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 今日は魔女が出かける日だった。

 週に一度、魔女は食材を買い込むため街に出かけていく。私は家で留守番。家路の途中で魔女と別れ、私は二人で塗り替えたばかりの、真っ白な外壁の家へと戻る。言いつけはきちんと守り、フードはかぶったままだ。家の中でもそれは続ける。眠るときはどんなに苦しくても、マスクが欠かせない。誰かに不意に顔を見られて、心ない罵声を浴びせられるよりはマシなはずだから。寝苦しい夜は、記憶にない過去を呼び起こす。私に過去はない。記憶にないからたぶんない。ないはずなのに、いつかの息苦しさが私を呼ぶ。喘いでする呼吸は何を求めているのか、自分でもよくわからない。たまにそれが止まらなくなる。私が呼んでいるのか? 息が荒くなる感覚を。そんなことはないとまぶたを伏せて、改善を試みるのだけれど、悪化の一途をたどるのどが痛くなる。真っ白な世界で涙がにじんでも止まない頭痛の根源に、私殺されるのかなと抱いた感覚は遠い。それはいつかの自分で私は死ぬのかといつ死ぬのかといつ死ねるのかといつ――


「しっかりして」


 いつどこから、何が始まっていたのか……自分でもわからなかった。

 目の焦点が、合う。毛羽立つ麻袋につめられた腐葉土、赤玉土、水ゴケを乾燥させて固めたブロック、ほうき、剪定ばさみ。見覚えのあるそれらを見て、安堵の息をついた。自宅の前だった。

 外壁が太陽光をはね返して、きらりと輝いている。まぶしさにやられたのかもしれない。

 四つん這いになって丸まる私の背中に手を添えているのは青年だった。


「今日は暑いからね。大丈夫? どこが気持ち悪い?」

「いま、が……」


 ときどき、現在いまが、わからなくなって、不安になる。するとすかさず過去が現実に躍り出てくるからもう、全部ごちゃ混ぜになる。それは好物を食べたばかりの胃の中のよう。ミートソースとプリンが混ざっている。どちらも好物なのに、一緒くたにされると、それはとたんにゴミだ。生ゴミだ。もう、存在価値を失っている。生きてさえいたくない、苦しさに襲われる。


 青年はしばしの沈黙を経て「魔女の娘さん?」と、私の背中をなでながら尋ねてきた。


 あっと、私は顔を手で覆う。布の質感がある。よかった。見られていない。うなずいて、前のめりだった体勢を起こす。


「ありがとう。もう大丈夫だから」

「顔、どうしたの?」

「見せちゃだめって言われてるの」

「魔女さんに?」

「そう。ひどい顔だから、わざわざ見せて歩く必要もないって」

「けがでもしたの?」

「ううん」


 生まれつき、見目が悪い。私に過去はないのだけれど、魔女の弟子とはいえ、いくら私でも太陽のように海から生まれてきたわけではない。親がいたはずだ。たぶん、この顔に愛想を尽かして捨てたのだ。魔女に拾われたところから私の脳は記憶を紡ぐことを選択し、大人なのにここ数ヶ月の記憶しかなかった。

 青年がどんな顔をしているかは、わからなかった。表情という意味でも、容貌という意味でも。この澄んだ声と優しさだけでは、勝手に美化して描いてしまう。


「魔女に何か用事?」

「花をもらいにね」

「その辺の適当に持って行ってかまわないけど」

「お金は払うよ。魔女さんだって生活していかないといけないんだし」

「町の人から巻き上げるから別にいいのに」

「巻き上げるって」青年の声が、からりと笑った。「ちょっと言い方にトゲがあるね」

「トゲ?」

「言葉が荒っぽいねって。魔女さんに少し似てる」

「魔女としか話さないから」


 青年はそっかとつぶやいて、静かになった。怒ったのかもしれない。魔女も怒ると黙る。怒られるのは気分が良くない。私も、相手も。だからなだめるに限る。なだめなければならないと、頭の思考が勝手に切り替えられる。


「いつになったら魔女さん帰ってくるかな」


 声色はさっきと変わらない。怒っていないようだ。そのことに私は胸をなでおろし「さあ」と応えた。「二人分の食材買ってくるから重いんだって。それで時間かかるの」

「君は買い物にも行かないんだ」

「人前に顔を出すんじゃないって言われるから」


 どうしてもそこに行き着く。自分の顔は鏡で何度も見たことがあったが、パーツに不足や不備もなかった。おそらく、それらの配置が絶妙に、他人の嫌悪感を誘うのだろう。彼の穏やかな声が罵倒を放つとは思えなかった。でも、言われたらどうだろう。たぶん、見知らぬ人々にあざ笑われるよりも、もっと深く傷つく気がした。この体の中のどこかが。だから見せるのはためらわれた。


「じゃあお金を多めにおいていくから、勝手に取らせてもらうよ」


 私はお札を握らされた。それから玄関脇にあった剪定ばさみを見つけた彼が「借りるね」と私に一声かけて、庭へと出る。残された私はどうしようか悩んだ。

 限られた視界の中で、ふと、手招きが見える。

 私は飛び跳ねてついていった。


「君、好きな花とかある?」

「どれも好き。春の桜も夏のひまわりも、秋の紅葉も好き。バラもダリアも百合もパンジーも、みんな好きよ。だって不思議じゃない? 最初ってあんな小さな粒、って種のことね。あれがこんな黒い土の中で育つだけで、どこからこんな色取ってきたんだろうっていうくらいきれいに咲くの。私、花って本当にすごいと思う。なんで真っ黒な土で育つのに、黒くならないのかなって」

「聞き逃しそうだったけど、花の話で紅葉って言ったよね、今。あれは花じゃないよね」

「……でもあれも、なんでこんなにきれいな色になるんだろうってずっと思ってたから」

「そうだよね。白い花なんて、何色にも染まってないもんね。言われてみると不思議かもしれない」

「カスミソウは色素を溶かした水に浸けておくと色が変わるの。知ってる?」

「魔女さんから何度か買ったよ」

「あれは理屈がわかるの。だって色のついた水を吸ってるんだから。でも、ここはほら、どう見たって黒い土でしょう? おかしいと思わない?」

「思う思う」

 彼はくすくす笑っている。なんだか小バカにされた気分の私は詰め寄った。「本当に思ってる?」

「思ってるって」

「笑ってるでしょ」

「そりゃ笑うよ」

「なんで」

「君がおもしろいから」


 笑われるのはどこか不愉快で腹立たしいのに、笑っている彼の無邪気さに、怒りが消えていく。花の色と同じくらい不思議な現象が、私の中で生じる。訳がわからない。でも、今このときはとても、好ましいと思える。満開の花を見た気分に似ていた。


「君が顔を見せてくれたら、どんな花が似合うか見てみたかったね」

「今言ってくれてもいいよ」


 青年はうなった。魔女がうなるときは片手をあごに添える仕草をするから、彼もそんなことをしているのかもしれない。きっと様になる。


「染める前のカスミソウかな」

「何それ地味なんだけどヤダ」


 彼はまた笑った。剪定ばさみを握っていた右手を膝に何度もたたきつけながら、今度は呼吸さえ危うそうになるほど大きく。驚いたのは彼の挙動と、私の心臓がやけに鼓動を強めたこと。そのせいで体が熱を持ち始める。自分の体温を心地よく思う。全身をめぐる血液があたためられたおかげで、体全体がぽーっとなっていく。


 こうして積み重ねる今が過去になってしまうなんて、信じられなかった。


 青年は濃黄のダリアを一本持って帰った。去り際に「またね」と頭をなでてくれた。子ども扱いしないで欲しいと私が言い返すと、本当にどうして飽きないのか、彼はまた笑った。彼が持つダリアのような明るい声色を聞くのは嫌いじゃないけれど、やっぱりなんだか、私の機嫌は首をかしげた。彼はごめんと言いながらも笑って、また謝ってと繰り返した。本当、なんで飽きないのか。

 飽きるまでいてほしかったのに。彼は手を振って帰っていった。


 両手に買い物袋を提げた魔女が帰ってきたのは昼近くだった。

 テーブルの上のお札を見て、魔女は「誰か来たのか」といぶかしむ。私が青年の名前を告げると、目を見開いて迫ってきた。

「ご安心ください」私は彼に迷惑がかからぬよう、まず魔女の心配の芽を摘み取った。「言いつけを守り、この顔はきちんと隠しておきました」

「何か話したのかい」

「なんかものすごく笑われた。花ってなんでこんな色になるのかなーとか、私のこと染色前のカスミソウっていうから地味でヤダって言ったら、もうあの人止まらないの」


 またねがいつになるのかは、わからない。彼は言わなかった。でも、必ずまたねがある。そんな気がする。読んでいた本に顔を半分隠して、んふふと笑ってしまう。青年の笑いは伝染病かもしれない。一度かかったら、やっかいなほど治らない。


「ダリアを一本持って帰ったの。あの人何してる人なの?」

「何もしてないよ」

「何もしてなかったらお金ないんじゃないの、私みたいに」

「あんたみたいにしてるから、金があるんだよ」


 魔女の嘆息も含めて、意味がわからない。ただ家にいて、魔女の手伝いをするしかない私はお金がない。魔女がご飯を食わせてやってるだけで十分だと思うんだねと言うから、我慢しているわけでもないけれど、物欲も特にないから、お金がなくても不便とは思わない。

 でも、彼は花を買っていった。それは物欲だ。なら、お金はどこから出てくる。


「発情期の猫みたいな顔するんじゃないよ」

「発情期の猫の目ってとろけてるよね、あれかわいくない? もしかしてかわいいって言ってくれてるの」

「黙りなよもう、その口先が似たのは不運っていうか最悪な気がしてきた」

「魔女に似てるって言われたんだもの」

「だから、あんたはまだ悪女程度だよ」


 ばっさりと切り捨てた魔女は、それ以上青年について言及してこなかった。

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