「狙い通りになったことは認めます」
「だったら、先に進めましょう。コンビニの場所さえ明かさなければ、捜査の障害にはなりませんから」
中里もまだ拉致現場は知られたくないはずだ――。
篠原はそう判断していた。中里が住所を明かさなかったことから引き出した結論だ。
「コンビニのカメラは、表通りからは死角になる裏手の駐車場を写しています。時間は昨日の午前5時頃、私が麗子さんに注射を打ってワゴン車で拉致する映像が写っているはずです。私の服装は今と同じ。麗子さんの服装はあなた方の方がご存知だと思います。部屋から消えている服を、美春さんから聴取しているんでしょう? ちなみに私は、変装はしていませんから簡単に確認できるはずです」
猿橋が身を乗り出す。
「教授、どうやって麗子さんがそこに来ることを知ったの? 朝5時だなんて、普通なら眠っている時間だし」
「私が呼び出したんです。私と美春さんとの関係で是非話しておきたいことがある――と言って。麗子さんはこっそり家を抜け出して、タクシーでやってきました」
「あなた方は本当に関係を持っていたの?」
「まさか。たまたまゼミの生徒だった美春さんが、麗子さんのカウンセリングを依頼してきただけです。それ以上の関係はありません」
「それを利用した、と?」
「そもそも2年前の麗子さんが、自分は不倫の子だと疑っていたんです。思春期特有の猜疑心――とでもいうべきでしょう。そこに父親との確執が重なっていました。それが原因で非行気味になっていて、カウンセリングの主眼が〝疑念の解消〟でした。美春さんは麗子さんの疑いを晴らすために、あえて私をカウンセラーに選んだのです。私なら、秘密の厳守も期待できますしね」
「医師なら誰でも守秘義務はあります」
「ですが、中には口が軽い者もいます。患者の父親が疑惑の渦中にある高級官僚となれば、雑誌記者に情報を売ろうとする不届き者もいるかもしれません。知らない人物には秘密を握られたくないものです。カウンセラーとしての能力も様々ですしね。すべてを考慮して私を選んだ、ということでしょう。詳しくは美春さんに確認してください」
篠原は、高山がすでに確認の手配をしていると確信していた。
「あなたが麗子さんの父親ではないということは、間違いありませんね?」
「もちろん。大学は当時からセクハラやモラハラに厳しい。下手に規約に触れると、解雇も覚悟しなければなりません。人員整理を狙って粗探しをする事務職員もいますしね。職を失う危険は犯せないので、美春さんには指一本触れたことはありません」
イヤホンに高山の声が入った。
『南美春の証言が届いています。中里との関係をただしましたが、話が食い違うところはありません。念のため、DNA鑑定を行います。今、麗子さんの家族の持ち物を取り寄せています。中里の髪の毛とか、採取できませんか? あ、タクシー会社の裏付けも開始しました』
猿橋が席を立って、中里に近づく。
「教授の証言を確認します。DNAを照合しますので、髪の毛をいただけますか?」
「分かりました」
中里は髪の中に指を突っ込み、手櫛を使う。抜いた指先には数本の髪の毛が絡んでいた。そのまま手のひらを突き出す。
猿橋が髪を取る前に、取調室に高山が入ってきた。証拠保全の手順を守るために、猿橋を席に押し戻す。そしてポケットから小さなビニール袋を出すと、ピンセットを使って髪の毛を袋に入れた。
高山は篠原にささやく。
「カメラ映像、手配しました。10分ほどで送られてくる予定です」
「了解です」
高山は廊下へ出て行く。
篠原が言った。
「これであなたの証言は科学的にも確かめられるでしょう。さて、次の要求を教えてもらいましょうか」
「監視カメラの確認は?」
「時間がもったいない。とりあえずあなたの発言を信じます。要求は?」
「誘拐ですからね。当然、身代金の支払いです」
篠原が返事に窮する。
と、タイミングを図ったかのように岸本の声が届いた。
『今、中里の過去のファイルが届きました。こいつ、1995年の阪神大震災でひとり娘を死なせていますね。当時は大阪キャンパス勤務でしたが、5年後に東京に転勤しています。震災の1年ぐらい後に離婚し、奥さんはその後に交通事故死しています。サルさんなら、人格を歪めるきっかけになると考えそうなんで、伝えておきます。事故後のカウンセリング記録も取り寄せ中です。それと、過去の写真に紺のダウンジャケットを着ているものが混じっていました。爆弾ベストと同じ物のようです。あの爆弾、中里本人が仕掛けた可能性が高いですね。その他の点では、非常識な言動や事件事故は記載されていないようです。うだつの上がらない大学教師というのは大筋で間違いないようです。調査継続中なので、詳報は後ほど』
猿橋は、その情報の有益性を直感した。
中里は古傷を火災によるものだと話した。それが大震災で負った傷なら、娘の死と共に大きなトラウマを刻んでいるはずだ。人格形成に無縁であるはずがない。喜怒哀楽を失ったかのような反応と混乱を誘う演技との乖離は、そこに原因があるのかもしれない。
猿橋は言った。
「今、報告が入りました。教授、阪神大震災で娘さんを失っているんですってね」
中里の表情に一瞬、驚きが見えた。それはすぐに怒りのようなものに変わり、そして薄れていく。
「それが何か?」
「あなたがこんな犯罪を犯すことに関係しているの?」
「どうしてそう考えるんですか?」
「とても大きな事件だから。大事故は、時に人に憎悪を植え付けたり狂気に走らせたりする。人の心を歪めて、犯罪に結びつくことだってある。ご家族を失ったことで感情をなくしてしまったの?」
「それが犯罪心理学の視点ですか? 確かに、幼児期のDVやハラスメントが人格に大きく影響する例は少なくありません。私も、そんなトラウマと折り合いをつけられずに苦しんだり無気力になった人たちに向き合ってきました。だからといって、全てではない。理不尽な苦痛を糧に、健全で豊かな人生を送る人々もいる。事件や事故は、人の本質をむき出しにさせるきっかけに過ぎません」
「教授はどちらなの?」
「苦しんだことは認めます。一時は廃人同様になっていました。だからといって、誰かを恨めますか? 原因は、天災です。そもそも100年前の世界なら、子供なんていつ死んでもおかしくなかった。言葉は悪いが、消耗品みたいなものでした。それでも人々は生き続けてきた……。人間の体はそんなに強くできていない。だから心が、喪失感を乗り越えられるように鍛えられたんです」
「奥さんもそう思ったんでしょうか?」
「思えなかったから、離婚という結果になったんでしょう。でも、運が悪かったと諦める以外、何ができます? 私が落ち込んだままなら、娘が返ってきますか? 誰かが救われるんですか?」
「奥様も離婚後、交通事故に遭われたとか」
「そんなことまで調べましたか」
「それも警察の仕事ですから」
「妻の死が何か関係が? あいつも、ずっと落ち込んでいて……私の顔を見るのも辛かったんでしょう。私も辛かった。だから別れた。妻はずっとぼんやりして、廃人のようでしたから……。死んだ知らせは受けましたが、立ち直れずにいた私も葬儀に行く気力すらなかった。……全て、終わったことです」
「でも――」
「でも……です。私は娘に救われたんです」
「娘にって……亡くなった娘さんに?」
「そうです。事故後に受けたカウンセリングが、人生を変えてくれたんです。学問としての心理学だけではなく、臨床に役立てる方向を目指せるようになりました。そして、今がある。その意味では、あの事故が今の私を作ったといえます。娘や妻の死を含めた全てが、私を私にしてくれたんです」
猿橋の口調が厳しく変わる。
「それなのに今、教授は犯罪に手を染めている。そのあなたも、娘さんが作ったんですか? 感情を見せまいと自分を圧し殺す、そんな不自然なあなたを作ったんですか?」
中里は猿橋をにらんだ。
「娘をバカにするんじゃない!」そして、不意に笑顔を見せる。「――とでも言うと思いましたか? 私を怒らせて弱みを見つけようとすることぐらい、分かってますよ。警察のやり口なんて、そんなものでしょう?」
「だから警察を憎むの? 警察が教授に何かしたの?」
「憎んでなんかいません。身代金が欲しいんです」
「『警視庁を崩壊させる』なんて愚かな言葉が、その役に立つの?」
「愚かかどうかは、あなた方が実感してるんじゃないですか? 強固なはずだった警察機構が、こうしてたった1人の犯罪者に引っ掻き回されているんですから」
「だからどうして、警視庁なの……?」
「私の願いを叶えるには、警察の崩壊が必要だ。そして目の前にあるのが警視庁だ。……それだけです」
猿橋の表情に困惑がにじむ。
「でも――」
中里が穏やかに反論を封じる。
「今の私は犯罪者だ。自白している以上、当然身辺は調査される。過去の出来事も掘り返される。それぐらい予測できるでしょう? でも、娘の死を知られたところで関係ない。もはや四半世紀以上前の出来事で、目的は身代金に過ぎませんから。私が欲しいのは、金です。それ以外に、関心はない」
猿橋は、淡々と語られる内容の歪さに違和感を覚えた。理屈ではなく、これも直感だ。そして逆に、中里の目的は身代金の他にあるのではないかと疑い始めていた。
そんな2人の様子を、篠原はじっと観察していた。
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