愛理はアパートを出た。視線が太陽を探した。まだ低い位置にあったはずなのに、いつの間にかそれは真上に昇っていた。まぶしさに、目が涙をにじませる。私が知らないあいだに、勝手に時を刻まないで。私を世界から取り残さないで。


 彼と二人だけで完結させていた世界から追い出されたとき、愛理は、変わりなく生きていた。そのとき悟った。人が生きられる世界は、無数にあるのだと。彼と別れた程度では、別に、死ぬわけでも消えるわけでもない。その世界に私の居場所がなくなっただけ。別な世界に居場所が生まれただけ。私はちゃんと、そこで生きていこうとしていたじゃない。


 次の夜勤日、愛理は例の患者と再会した。皮膚の変色部位が増えていた。化け物に近づこうとしている患者に、愛理は、しかしやはりこれといった声はかけずに、淡々と診察を行った。


「貧血で、部屋で倒れたんです」


 当然、追及はしない。向こうだってされたくないに決まっている。隠しておきたいことのひとつやふたつ、誰にだってある。

 自分にも。

 死体を殴ってストレスを発散していますなんて、誰に言える。医者である自分が、だ。まさか、言えるわけがない。

 だから、向こうも言わない。恋人から殴られていますなんて、まさか、言えるわけがない。彼女という立場を手に入れられた自分が、持たざる者たちを見下せる自分が、そんな連中に見下す種を与える必要なんてない。


 化け物への進行は顔に及んでいた。右目の周辺が青くなっている。貧血で倒れたとき、目元に強い圧力がかかったのだろう。いったいどう転んだのか不思議だ。まったくもって、愛理には不思議だった。その不思議を解明しようともしなかった。愛理は、ただ変色箇所が増えている彼女を思った。


 化け物になるまで、あと少しだと――。目の前の患者は皮膚の変色を済ませて化け物になりきったら、彼女のような肌を手に入れられるのだろうか。どんな暴力を受けても、何も、変化せず、すべてを包み込む聖女のようになるのだろうかと。


「ほかに痛むところはありませんか」


 わかりきったことを訊く自分を、愛理はずるいと思った。けれど、その痛みを当時はわからなかったのだと、自身を振り返る。案の定、彼女も首を振った。その痛みに気づいてやれるのは自分だけだということも愛理は知っていたけれど、黙って彼女を帰した。看護師は仏頂面で後かたづけをしてくれた。


 黎明の空は鮮やかな藍色をしていたが、朝霧のせいで針葉樹林からはもやが登っていた。まるで腐敗当初の人体の腹部のようだ。人は腸内細菌の多い下腹部から腐りはじめる。その色はちょうど、あの杉の緑に近い。


 今日も彼のアパートに向かう。道中の花屋の店員と会釈をかわす。コケ色の厚手のエプロンをものともせず、彼女は花に水を与えている。シャワーの噴射力で花びらが取れてしまわぬように、ホースを上下に細かく振りながら霧雨になるよう手加減している。優しい女性なのだ。愛理が髪を切られていたときも、見ているだけで済ませてくれたのだから。


 彼の部屋は開いていた。いつものことだ。彼はいなかった。これも、いつものことだ。飲食店を経営していると彼は言っていた。これが事実かどうかも、愛理は知らない。ただ、当時彼が働いていた居酒屋で、愛理は彼と出会った。友人が主催した飲み会の席で、トイレに立った愛理が戻ろうとしたとき、彼がウーロン茶の入ったグラスをくれたのだ。困惑する愛理に、彼が耳打ちをしてきた。「君の飲み物にクスリ入れたやつ見たから、飲まない方がいいよ。こっち持っていって」。それが事実かどうかも、今となってはどうでもいい。その日のうちに彼とは一夜を共にしたし、結局は捨てられたのだから。


 バッグを床において、ベッドに乗った。愛理は、彼の視点から見る景色を味わった。彼はこの女を見下ろして、満足していたのだ。自分ではない、この女。それを思うだけで、なんだかんだで当時の嫉妬心が湧いてくる。今は好きでもなんでもない彼だが、過去の自分を今の自分に憑依させるのは簡単だった。怒りは尽きることを知らない。右手には包帯を巻いてきた。爪も短く切った。これで、痛みで殴れなくなるなんてことはない。いくらでも、疲れるまではいくらでも、女を殴れた。何にそんなにイラついていたのか、あとになってみれば、何も覚えていないのだけど。


 殴るために体に触れる一瞬、彼女は体温を奪っていく。その熱を蓄積すれば、彼女はもう一度動き出してもおかしくないくらい熱を盗っていた。しかしいっこうに動こうとはしない。


 死んでるんだよ、当たり前じゃん。頭の中で自分が自分に嘲笑する。二人で笑い合う。それが本体にまで蔓延する。ぷふっと笑いを吹き出して、彼女の胸を殴った。あおむけのせいで、なだらかな丘となった胸だ。乳首はピンク色をしていた。愛理はふと、あの患者の乳首を思い出した。階段から、きっと胸ですべり落ちていったあの患者。あんなふうにしてやりたいと、愛理は思った。真っ赤に腫れる乳首。痛かっただろう。だが赤らむこと自体腹立たしい。愛理の乳首は黒ずんでいた、それを彼が友人に笑い話にしていたことも思い出した。どうせ彼女は骨も折れないし、皮膚も痛まない。一度、刃物で皮膚を切ってやろうとしたのだが、まったく切れなかった。メスですら太刀打ちできなかった。どれだけ力をこめて、骨にまで刃先を沈めても、おもちゃの包丁で鶏肉と格闘しているようだった。それすら腹が立って、みぞおちを左右の拳でめちゃくちゃに殴った。

 彼女の体に異常はなかった。だから乳首を摘まんで、引きちぎれる力でいじめ抜いても、彼女は顔色ひとつ変えなかったし、乳首はきれいなピンク色のままだった。愛理はまた頭にきて、乳首を引っ張って彼女の上半身を起こしてやった。彼女はこたりと首をそらす。体を突き飛ばしても、何も反応しない。うんともすんとも言わない。


 熱を発散する自分の体とは対照的に、彼女はすべてを受け入れる。


 ふいに、愛理は異様なむなしさを覚えた。彼が帰らないと知りつつも、この部屋で彼を待ち、彼のにおいの染み着いた布団に挟まれて、ひとりで自分を慰めた夜を思い起こさせられた。


 愛理はベッドから降りた。スマートフォンを起動させ、検索ワードに「腐らない 死体」と打ち込む。職場の人にこの検索ワードを見られたら、医者失格と笑われただろうなと思いながら。

 トップに表示されたのは「洒落にならない怖い話――腐らない死体」というタイトル。ミイラの話題で肩透かしを食らう自分を想像していただけに、愛理の指は即座に反応した。

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