2−1・後手【取調室】

 重苦しい沈黙が続いたまま10分が過ぎ、ようやく取調室のドアが開いた。

 振り返った篠原がほっとした表情を見せる。

「やっぱり呼ばれたんですね! 遅かったじゃないですか! でもよかった、心強いです」

 白衣を着た30歳ほどの小柄な女性が入ってくる。

「一応は待機してたけど、仮眠中に叩き起こされたのよ。これより早くなんて、ムリ」

「高山さんは?」

「クラブに念押しに。あの顔で睨みを効かされたら、跳ねっ返りの記者だって黙るしかないから」

「ですよね……」

 だがそう答えた篠原は、高山がマジックミラーの前で仁王立ちになっているだろうと考えていた。

「準備に手間取っちゃったけど、話は聞いたから、説明はいらないわ」

 中里がじっと女性を見つめる。

 一見して、医療関係者だと分かる。しかし手にしている大きな紙袋は派手なチェック柄で、医師には似つかわしくない。しかもパンパンに膨らんでいる。

 女は篠原の隣に座り、中里を見つめた。明るい口調で言う。

「わたし、猿橋直美。警視庁でメンタルケアを受け持ってます。あなたとは同業かもね。でもみんな、サルって呼ぶんだよ。未婚女性をサル呼ばわりって、酷いと思わない?」

 中里は相手を値踏みするような視線を隠そうともせず、社交辞令を装う。

「秀吉だってサルでしたよ」

「あらうれしい。わたしも天下が取れるって?」そして紙袋をテーブルに置き、真剣な口調に変わる。「でも今は、天下より人質の情報が欲しいんだけど」

「それは私の武器ですから、簡単には明かせません」

「武器? 物騒ね。警視庁をぶっ壊す、とか……本気なの? そんなことができそうな武器は持っていないみたいだけど?」

「もちろん本気だし、武器も色々と準備してますよ。でも今は、人質のことが先決なんでしょう?」

「そうね。で、まずは何からしたらいいかな?」

「交渉、ですね」

「交渉って……誘拐だったら、身代金のこととか?」

「それも目的の1つですが、まだ全ては教えられません。それより、袋の中身は?」

「わたしたちの武器――っていっても、危険なものじゃないから」そして、中身を出し始める。「あなたのこと教授と呼んでいい?」

「この歳で助教止まりの、半端者ですよ。うちは講師を置かないので上は准教授ですが、彼らですら大半は私より若い。むしろ、ドロップアウトです」

「そんな。東帝と言ったら、私大としては歴史がある名門よ?」

「かつては、ね。今じゃ中国人留学生がいなければ経営が成り立たないほど実力が衰退して、Fランク扱いです」

「でも、カウンセラー資格もあるんでしょう?」

「附属病院を手伝う事はあります」

「では、ドクターでは?」

「本業とはいえませんから」

「そうなの? でも助教じゃ言いにくいんで……〝教授〟は、ただのあだ名だと思って」

「不正確なのは、嫌いなんですけど」

「あなたの他には迷惑はかからないでしょう?」

「だったらあなたをなんと呼べば?」

「どう呼びたい?」

「……おせっかい、ですかね」

「じゃあ、〝先生〟で。一応は臨床心理士免許も持ってますから」

「教授よりも格が落ちるのでは? その外見じゃ、小学校の教師にしか見えませんよ」

「わたし、看板より実質を重視してますから。小学校の先生に憧れていたこともあるし」

 猿橋は、一見他愛のない会話で中里の性格を掴もうとしていた。

 中里の視線はテーブルに出された紺色の衣服を見つめている。

「ジャージ……ですか?」

「これに着替えて欲しいの」

「命令ですか?」

「いいえ、お願いよ。交渉がお望みなら、従ってもらえないかな」

「いいでしょう」中里は立ち上がり、ジャージを引き寄せる。「でも、ここで着替えろと?」

「ええ。教授が危険なものを持ち込んでいないか、調べないとならないので。武器があるなんて言われたら、放っておけないし。聞いたことがあるかもしれないけど、犯罪者を収監する際はお尻の穴まで調べることがある。そこまでする気はないけど、身につけているものは全部預からせて」

「パンツも?」

「パンツも。下着も含めて、全部調べさせて欲しい」

 篠原はじっと中里の表情を観察していた。

 中里から不快感は感じない。むしろ、面白がっているように見える。自ら警視庁に乗り込んできた段階で、この程度の要求がなされることは予期していたのだろう。

 中里がダウンジャケットを脱ぎ始める。猿橋をあざけるような口調で言った。

「では、残らず見てください、先生」

 猿橋はにこやかに応える。

「ちゃーんと見てますからね、教授」

 中里の表情に、一瞬だけ憤りが浮かんで消える。

 中里は躊躇うことなく衣類を脱ぎ、きちんと折りたたんでテーブルの上に並べていく。アンダーシャツを脱ぐと、所々にケロイド状の古傷が見えた。火傷の跡らしい。特に背中で目立っている。

 中里が猿橋の視線に気づく。

「この傷ですか? かなり昔に、火事に巻き込まれたことがありましてね」

 パンツや靴下まで脱いでスリッパに履き替えると、文字通り全裸のまま両腕を広げてぐるりと1回転した。

 猿橋が肩をすくめる。

「そこまでしなくてもいいのよ」

「尻の穴も見たいんじゃないんですか?」

「それ、わたしの趣味じゃないから。衣服が預かれればいいの」

「ジャージ、着ていいですか?」

「ええ、どうぞ」そして振り返り、ドアの横の刑事に言った。「井上さん……でしたっけ。教授の体、チェックしてもらえます?」

 井上と呼ばれた屈強そうな刑事が前に出る。

 猿橋は紙袋の奥から、空港などの保安検査に使われる金属探知機を取り出す。さらにテレビのリモコンのような装置も井上に手渡した。

 ジャージに着終えた中里が問う。

「それは?」

「こっちは金属探知機。こっちは電波探知機。盗聴器のようなものを身につけていないか、調べさせてね」

「全裸になったのに?」

「一応の手順だから。皮膚の下に埋め込む装置も実在するし。警察って、融通が効かないお役所なのよ。そこをぶっ壊すなんて脅かされたら、お役人さんたちだってビビっちゃうでしょう?」

「やっぱり本気にしてないんでしょう?」

「本気にしてないなら、こんな手間はかけません」

「それにしても用意がいいですね」

「ここは警察の中心地。本丸と呼ぶ人もいる。捜査機材が日本一揃ってる場所なんです」

 井上が中里の横に立つ。外見に似合わない丁寧な口調で言った。

「もう一度両手を広げてもらえますか?」

 中里に近づいた井上は、まるで筋肉の塊のように思える。場数を踏んだ刑事なら、逮捕術や格闘にも精通しているはずだ。自然と滲み出る威圧感は隠しようもない。

 中里は無言で両腕を上げた。

 井上が金属探知機で中里の全身を精査していく。反応はない。同様に電波探知機も使ったが、こちらにも変化はなかった。

 その間、篠原が中里の衣類を引き寄せていた。下着類は新品らしかった。明らかに、脱がされることを予測している。

 ジーンズから財布を出し、身分証明書を発見する。

「東帝大学で心理学の助教――嘘はないですね」そして身分証をテーブル角のカメラに向ける。そして中里を見た。「この財布、隣で詳しく調べさせていただきます。お借りしていいですね?」

 財布には、数種類のカードと一万円札、そして小学5、6年ほどの女児のスナップ写真が入っていた。

 チェックを終えた井上が自席に戻る。

 中里も席につく。

「財布は構いません。でも……」

 中里の視線が脱いだジャケットに向かう。

 篠原と猿橋が、同時にかすかに身を乗り出した。中里の口調に、わずかなためらいを察知したのだ。

 と、2人のスパイイヤホンに通信が入った。

『今、呼吸数が上がりました。身分証の確認、開始しました』

 猿橋が紙袋の中からさらに別の装置を取り出す。スマートウォッチのようなリストバンドだ。それを中里に差し出した。

「腕にはめてもらえます?」

「私が最初に譲るんですか? まだ要求は叶えられていないんですけど」

「お役所って、時間の無駄が多くてね。先にお願いを聞いていただけると、短縮できると思うんだけど。嫌かしら?」

「この程度なら、構いませんよ。あなたの正直さに免じて、認めましょう。心電図とかも付けるんですか?」

「これ、最新式の医療機器で、血圧も心電図もリモートで計測できます。これだけで他の装置は必要ありません」

 リストバンドを受け取った中里が、控えめな深呼吸をしながらそれを手首に巻く。

 イヤホンに通信が入る。

『バイタル、来ました。データは全て正常に送られてきてます。やはり心拍数が多少早めに思えますね。しばらく変化を精査します。AIの判断では、声に不安が増大しています。……何か怖がっているようにも思えるんですけど……』

 最後に猿橋は、袋の中からスケッチブックを取り出してテーブルに置いた。

 中里が興味深そうに首をかしげる。

「それは?」

「わたしの商売道具。患者さんに自由に絵を描いてもらうことがあるから」

 そして、子供用のクレヨンも横に並べる。

「私にもお絵かきを?」

「いいえ、ただのおまじない。これが目に前にあると落ち着くの。患者さんの気持ちに安心して向き合える気がして」

 中里がすかさず応える。

「ないと不安……ということは、何かのトラウマに関係しているのかな?」

「同業者って、やりにくいものね。でも今は教授が〝患者〟だから」

「犯罪が病気なら、確かに私は患者ですね」

「カウンセリングは、後ほどゆっくりさせてもらいます」

 篠原が2人の会話を断ち切るように言った。

「財布だけは預からせて頂きますが、他の衣類はこの部屋に置いておきます」

『財布は構わない』と言った中里の言葉から、その他のものを奪われるのを恐れているのではないかと疑ったのだ。予測は当たった。

 イヤホンが言った。

『心電図がやや平静に戻りました。呼吸数もわずかに下がっています』

 猿橋も、篠原の意図を見抜いていたようだった。電波感知器を取って、畳まれた衣類の上にかざす。その間、注意を向けていたのは中里の反応の方だった。

 中里は、無言でじっと探知機を見つめている。

『心拍数、上がってますよ! こいつ、やたらジャケットを気にしてますね!』

 猿橋は穏やかに言った。

「教授、ジャケットが気になります? この装置、盗聴器とか調べる機械なんですよ。反応はないんだけど……何か調べられたらまずいこと、あります?」

「いいえ……そういうわけじゃ……」

 猿橋は明らかに〝まずいことがある〟のだと確信した。〝まずいこと〟の正体を明らかにしなければ、中里が乗り込んできた意味を見間違うかもしれない。

 猿橋はマジックミラーに向かって指示した。

「誰かこっちに来て。お財布と衣服をそっちで精査して――」

 中里が唐突に腰を浮かせて叫ぶ。

「ジャケットはダメだ!」

『心拍数、呼吸数とも急上昇! 核心を突きましたよ!』

 猿橋はにこやかに微笑む。

「問題は、ジャケットね」

 そして、畳まれたジャケットをゆっくりと広げる。

 中里は長い息を吐いて椅子に戻る。

「その通り。そのジャケットだけは私から離さないで。あなた方の身の安全のためにも、です」

 ジャケットの背中の部分をそっと触っていた猿橋の手が止まる。

「なんか入ってる……」

 そして、ジャケットを篠原の方に押し出す。

 猿橋は基本的に医師だ。証拠物件の扱いは、当然刑事の篠原の方が手慣れている。

 篠原はジャケットに触れた途端に手を止める。そして中里を見つめた。

「これ、あなたの服ですか?」

「あ、それは……」

 即座に肯定できないのだ。自分以外の服を着ていたのなら、それは他者が用意した可能性が高い。なんらかの強制行為があったのかもしれない。

「あなたの服じゃないなら、裏地を裂いても構いませんね?」

 返事はなかった。中里は凍りついたような視線を、広げられたジャケットに向けるだけだった。

 篠原がマジックミラーに向かって言った。

「エックス線、用意してもらえますか」

 室内を沈黙が包み込む。

 ドアが開いたのは、1分も経たないうちだった。持ち込まれたのは、後方散乱X線を使用する小型検査装置だ。

 通常のレントゲン装置は、X線を発生する部分と、それを感知するイメージングプレートを1セットとして構成される。透視する対象をその間に挟む必要があるのだ。しかし物体にX線を照射すると、透過する成分と同時に、反射する『後方散乱X線』が発生する。この後方散乱X線を利用して対象物の内部を〝見る〟非破壊放射線検査技術は、テロ対策や橋梁などの検査に実用化されている。後方散乱X線の利点は、X線を〝受け取る〟部分が発生器と同じ側にあるため、片側からだけで対象物を透視できることにある。

 届いたのはバッテリーで駆動される、小型、軽量の装置だった。

 本体の両側にハンドルが付いていて、その間にスマホ程度のモニターがある。両手でハンドルを握って先端のX線照射部を対象物に向ければ、内部の映像がリアルタイムでモニターに映るのだ。2ミリ厚の鉄板も透過して内部を観察する性能を持っている。

 篠原が装置を受け取って、ジャケットに向ける。装置は猿橋が持つタブレットにもリンクし、データは分析室に送られている。

「走査を開始します……」

 隣の猿橋が、タブレットを凝視していた。透過画像が表示されると。思わずつぶやく。

「篠原さん、勘がいいわね……これ、ヤバイやつ」

 篠原も装置のモニターを凝視していた。

 荒いモノクロ画像の中に、小さな長方形の物体がびっしり映り込んでいた。その数は数10を超えそうだ。それぞれが細いケーブルで結ばれている。その1つには、明らかな電子機器が組み込まれている。おそらく〝小さな物体〟は爆発物だ。

 イヤホンに岸本の声が入る。

『多分プラスティック爆薬を小分けにして背中に縫い込んでます。量は多くないですけど、そこで爆発されたら全員半身不随じゃ済まないかも。電子機器が起爆装置でしょう。見たところタイマーはなさそうです。外部からの電波で起爆するのかも。……爆弾ベストなんて、初めて実物を見ました……』

 篠原は小さくうなずき、装置を置いた。中里をにらむ。

「これは、このままにしておきましょう」

 中里は無表情のまま言った。

「武器、あったでしょう?」

 篠原は動揺を表情には出さない。

「で、あなたはジャケットを持って行かれるのを恐れてました。この仕掛けを知っているわけですね? なぜこんな真似をしたんです?」

 中里は困惑したようなそぶりを見せる。

「こんな真似、って……?」

「爆発の危険があると分かっていながら、ここに来た理由です」

 猿橋が怯えを隠せなくなる。

「わたし、出て行っていいかな……」

「だめです。僕だけでは真相が見抜けない気がします。理系だから、人の心を読むのは得意じゃないんです」

「だったら、先に爆弾をどうにかして……」

 篠原がうなずく。

「そうですね」そして中里に問う。「あなたは怯えていませんが?」

「起爆のトリガーが分かってますから。私、ここに来る直前にある装置を飲み込んでいるんです。そこから、電波が出てます。で、ジャケットを遠くに持って行かれると電波が途切れて、爆発するんです。だから今は、大丈夫」

 猿橋がつぶやく。

「でも、電波は探知できなかったわよ?」

「ですよね。なんででしょう? 私にも分かりません」

 猿橋の好奇心が、怯えに勝る。

「犯人なのに?」

「仕掛けを作ったのは私じゃないんで。私は発注しただけで、いろいろたらい回しされた挙句に、実際にジャケットやらなにやら揃えたのは、小器用な中国人だって聞かされました。ただし、発信機が人体に入っても大丈夫なように、感度は高めるように指示しました」

「教授が嘘をついている、ってことは?」

「私が? 嘘を?」

「爆弾は偽物、だとか……」

「なんのために? それに、嘘つきなら素直に答えるはずもない」

「わたしたちを脅したいの?」

「まあ、武器ですから。要求を通すための一手です」

 イヤホンに説明が入る。

『周波数帯が違うんです。盗聴器はUHFなどのメガヘルツ帯域、爆弾に使ってるのはたぶんブルートゥースのギガヘルツ帯域です。フェイクではない可能性はあると思います。周波数帯域を変えてチェックしてください』

 篠原が指示されたとおりに探知機のダイヤルを調整し、中里に向ける。ビビーっと電子音を発し、本体のインジケーターが赤く光る。明らかな反応だ。

「ああ……高い周波数帯に反応が出ましたね。これ、本物だと思った方が良さそうです」そして、マジックミラーを見る。「解除の方法、分かりますか?」

 返事はすでに用意されていた。

『今のところ安定しているようですから、下手にいじらない方がいいでしょう。爆弾処理班を呼びました。それまでは取り調べを延期して退避した方が――』

 篠原が即断する。

「時間は限られているんでしょう? タイムリミットがあるなら、引き伸ばすと麗子さんが危険です。爆弾が本物なら――ですけど」

 中里が篠原を見返す。

「さて、どうします? 爆弾は本物だと信じますか? ジャケットは、私から引き離せない。私の近くにいても、爆発に巻き込まれる危険がある。最悪の場合、全員死ぬかもしれない。取調べも命がけ。でも、残り時間も分からない。犯人まで死んだら人質の情報も得られない。無駄な時間は1分たりとも費やせない――」

 猿橋が興味深そうに言った。

「爆弾ベストね……。でも、これが入り口のチェックで見つかってたら、ここまで入り込めなかったんじゃない? そんな場合はどうするつもりだったの?」

 中里は動揺を見せない。

「そうでしょうか? もしも発見できてたら、どうしました? 私は『犯人から無理に着せられ、爆発するから脱げない』主張します。着たままの解除は危険すぎるし、起爆方法も1種類だけとは限らない。下手をすると、警視庁本部の玄関口で大爆発――。大混乱ですよね。USBの動画を見れば、私を取調室に連れて行くように指示されている。従わずに爆発させてしまえば、参考人を殺して人質まで死なせてしまうかもしれない。そんなことになれば、警察史上に残る汚点です。もちろん、全国民から大バッシングを受けるでしょう。私が何者かも分からない段階で、そんな危険を冒せます?」

「要求に従えば、行き詰まりを解決できるの?」

「もちろん。そのための仕掛けですから」

「死ぬ覚悟もあるの?」

「なければ、来ません。そして私が死ねば、たぶん麗子さんも死ぬ」

「なぜそこまでするの?」

「要求が叶えられたら、教えても構いませんが?」

「要求を言って」

「それはすでに伝えました。記者クラブとの双方向の監視体制を構築すること」

「それ、もう進めてるけど。許可が降りれば、会見室に集まってもらって大型モニターに接続します」

「会見室? 私は『記者クラブに』と要求しているんですけど」

「しかし、そちらにはモニターを持ち込まないと――」

「持ち込んでください」

「こだわる理由があるんですか? あっちは狭いし、雑然としてるし――」

「それは私の問題です」

 イヤホンで岸本が言った。

『会見室なら入り口で身体検査もできるけど、クラブだと記者たちをコントロールしきれないかも。昨夜から記者が増えてるし、どんな機材を持ち込んでいるかも分からないし……内容によっては情報漏れの危険が拡大する恐れが……あ、それが狙いでしょうか⁉』

 猿橋は穏やかに応える。

「どうしても、というのだったら可能だけど……時間が余分にかかりますよ?」

「減っていくのは、人質の時間です」

「大至急検討します」

 イヤホンが状況を伝える。

『記者クラブへの公開は準備が進んでいて、情報漏洩対策も強化しました。署内の回線があるから、モニターさえ運べばセッティングは流用できますが……。ちょっと引き伸ばして、揺さぶってもらえませんか? 心理解析の確度を上げるためのデータが欲しいので』

 この取調室の画像は、幹部の個室や刑事部などからもリアルタイムで見られる仕組みになっている。記者クラブにモニターを持ち込んで回線を繋ぐのは難しくない。

 中里は、その返事を聞いていたかのように反応する。

「検討するって言われても、確かめようがありません。最初は私が譲ったんですから、結果を見せてください。それに私は誘拐犯です。正しい情報を与えたところで、信じてもらえるとは限らない。私も、警察に裏切られたところで文句は言えない。当然、騙されないようにあらかじめ手を打ちますよね? それに、目的さえ叶えられるなら人質も傷つけたくない」

 篠原がかすかな苛立ちを見せる。

「何が言いたいのでしょうか?」

「私は時間短縮のために、上司を説得する口実を差し上げているんです。『記者クラブへの公開を認めなければ、警視庁内の爆発で犯人が死んで、その上人質まで救えないかもしれない』ってね。それ、警視庁の責任者である総監の名前と共に歴史に刻まれる不祥事になるでしょう。お互いの利益のための提案なんですけど。それに……私は、起爆方法がブルートゥースだけだとは言っていません」

「要求実行が確認できるまでは膠着状態、ですか……?」

「警察に喧嘩を売った以上、引き下がらせてもらえないでしょうから。この部屋にモニターを付けてもらって、記者たちが私の言葉に反応していることが確認できれば、すぐに爆弾の解除方法を教えます。それまでは、あなた方も避難していた方がいいと思うんですけど」

「爆弾は不安定なんですか?」

「仕様書は私が書きましたが、忠実に実現しているかどうかは確認できません。一発勝負、ですので。私には命をかける理由があるから使っていますが、威力も性能も保証できないんで。無理に出ていけとは言いませけど、自己責任で」

 猿橋はじっと中里を見つめたままだ。無表情につぶやく。

「面白いわね……」

「面白い? 先生の反応も興味深い。予想外です」

「わたし、犯罪心理学も学んでいるの。教授って、すごく興味深い研究対象だわ」

 中里がかすかに笑う。

「なるほど、モルモットなんですね。でも、人質の命が危機に瀕しているんですよ。いやしくも警察関係者なら、そっちを心配してはいかがですか? それと、教授と呼ぶのはやっぱりやめていただけませんか? バカにされてる感じがします」

 猿橋は意に介さないようだった。

「その受け答えが、興味深いのよ」

 イヤホンから指示が入る。

『記者クラブのモニターは10分程度で運び込めます。それまで、あなた方は退避していてください。あ、ちなみに犯人のバイタルに異常はありません。声からも嘘の反応は発見できません』

 篠原は席を立って中里に言った。

「ひとまず、僕たちは退席します。でも隣の分析室にいますから、逃げようなどとしないように」そして、財布を手に取る。「これは持っていっても大丈夫ですよね?」

 中里がうなずく。

「財布に爆発物は仕掛けていません。私の言葉を信頼できるなら、ご自由に。それに、私は自分で望んでこの部屋に来たんです。出ていくつもりもないし、逃げる理由もありません」

 篠原はバツが悪そうに、一度は手にした財布をテーブルに戻した。

「猿橋さんも隣で待機を。ここのマジックミラー、一応強化ガラスですから」

 しかし、猿橋は動こうとしない。

「あ、わたしはここでいい」

「はい? 爆発の危険が――」

「興味深い被験者の観察の方が重要。至近距離で続けたいんで」

 戸口の椅子に座る井上も言った。

「私もここで構いません。犯人から目を離すわけにいきませんから」

「でも――」

 と、猿橋は会話を打ち切るように突然スマホを取り出す。

「あ、ちょっとごめん。連絡入った」

 篠原が困ったようにつぶやく。

「またですか……? こんな状況なのに……」

 テーブルの下でスマホの画面を確認した猿橋の声は穏やかだ。

「仕方ないじゃない」そして、中里に向かって言い訳する。「うちの母親、少しボケが入っててさ。あれはどこ行った、これはどうするんだって、しょっちゅう電話してくるの。あんまりうるさいから、メールにしろって、それだけは納得させたんだけど……」

 言いながら、素早くメールを打ち込んでいく。その姿を、篠原が横から覗き込む。

「今度はなんですって……?」

「誰かが町内会費を取りにきたんだけど、これって誰だっけ、って……。今年は斎藤さんのはずだけど……」

 しかしスマホに打ち込まれていく文字は、全く関係ない。

『中里の経歴、人間関係を精査。特に家庭環境を詳細に。人質の捜索より人員を優先配置させるべき。また、記者クラブの中に協力者がいる可能性も考慮すべき』

 宛先は、分析室で待機している高山だ。

 それを見た篠原が呆れたように言った。

「僕は隣で待機します」

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