4

 朝の日課を終えて、街へ買い物に出た魔女のいぬ間に私は決行した。花を買いに来た青年を待たせ、ダリアを集める。血の赤、あざの紫、青年の声と同じ黄色、月より明るい白を合わせた。妖精の羽に似た薄い空色の不織布でまとめた花束を手に、彼のもとへ戻る。


 青年は色とりどりの花束を見て目を丸くした。「そんなに頼んでないよ」

「これは私が持って行くの」

「持って行くって、どこに」

「あなたの奥さんに」


 ふっと、風が止んだ。

 静か。何かが死んだみたいに。


「子どもができないんでしょう。私、魔女だから、っていっても弟子だけど。なんとかしてあげたいと思ったの」

「無理だよ」

「無理じゃない。家に連れて行って」


 私は彼の奥さんに話をとおした上で、したかった。彼にすがりつく。指先で、服をちょっと摘んだだけ。振り払われなかった。彼は優しい手つきで私の指を覆い、あたためてくれた。柔らかくなった私の関節は花のように開く。彼は手を握ってくれた。でも、すぐに離れた。彼の体温が風に奪われていく。忌々しい風。


 歩き出す彼に、私はついていく。


「僕はむかし、海に流れ着いて死にそうだった。助けてくれたのが今の奥さんなんだ」

「命の恩人ね」

「だから逆らえない」


 穏やかじゃない表現だった。根っからの魔女になりきれていない自分を憎く思う。自分の性悪さが嫌になる。まだ人間らしさが残っている。昨日と同じ。罪深い考えから希望を見出せるのは、魔女ではなくて女の証だ。


「奥さんのこと、好きじゃないの」


 聞いた。

 聞いてしまった。

 押し寄せる後悔がどうか、岩場にぶつかって砕け散ってくれればいいのに。

 彼は答えてくれなかった。後悔は消えないまま私の海を漂う。


 平坦な林の道を黙々と歩いたせいで、どれだけの時間がかかったのかわからない。気づけば目の前に小屋があった。彼がただいまと告げて扉を開く。

 見える範囲でわかるのは、彼の妻が妖精だったということだ。


「おかえり、あなた」鈴のような声は彼の帰りを喜ぶも、すぐに一変した。「だれ、それ」

「魔女さんのところの」

「ああ、魔女の娘さんがどうしてここに?」

「子どもができないって聞いたから、なんとかしてあげようと思って」私は声を張り上げた。「あなたの代わりに私が、彼の子どもを産んであげようと思って」


 空よりもはるかに高いところから解き放ったような笑い声をあげたのは、妖精だった。


「何を勘違いしているの。子どもができない原因はわたしじゃないの、彼なのよ。あなたが来たところでどうこうできる問題じゃないのよ」


 えっ、と私は言葉につまった。

 花束を取り落とす。視界の隅で妖精が動いた。薄いレースが輝くスカートは、花びらを一枚ずつ縫いつけたように美しい、はずなのに……その上体から伸びる、血の気のない手が花束を拾う。

 その手が触れた一瞬で、花束は命を失ったように思えた。


「この男はね、浜辺に流れ着いたとき、頭しかなかったの。それをわたしがようやくここまで作り戻して、人の見た目にしてあげたの。ただ男根だけがどうしても適合しないのよ」

「適合?」


 妖精は、さっきまで自らが立っていた位置へと戻っていく。家の中から、何かをずるずると引きずってきた。青年がやめてほしいと訴える。私は関係ないだろうと。


「関係ないことないのよ。それくらい、あなただってわかるでしょう」


 私の足下に引きずられてきたのは男だった。真っ青な顔は血を失っていた。下腹部が露わになっている。ズボンを履いていない。

 脚のあいだに、男根がない。代わりに、膨大な消化器官が自由を得て飛び出していた。

 私にはおおいに見覚えのある、男の死に様だった。


「どんな男のモノを当てはめても、適合しないのよ。この男には」


 浜辺に打ち上げられた、男根のない男たちの死体。その体に、妖精が花束からダリアを一本引き抜いて放り捨てた。不似合いなもの同士。一瞬でどちらもゴミになる。


「供養のつもりでこの男が花をくれてやってるだけよ。わたしは別に、何人死んだっていいの。いい男に抱かれてみたいってだけ。本当は子どもなんか、別にいらないの」


 妖精は純真無垢に無邪気に、私に言葉を投げてくる。


「だから、あなたはお呼びじゃないの」


 妖精は私のフードを取った。大きく開ける視界の先で私を待っていたのは、白髪に月光のような透ける肌と、星が瞬く夜明けの空を吸い込んだ瞳。その瞳はみんなを平等に見つめているから、実際は何も見ていない。誰も見えていない。それは妖精独特の心のなさを感じさせる。


「やっぱりね、あなただってこの男と同じなのよ」


 こんなときにもかかわらず、私の胸は躍った。彼との共通点を他人に――それも彼の妻に発見されるというのがうれしかったから。


「あなたも子どもができない体だってことよ」


 続く衝撃は、私の体に強く響く。どこか。どこかに。……私が持っていない、下腹部の深いところで揺らめく。痛みにならない。ただ、その空間に波紋を広げて、やがてどこかにぶつかって跳ね返る。行くあてがないから、終わりがない。それは妖精の言う、私が持ちえない証明でもあった。


 私は妖精の家を飛び出していた。魔女に会いたかった。どういうことか聞きたかった。下腹部の振動が増幅の一途をたどるうちに、肺と同じ痛みを帯びてくれたらと願うのに、何も変わらない。それが、自分の体が、あまりにも憎い。


 おいと呼び止める声。痰の絡んだだみ声に振り返る。声しか知らない。でも、知っている。振り向けば、たぶん朝の作業のときに出会った男がいた。


「なんっ……!」


 猟銃を持っていただみ声は、私の顔を一目見るなり様子を豹変させた――ように感じた。気のせい? じゃあどうして、私は猟銃で殴られなければならないの。ああ、魔女の言いつけを破って顔を出したままだったからか。あまりにも醜悪な顔で、他人をいら立たせてしまうからか。横殴りにされた衝撃で、足腰が砕けた。地面に伏せた顔をあげれば、眼前には高くそびえる杉の木と、だみ声の初老の男。垂れたよだれが白髪交じりのひげにくっついて、彼を、獣を狩る側から、獣そのものに変えていた。彼こそが獣。


 私は思い出した。むかし、私はこうした獣どもに襲われ続けていたことを。


 それが私の過去! 魔女がすべてを封じ込めてくれていたむかしの私!


 だみ声が私のスカートをめくる。抵抗できないのは、私と同じ女だった者たちからの呪いだ。それでも私はじたばたあがいた。けれど呪いは強い。あがいたつもりにしかなっていなかった。

 だからだみ声は、やり遂げようとする。私を、そう扱おうとする。かつてそうだった私を、今もそうであろうと使おうとしてくる。


 愛し合った夫婦にのみ許される行為なんてものは、幻想もいいところだった。


 だから私は、愛もへったくれもない獣たちに好き放題させられていた。過去の話。むかしの私。そう思っていたけれど、そう思いたかったのだけれど、過去になるのが今ならば、私は今もまた、そうしなければならないのかもしれなかった。


 あきらめろ。それが獣の鳴き声。だみ声もそう鳴いた。


 ――最初から、彼には血がついていたように見えた。


 青年は、猟銃でだみ声の頭を殴った。はじけ飛ぶ血しぶきが彼にかかる。彼はだみ声に何度も猟銃の持ち手をたたきつける。だみ声は頭に手を伸ばす途中で力を失い、だらりと前のめりに倒れてくる。白目を剥き、口を開けた頭蓋骨が落ちてくる直前、彼がだみ声の服をつかんで脇にどけた。

 あおむけになっただみ声の左目尻には、ほくろがあった。


「死んじゃった……」

「今さら一人、殺したって、たいして変わらない」

「それは、このだみ声の息子を殺したことを言っているの」

「それだけじゃない」


 彼は言葉を吐いた。つらそうだった。私は手を伸ばした。その手を彼が強く握ってくれた。


「行こう」


 どこに、と彼は言わなかった。

 どこへ、と私も聞かなかった。


「君も僕も、一度死んだようなものだ」


 でも、死んでいない。まだちゃんと生きている。違うの? 手をつないだまま歩く青年の横顔を改めて見る。いや、初めて彼の顔を見た。斜陽を束ねたような髪をしていた。日に焼けた肌には、点々と散る赤い花びらがある。海を吸い込んだかに思える深い藍色の瞳は、まっすぐ前を見据えていた。

 想像の何倍も、彼はきれいだった。

 一度死んだという彼は、まるで、海から生まれてきたようだった。


「脳が活動を止める脳死っていうものがある。けれど心臓と肺を人工的に動かし続ければ、その体は死んでいないことになるんだ。人の死っていうのは脳と心臓と肺が動きを止めた瞬間という定義がいまだに根強く残っていて、というか、それ以外に断ずる方法がない。それで、脳死っていうものがあるのなら、肺の死や心臓の死というのもある。わかるね」

「心臓だけが動きを止めても、ほかが生きていればってこと? でも心臓が止まったらほかもダメになるんじゃないの」

「現代の医療技術を舐めたらいけないよ。たとえば心臓に持病を持つ人間は薄い人工筋肉の膜を貼りつけておけば、急に動かなくなった心臓に変わって膜が一時的に働いてくれる。その状態のまま病院に搬送されれば脳や肺は助けられる。でも膜は一時的な効果しかもたらさないし、心臓自体がもう一度動き出すことはない。そうなったとき、果たして人は死んでいるかどうか」

「まだ肺も脳も生きてるんだから、死んでないんじゃないの」

「けど、脳死を人の死とみなして臓器提供をする制度も過去にあった。だったら心臓のみの死でも、死とみなせるんじゃないか」

「でも……」

「不老不死を可能にすればするほど、死があいまいになっていく」


 僕らもそうだったんだ。彼が言う。

 私は思い出す。まだ完全に生身の人間だったころの、最後の自分の記憶。私は行きずりの獣たちの遊び道具にされて捨てられた。病院に搬送されたとき、心臓と肺が活動を停止した。脳だけが生きていた。心臓や肺が生きていたとしても、臓器提供に踏み切るためには脳だけの死をその人間にとってのすべての死と判断しなければならない。同様に脳だけを人工体じんこうたいに移されると、心臓か肺が生きていたとしても、その時点で生身の体は死亡したとみなされ、人権を失う。以前の記憶が残っていようとも、体が本人のものではなく人工タンパク質製の合成物であるため人とは認めてもらえない。


「そうやって僕らみたいな合成人間が生まれるんだ」


 人権のない人間。

 便利だっただろう。手軽に扱える、人に似たモノの私たちは。


「戦地に送り込まれて、男は傭兵、女は安息嬢として強制労働が待っている。五年勤め上げたら解放されるというけれど、僕は解放された仲間を見た記憶がない」

「だって、みんな壊されるの」

「僕らはまだよかったよ。争いの中で脳が破壊されたら、やっともう一度死ねるんだから」でも、と彼が私を見るまなざし。いつかの慈愛に満ちた声。「君たちには、そんな機会さえ巡ってこない」


 脳が求める欲の発散は合成人間でも続いた。そうした男たちの相手をしなければならなかった私たちは、ひどく傷ついた。手足をもがれ、臓器を抜かれても、合成人間の体は容易に死なない。脳が破壊されない限り死なないことを逆手にとって、日頃の戦闘で鬱憤の溜まった男たちが女にすべてを晴らしていく。私たちは男に顔を見せるだけで欲情させられるように作り替えられていた。


 私たちは死に場所を海に求めた。傷ついた体からいずれ海水がしみこみ、脳が腐って死ぬ日を求めて、海に体を捨てる。

 私はそうやって浜辺に流れ着いた同胞を、はやく、はやく死なせてやりたい一心だった。私自身、死ぬために海に身を投げていたから。


 今朝も魔女と一緒に、女たちを焼いた浜辺についた。あいにくの曇り空でも、薄日が差している。この海の向こうでは、今日もまた飽くなき争いが繰り返されている。そこで泣いている私たちの仲間もいる。謝ろうと思う。

 先に楽になってしまったこと、安寧のひとときを過ごしてしまったこと。


 恋をしたこと。


 今度は私が彼の手を引いた。海にせり出した岩場へと、彼を導く。少しでも遠くの海を見たかった。彼もきっとそうしたかったと思う。

 私たちは海から生まれてきたのだから。


「僕はもう、何人殺したかわからない」

「そんなこと言ったら、私だってそうよ」


 浜辺でどれだけの女たちを、焼いて、死なせてやったことか。

 一度死んだ人々を。


「でも、花だって切った時点で死んだも同然じゃない。それなのに枯れたら死んだとみなすんだから、どう見るかは、いつも身勝手に私たちが決めるのよ」


 いつ死ぬか。

 いつ死んだか。

 いつまで生きるか。

 選べて、選んだら、それまでだ。その先など、私たちにはないのだから。

 今日の海は、琥珀色の太陽を産んでいた。

 私たちは少し、生き過ぎてしまっていた。

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