第1章・序盤戦
1−1・初手【取調室】
警視庁本部の取調室の1つに導かれた初老の男は、物珍しそうに内部を見渡した。
冷たい印象を受けたのか、手にしたセカンドバッグを軽く握りしめる。背後から、ヤクザと見違えそうな大男――捜査一課の刑事が背中を軽く押した。
コンクリート打ちっぱなしの、生活感のない空間。窓はない。横の壁面に大きな鏡が嵌っている。
マジックミラーだ。
しかし、圧迫感はない。天井のLED照明も冷たさや緊張を感じないように調整されているようだ。
中では2人のスーツ姿の刑事が待ち構えていたが、充分な広さがある。中央に据えられた大きなテーブルも質素だ。そこに置かれたいくつかの電子機器ばかりが目立っている。四隅に固定されている小さな装置は、明らかにムービーカメラのレンズだ。
テーブルの奥に座っている刑事の1人は、太り気味の高齢者だった。ただ、ふやけた体ではない。定年間近だが百戦錬磨の猛者だろうと直感させる。
隣に、青臭さが残るような若者が並んでいる。新米刑事をベテランと組ませて育てているらしい。
ドアのすぐ横には小さなテーブルがあり、男を促した刑事が座ってラップトップを開く。折り目正しいスーツを着ている刑事の役目は、記録係というよりは出入りを監視するガード役だろう。
正面の〝ベテラン刑事〟が口を開く。
「あなたが誘拐犯の情報を届けに来たという――」
「中里進です。東帝大学で心理学の助教をしています」
ベテランがかすかに眉を上げる。
「大学の先生ですか。私は高山と申します」
そして横の刑事に目配せをする。
若い刑事がテーブルを回って事務椅子を引き、座るように促す。
「僕は篠原です」
そう言った篠原は、さりげなく中里の外見を分析する。
大学の教員のイメージからはやや外れていた。
履き込んだジーンズに紺のダウンジャケット、その下には淡いブルーのダンガリーシャツを着ている。痩せ形で長めの髪も薄くなり始めているが、白髪は少ない。スニーカーは古びているが、有名メーカーの高価な品だ。
金銭的な不自由はないが、青年期を忘れきれずに老いを迎えたヒッピーといった風情だ。反政府系の集会でよく見かける老人に近い。助教の割には年齢が高いようだ。学内の昇進レースから振り落とされたまま引退が近い――という印象がにじむ。
そして、付け加えた。
「午前7時14分、聴取を開始します」
椅子に座った中里が会釈し、背後を振り返る。
「取調べって、部屋の奥の方に座らせるものだと思ってましたが」
ドアの横の刑事はガタイの良さに似合わず、緊張感を隠せずにいる。取調室に通されるまでの経路に漂っていた〝空気〟と同じだ。
早朝にもかかわらず、ピリピリと張り詰めていたのだ。まるで警視庁全体が、想定外の〝侵入者〟に警戒心をむき出しにしているようだった。
だが、高山は人懐こそうに微笑んだ。
「中里さんは犯人じゃありませんからね。重要な参考人にご協力をお願いする手順――任意の事情聴取に過ぎません。当然、強制力もありませんし、質問にお答えいただけなくても罰則はありません。で、どのような情報をお持ちいただけたのです? 誘拐事件そのものが、まだ一切報道されていないのですが?」
中里が滑らかに語り始める。
「私は何年か前に南麗子さんのカウンセリングを担当しました。附属病院で臨床心理士としても勤務していますので。彼女の父親は厚労省幹部の南宗一郎氏です。『麗子さんを誘拐した』という犯人から指示され、これを持っていけと……」テーブルにセカンドバッグを置く。「半信半疑でしたが、受付で話したら、ここまで案内されて……本当に大事件になっていたんですね」
高山は無表情に聞いていた。内心を隠さなければならない時の特徴だ。
まさに中里の言う通りの誘拐事件の最中だったのだ。
被害者の父親は厚労省大臣官房審議官だ。世界を覆い尽くしたパンデミックの際には、記者会見が全国中継もされたこともある。官僚には珍しい〝有名人〟といっていい。医師出身の医系技官で、キャリア官僚が席巻する霞ヶ関の中では異色の経歴を持つ。
その娘が、昨日の早朝から行方が知れない。最初の脅迫電話が来たのが、夕方だった。
しかも誘拐犯は、常識外れな身代金を要求している。
高山が言った。
「被害者の父親に、犯人から2度目の連絡がありました。深夜です。『我々の要求を託した人物を警視庁に送る』――と」
「はい? 誘拐犯が警察に要求を……?」
「私たちも信じられませんでした」
「それが私……なんですか?」
篠原がバッグを取る。いつの間にか、手には薄い手袋をはめていた。
「お預かりします」
そして高山の隣に座ると、バッグを開いた。高山も中を覗き込む。中には小さなUSBメモリーが1つと、折り畳まれたA4用紙が1枚入っていた。
篠原が誰にともなく命じた。
「鑑識にスタンドアローンのラップトップを持ってきてもらってください。この場で指紋のチェックもお願いします」
高山も手袋をはめ、用紙の端を摘んで引き出して広げる。プリンターで印刷したような文字で埋まっていた。『指示書』というタイトルが太字で記され、その下に指示が細かく書き込まれている。
高山が問う。
「犯人はどうやって中里さんに接近して来ましたか? 直接会いましたか?」
「いいえ。早起きしてゼミの準備をしていたんですが、スマホにSNSが入って、『郵便受けを見てください』と。麗子さんの電話番号からでした。ここ数年は何の連絡もなかったんですが……」
中里がシャツの胸ポケットからスマホを出し、操作してからテーブルに押し出す。
高山が受け取ったスマホには、そのメールが表示されていた。
「スマホはしばらくお預かりします」
「それはかまいませんが……。郵便受けにはそのバッグが押し込まれていて……」
「指示書通りに、警視庁にやってきたわけですね」
「はい」
「わざわざ自宅からここまでの経路まで指示していますね……今日は大学はお休みでしたか?」
「ゼミは午後からの予定です」
「犯人に心当たりは?」
「あると思いますか? 指示されるまま、ここに来たんですから」
「麗子さんには確認を取りましたか?」
「何度か。でも電源が切られていて……。『他人への連絡は絶対に禁じる』とも書いてありますしね。誘拐だとか、警視庁に行けだとか、イタズラにしては不穏すぎます。とりあえず従った方がいいのかなって……」
「麗子さんとは、いつ頃まで連絡をとっていましたか?」
「カウンセリングを終えたのは2年ほど前です」
「というと……麗子さんが中学3年の頃でしょうか?」
「ええ。確か15歳だったと」
「それ以来は会っていない?」
「麗子さんから連絡が来たこともありません」
「それでもすぐに麗子さんからのSNSだと分かったのですか?」
「担当した患者さんの連絡先はスマホに入れています。いつ援助を求められるか分かりませんので。着信すれば、氏名が表示されます。突発的な事故か事件が起きたのかと思って、慌てて電話しました。ただし、個人的な事情があるとまずいので、ご両親にはまだ連絡していません」
「麗子さんのカウンセリングは、どのような内容でしたか?」
「患者さんのプライバシーに触れる内容はお話できません」
「では、カウセリングの依頼は、誰から? 麗子さんご本人からでしょうか?」
「その程度のことなら……母親の美春さんからの依頼です。麗子さんご本人も了解済みで、トラブルはありませんでした。カウンセリングを強要されると反抗するお子さんは少なくないのですがね」
「カウンセリングは何回ぐらい行いました?」
「全部で10回程度……でしょうか。期間は1年ほどでした」
「月に1度ぐらいですか……で、終了は美春さんの了解の上で、でしたか?」
「はい。麗子さん本人も納得していました。……それが何か?」
「誘拐犯が誰であれ、麗子さんとあなたの関係を熟知しているようです。USBの中身にもよりますが、わざわざあなたに持って来させたのには理由があるかもしれません。届けるだけならバイク便で充分でしょうから」
篠原が中里に尋ねる。
「カウンセリングを行った場所は決まっていましたか?」
「いつも附属病院の心療内科でした」
と、ドアが開いて鑑識係が入る。最初から手袋をはめている。
「パソコン、持ってきました」
篠原はラップトップを受け取ると、代わりに中里のスマホを渡す。
「このメール、発信元を調べてください。USBの指紋検出もお願いします」
鑑識係はメモリーを注意深く摘んで、テーブルの上に置く。プラスティックの道具箱から小さな検出刷毛を取り出し、素早く粉末をはたきかける。
「指紋、ありません」
篠原がうなずく。
「分かりました」そして中里を見る。「スマホの暗証番号、教えていただけますか?」
中里は鑑識係に6桁の数字を伝える。そして、心配そうに加えた。
「病院も調べるんでしょうか?」
「刑事を送らないとなりません。麗子さんが治療を受けていた事実を知る人物を洗い出す必要がありますので」
中里がうなずく。
「ですが、なるべく大ごとにならないように……」
「あなたにご迷惑はおかけしないように注意します。まだ公開前の誘拐事案ですしね」
篠原が鑑識係に指示する。
「3人ほど送って、治療記録を見せてもらうように伝えてください。当時勤務していた医師や看護師のリストを、なるべく詳しく作るように。昔のことなので難しいでしょうが、あまりしつこくして、中里さんのお立場を損なうようなことがないように注意してくださいね」そしてテーブルに広げた『指示書』の文面を自分のスマホで撮影する。「それと、このセカンドバッグと指示書の分析を詳細にお願いします」
「了解しました」
鑑識係はバッグと指示書を受け取り、足早に取調室を去った。
ドア横の刑事は椅子の位置をわずかにずらし、厳しい視線を中里の背中に向けている。
万が一、中里が想定外の行動をとった場合は、素早く取り押さえられる体勢だ。
警察は最初から、中里が誘拐犯の一味だという可能性も想定している。
高山はラップトップを開いて電源を入れ、USBメモリーを差し込んだ。
「さて……何が出るか……。動画ファイルですね」
篠原はテーブルに置いてあったタブレットの電源を入れ、さらにスマホをリンクさせて撮影したばかりの指示書を表示する。
その間にラップトップでは動画が開始されていた。
高山がテーブルの端にラップトップを寄せ、中里にも見えるように向きを変える。その画面は、テーブルの角のカメラを通してマジックミラーの向こう側の『分析室』でも見えている。
中里が意外そうに言った。
「私が見てもいいんですか?」
答えたのは篠原だ。
「ぜひお願いします。あなたは麗子さんの関係者だともいえますから。我々では見落としかねない点に気がつくかもしれませんので」
篠原はあらかじめベテランの高山と打ち合わせていたのだ。
『重要参考人が来るが、立場が不明だ。善意の第三者かもしれないし、誘拐犯の仲間かもしれない。まずはオープンに接して、反応を見る。不審な点を感じたら、取調室から外には出さない。分析室の機材をフル動員して参考人の真意を探り出す。常にイヤホンで分析室と連絡をとって、不審な変化があったら知らせてもらう』
俗にスパイイヤホンとも呼ばれる超小型イヤホンは、耳の穴にすっぽり入って外見からは発見されにくい。分析室との連携には欠かせない小道具だった。分析室では臨戦体制を整え、今も数々の装置によって中里の振る舞いを精査している。
多数のセンサーとAIで表情や発声を分析し、対象者の言葉に嘘がないかどうかが調べられているのだ。赤外線センサーによって数ヵ所の体温変化も測定している。気になる反応が生じれば、リアルタイムで報告が入る。
科学的な定量分析の一方で、高山はじっと中里の表情を見守っていた。これこそが〝ベテランの勘〟の活かしどころなのだ。
動画が始まる。モノクロの暗視カメラの映像だ。
小さな画面の中に、暗い部屋の角に据えられたベッドが大写しになっている。フローリングらしい床、角材を積み重ねたような壁面――。木製らしいベッドには、私服の少女が横になっている。目を閉じているが、顔はカメラに向いていた。薬品で眠らされているのかもしれない。
中里がつぶやく。
「麗子さんです……」
篠原がうなずく。
「ログハウスのようですね……ペンションか何かの屋根裏部屋でしょうか」そして中里を見る。「場所に心当たりはありませんか?」
中里の反応は早い。
「必要がない限り患者さんのプライベートには立ち入りませんし、知っているのは何年も前の麗子さんですし……」
「ですか……」
と、画面全体にいきなりタブレット画面が再出された。近距離のモニターに焦点が合う。ネットテレビのニュース番組が放送されている。
誰かがカメラの死角に隠れていたのだ。カメラをテーブルに置いているのか、画面がかすかに揺らぐ。それでもタブレットの端に『アベマTV』の表示が見える。
篠原がマジックミラーに向かって言った。
「内容の確認を! 何時の放送か割り出してください!」
高山が苦笑する。
「焦るな。撮影時刻を知らせるために映しているんだろう。容易に確認できなければ、意味はない」
篠原が小さく深呼吸する。
「ですよね……あっちはとっくに解析を始めてますよね」そして席を立ってテーブルを回り、中里の背後に立つ。「こちら側の方が見やすいので」
中里が問う。
「あの……あっち、って?」
「鏡の向こう側です。もうお気づきでしょうが、数人の分析官がこの部屋を見ています。あ、あなたがどうだってことじゃないですから。取調べの規定なんです。参考人にお話を聞く際にも、可視化っていうやつが求められていまして。犯人相手でも、脅したり暴力を振るったりできない規則になっているんです」
「刑事ドラマなんかであるやつですね」
「いろいろ不自由なのは確かなんですけどね。取り調べられる側の人権も守らないといけませんから」
「向こうの音って、全然聞こえないんですか?」
「2重の強化ガラスで完全防音です。なので、マイクを使ってます」
そうしているうちにタブレットの映像に変わって、スケッチブックが映し出される。表紙をめくると、大きな文字がプリントされた紙が貼ってあった。
『要求1。中里進をすべての電子記録が残せる取調室に入れろ』
モニターに見入っていた中里が思わずつぶやく。
「え、私? ……でも、記録が残せる場所とか、あるんですか?」
篠原が中里を見下ろして、うなずく。
「この部屋がそうです。可視化取調べにフルスペックで対応していますから、今も記録を残しています。最近新たに設置して、高度な最新設備も導入しました」
と、高山がほんのかすかな笑みを浮かべる。
「なぜ――とは聞かないのですか?」
中里の目が高山に向かう。
その視線は一瞬、相手の脳の中まで見定めようとでもいうような意思をにじませた。まるで、患者をモルモット扱いする冷徹な医師を思わせる。
そして、高山に応えるようにわずかに笑う。
「ですよね。なんで、私なんでしょう?」
「私もそれを知りたい。心理学の専門家なら、犯人の考えも推測できるのではありませんか?」
中里はかすかに唇を歪めた。自嘲的な笑いに見える。
「まさか。心理学なんて極めて基礎的な学問で、その種の実用性はありません。ミステリーやドラマなんかで蘊蓄をひけらかすような、超能力的なものとは違います」
「ですが、カウンセリングには役立つのでは?」
「人は千差万別ですから、心理学の一般論が誰にでも通用するわけではありません。問題点も状況も改善方法も人それぞれで、すべての患者さんに手探りで当たらなくてはなりません。逆に先入観が全てを壊す危険もあります。毎回、不安定な吊り橋を恐る恐る渡っているようなものです」
高山もまた、中里の心の内を覗き込むような視線を返し、その言葉を咀嚼していた。
と、モニターの中でスケッチブックがめくられる。次の指示が書いてあった。
『要求2。七社会と記者クラブの記者全員に、取調室の画像をリアルタイムで公開しろ』
声を上げたのは篠原だ。
「は? なんでクラブに⁉」
中里が視線をそらす。
「しちしゃかい……って、なんです?」
篠原はモニターから目が離せないまま答える。
「ななしゃかい、です。警視庁に古くからある特別な記者クラブで、朝日、読売とか、通信社大手が集まってます。今は実質6社会ですけど。その他の新聞社は一般の記者クラブに人員を置いています」
高山が感情の揺らぎをにじませる。
「取調室を記者に公開するだと……? なんの意味が……?」
中里が篠原を見上げて、無言でその意味を問いかける。
篠原の答えも引きつっている。
「取調べの様子を知っても構わないのは僕ら警察と法曹関係者だけです。それをマスコミに、だなんて……。どこから情報が漏れるか分かったものじゃありません。誘拐事案には特に厳しい報道規制を依頼しているのに」そして、中里を見返す。「そもそも、あなたを取調室に入れてなんの意味があるんでしょうか? 犯人でもない人間の、何を調べろと……?」
中里もかすかに首をひねる。
「私は……メッセンジャーにされただけじゃないんでしょうか?」
高山が確信したように言った。
「中里さんは参考人というより、重要な関係者ということらしいです。こうなると、あなたの身辺も調査しなくてはなりません」
「私を⁉」
「あなた自身が事件に関係なくとも、犯人にはあなたを巻き込む必要があるようですから。どこかに接点がないと不自然です」
「私が……」
再びスケッチブックがめくられる。次の指示で全員が息を呑んだ。
『要求3。回線が繋がったら、都内全ての交番に国旗を掲揚するように。確認後に、次の要求を送る。ただし時間は限られている。タイムリミットを設定してある。間に合わせることができなければ、南麗子が死ぬ』
言葉が継げないうちに、次のページが表示される。
『要求4。記者たちが取調べを目撃していることを確認するために、取調室から記者クラブを監視できるカメラとモニターもセットしろ。双方向の映像確認、音声確認が絶対条件だ』
そこで映像が終わった。画面が真っ黒に変わる。
篠原がつぶやく。
「どういうことです? 何をしようと……?」
高山が無表情に戻る。
「取調べを記者に公開するのは、マスコミに何かを知らせたいからだろう。騒ぎを大きくしたいだけの愉快犯という可能性もある。だが、我々が記者連中の反応を確認する意味はどこにある? ……少なくとも、警察には必要なさそうだ。だとすると、それを知りたいのは……」視線の鋭さが増す。「中里さん、あなただということになりはしませんか?」
中里もまた、無表情に答えた。
「なぜ犯人の考えが分かると思うんですか? 私がメッセンジャーにされた理由だって……巻き込まれただけなのに……」
高山の口調が厳しく変わる。
「そうではないことを、この状況が示しているような気がしますがね。まあ、目的はどうあれ、簡単に誘拐犯の言いなりになるわけにはいかない。警察はすでに大量の人員を割いて捜査を進めています。まずは組織力と経験の蓄積を信じましょう。何より、マスコミに機微情報を渡せばリークされる恐れが増える。大手は表向き我々に従うでしょうが、関連の子会社を通じてネットで拡散することもある。それでなくても誘拐報道の解禁を待って各社とも人員を強化しているんですから」
「でも、従わなければ麗子さんの命が――」
「犯人に鼻面を引き回されるのは危険です。警察の威信を傷付けるような真似は避けねばなりません」
中里が不意に立ち上がる。
「そんな理由で人質を危険に晒すんですか⁉」
高山はその姿を冷たく見据える。
「我々には国民を守る責任がある。権威はその手段の中核です」
「麗子さんを見殺しにしてもですか⁉」
「何を慌てているんですか? 警察はすでに捜査を開始しています。誘拐対応の定石を崩せば、守れるものも守れなくなりかねない」
「だけど!」
中里を見守っていた篠原が軽く肩を押さえる。
「落ち着いてください! 僕たちを信用して!」
だが中里は篠原の手を払い、座ろうとしない。篠原をにらみ付ける。
「犯人が絶対条件だって言ってるのに、逆らうんですか⁉」
「警察にも事態を検討する時間が必要なんです」
「犯人はタイムリミットとか言ってるんですよ!」
高山は冷静だ。
「犯人の要求が真実だという確証はない。警察には警察のやり方があるんだ。犯人に乗せられて撹乱されれば、これまで築いてきた捜査基盤を打ち壊されかねない」
「じゃあ、要求には従わないと⁉」
「今は無理だ」
「無理って……警察の沽券に関わるってことでしょう⁉」
篠原がなだめる。
「すぐには従えないってことです。僕らは全力で捜査を進めていますから……」
「それじゃあ麗子さんが――」
高山が冷たく言い放つ。
「やけに気にしてるじゃないか。あなたは麗子さんと特別な関係にあるんじゃないんですか?」
「特別って……違う! ただ、患者さんのことだから――」
「2年以上も話をしていないのに?」
「それは……」
「どうやらあなたは、言葉以上に深い関わりを持っているようだな。だったら、なおさら犯人の言いなりにはなれない」
「だめだ! 要求に従ってください! 麗子さんの命が……」
高山が断定する。
「次の要求が来るまで、現状を維持する」
「記者に公開しなければ要求だって来ないんじゃ⁉」
「思い通りにいかなければ、誘拐犯の方から接近して来るものだ」
「そんなこと、あなたが決められるんですか⁉」
「捜査方針を決める権限は私にある。だから、ここにいる」
「麗子さんの命が……」そして中里は、篠原を見た。「何とかしてください! 麗子さんを助けてください!」
篠原は小さく首を振って目を伏せた。
高山が言う。
「次の要求があるまでだ。それまでは捜査体制は変えない」
「どうしても従わないって言うんですか⁉」
「当たり前だ。それよりあなたには、本当の話をしてもらわなければならない。座って。麗子さんとの関係を詳しく聞かせてもらおうか」
高山の口調は、〝犯人〟を追及するそれに変わっていた。
中里が篠原に肩を押さえられて、ガックリと腰を下ろす。目を伏せたままうめく。
「どうしても……ですか?」
「当然だ」
「お願いします……すぐに要求に従ってください……」
高山が不意に苛立ちを爆発させる。
「そんなことができるか! それより正直に話しなさい! 君は麗子さんとどんな関係があるんだ⁉ 何かを隠しているんだろう⁉」
中里が顔を上げる。そして、不意に薄笑いを浮かべた。
「あれ、できないんですか?」
その表情は、正面に座る高山を小馬鹿にしているようにも見える。
中里の豹変に、高山が言葉を失う。
立ったままだった篠原は、中里の表情を読み取れないまま説明した。
「そりゃそうですよ。こんな機微に触れる捜査情報をマスコミに垂れ流すなんて! 報道規制は敷いてますけど、こんな内部情報、規制破りを誘ってるようなものです!」
中里と高山は、にらみ合ったままだ。
と、高山たちのイヤホンに分析室からの報告が入る。
『中里の呼吸と表情に変化がありました。恐れか焦りを感じているようです』
高山は視線を逸らさないまま、念を押した。
「今は、犯人の要求には従えない」
中里は今度ははっきりとした笑いを見せた。
「あ、そうなんだ……じゃあ仕方ないですね。手の内を明かすしかないようです」
篠原が中里の変化に驚き、見下ろす。
「何を言ってるんですか?」
中里は、高山から目をそらさない。
高山の表情が険しく変わる。
「手の内、だと?」
「誘拐犯って、実は私なんです。さすが警察、とっくに見抜かれちゃってるみたいだけど」
「なんだと? 君が実行犯だというのか?」
「その通り。私が麗子さんを誘拐しました」
「だったら、なんでここにいる⁉ わざわざ捕まりにきたのか? なんのために⁉」
「目的、知りたいですか?」
「当たり前だ!」
「警視庁を崩壊させること――なんですけど」
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