3

 翌日もまた、私は浜辺に立っていた。朝日を浴びてきらきら輝く砂浜に打ち上げられた、男の腋に腕を差し込む。薪の囲いまで引きずっていく。衣服が脱げた下半身の男根は失われていて、穴の開いた体から臓腑のかけらを落としてしまう。鮮度を失った貝の肉色に似たそれを拾い集めるのも私。残らず男の体へ戻してあげる。

 今日は左目尻にほくろのある男と、嗚咽を漏らす女三人。火をつけて、灰に生まれ変わるまでを見守る。魔女が岩場のお墓から灰を飛ばして、朝の日課が終わった。帰路の杉林に入ったとき、足音が近づいてきた。


「魔女さん」

「あんたか、何か用事か」

「花を」

「またか」


 青年は小さく「はい」と答えた。声に覇気がなかった。胸がざわつく。彼の顔が見たい。ゆっくりと顔を上向きにしていると、魔女に後頭部をつかまれてうつむかせられた。魔女ばっかり彼と顔を合わせてずるい。

 私が抗議するより先に、魔女は絞り出すような声で青年と会話を始めてしまった。「あいつもいい加減あきらめないもんか」

「意地になってますから」

「あれは執着っていうんだよ。無理なものは無理だっていうのに」


 魔女は大きなため息をついた。青年も。帰りがけだからついておいでと彼を促し、魔女が歩き出す。私もついていく。私のすぐ隣で、青年の脚が地面を踏みしめる。


「昨日はありがとう」

「ううん。今日もまた買っていくの? 花が好きなのね」

「人にあげるんだ」

「喜んでもらえた?」

「きっとね」


 私たちの家についてから、青年は魔女から白いダリアを一本購入した。八重咲きの美しい花びらは花嫁衣装にも見えた。


「また買いに来てくれる?」

「そうだね……できれば、もう来る必要がなくなったらいいんだけど」


 青年の言葉に、私は動揺した。だってどうして、そんなことを言うの。どんな顔でそんな、私をさみしくさせるようなことを言うの。顔を見たかった。彼の顔。でも彼の顔を見るということは、私も彼に顔をさらすということになる。彼に言葉をかけたかったけれど、彼の口から飛び出す言葉がもし、私を傷つけるものだったら――恐怖が、悪寒に姿を変え、全身を駆け巡った。私は彼の袖をつかみ、彼の言葉を、前もって封じた。


「私、ちゃんと手入れして、きれいな花たくさん咲かせるから。あなたが来る必要がなくなっても、来たくなるようにしてあげる。だからまた、絶対に来て」

「……ありがとう」


 覇気はなかったけれど、彼の声は慈愛に満ちていた。それが聞けただけで、私は安心した。頭をなでられたらもう、何も望むものはない。

 去っていく後ろ姿をずっと眺めていたかった。でも約束だ。ちゃんと花の手入れをする。決心もつかの間、振り返った間近に魔女の顔があって、思わず後ずさった。


「あんた、変な気起こすんじゃないよ」

「変な気って」裏返った声を、直して。「何のこと?」

「あの男には嫁がいるんだよ」


 魔女の一声。

 それは、鏡に亀裂を入れる衝撃だった。さっきまでひとつのものを映していたのに、ひびで分断されてしまったら、もう二度とくっつくことはない。その鏡はふたつの鏡として使うか、粉々にして壊すしかない。

 魔女の言葉はそんなふうに、私の心を割った。


「女がね、あの男の子どもをどうにかして作ろうと躍起になってる」

「できないの?」

「できない」


 海風をさえぎるこの場所に、潮が飛んできた気がした。私の鼻の奥をつんとさせるのは、潮風と、流されてくる死人のにおいを嗅いだときと同じで、なんで、今、そんな風が吹くのかと。鼻をすする。よけい痛くなった。魔女の手が頭に乗ってきた。


「魔女っていうのは」


 生と死を扱う。生きることと死ぬこと。傷や病の手当て、妊娠、堕胎、出産、看取り、蘇生。それらを操る、生死の垣根で笑い泣く存在。魔女はそう言った。私の中の最初の記憶は、魔女の存在意義についての講釈だった。

 あんたは生まれながらの魔女のようだ、と魔女が私に告げた。魔女とはむかしからそういうものなのだ、とも。


「じゃあ私は、あの人の子どもを代わりに産んであげてもいい」


 それもまた、魔女の存在意義にはならないか。生と死の境地で行う妊娠と出産を、代わりに担おう。子どものできない彼の妻に代わって、私が彼の子どもを宿して産んで――彼らに与えてもいい。


「……あんたには無理だよ」


 魔女がつぶやく。歯ぎしりとともに。

 無理じゃない。私は心で反論した。口からは、その言葉が出て行こうとしなかった。


 私は魔女の部屋で本を探した。部屋には立ち入り禁止と耳にたこができるほど言われていた禁忌なんて、彼のためを思えば何も怖くなかった。デスクに乗るパソコンやら専門書にはいっさい触れない。これなら露見することもないはずだ。数年来の記憶しかないせいで、生活の基本的動作ならまだしも、私の頭からは学識や常識も抜けてしまっている。もしくは、本当に知らないまま生きていたのかもしれない。


 女性の医学を開く。妊娠とは何か、出産とは何か――それ以前に、女性の体の仕組み。生殖器。その名称。セックス。男女がともに行うその行為によって、子どもが誕生する。

 むかしは愛し合って夫婦になった男女にのみ、セックスが許され、子どもを授かれた。少子化の進んだ現代では、どんなに愛し合った夫婦でも、なんらかの病気や障害で子どもが授かれない場合、生殖細胞や妊婦の代理をたてることもある。


 私の考えは代理母に当たるらしい。青年の妻に代わって、私が彼とセックスをして子どもを授かる。子どもが生まれたら夫婦に託す。――愛し合った男女にのみ許された行為の末に授かれる命。けれど、あの青年と愛し合っても、子どもを授かれない妻がいる。愛し合った男女同士にもかかわらず……授かれないのは、愛し合っていないからでは? と、私は罪深い考えを抱いてしまったことに、謝罪した。心の中で、彼へ。


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