彼は彼女の髪をつかんで、頭をぐいっと引っ張って持ち上げた。体はぐにゃりと脱力している。

 そういえばさっきも、殴った反動で頭と足先が動いた。ということは硬直をしていないか、硬直が解けたかのどちらかだ。医学書を思い出した愛理は、彼が持つ彼女の顔を左手で押さえると、右手で、そっと、まぶたを押し開いた。


 一瞬の全身硬直に襲われる。彼女の目は真っ白だった。高度白濁……死後三日以上が経過している。白濁の最高潮に、死後硬直は緩解を開始する。この様子だと緩解は完全に解けている。つまり死後間もないわけではない。それなのに、体に腐敗の様子はまったく見受けられない。


 彼の、彼女が死んでから三ヶ月も経つという言葉が、いよいよ真実味を帯びてきた。


「殴ったら?」


 彼の提案は唐突だった。「え……」と言葉を返すだけで愛理は精一杯だった。

 彼女をベッドに放り捨てた彼は、愛理の体をベッドに引きずり上げてくる。突然の事態に愛理は抵抗もできず、彼にされるがままだった。むかしのように。ベッドにひときわ大きな音をたてさせて、彼が飛び降りる。おかげで愛理は、ベッドの上で、彼女と二人きりにされてしまった。


「殴ってよ、愛理。だってその女、愛理からおれのこと盗ったんだよ。むかつくよね。覚えてるでしょ。腹立たない?」


 彼の声は抑揚がなく平坦で、きっといつまでも直進を続けていく。たまに誰かと垂直に交わることがあっても、すぐにまた離れていく。一度交わった分、今度はもっとずっと遠くに。愛理は彼に交わろうと必死だった。気づいたのは、追いかければ追いかけるほど彼は自分と平行を保ち続け、一方彼自身は女の子を見つけ次第直角にさえ曲がれる人格だったということだ。


 彼が愛理を避けて直進を選んだ女が今、目の前にいた。足下。手の届く距離。それは拳で殴れる距離。死んでいる彼女は決して抵抗しない。ましてや、殴ったところで痛みも感じない。だって死んでいる。死体損壊という罪状が頭を過ぎったが、彼が殴った腹部に、損壊の痕跡はなかった。証拠に残らないという誘惑はとても甘かった。彼のように。だから唾を飲んだ。


 愛理は彼女のくびれを脚で挟むように、膝で立つ。彼は何も言わなかった。たばこを吸っていた。彼のにおいだ。女みたいな、ピーチミント風味の細いたばこ。ピンクのグロスがついたそれを玄関で見つけて、部屋にあがって、そしたらこの女がいた五月の終わりの土曜日の午後六時私は両手にスーパーの袋を右手には彼用のビール六本と自分用の缶チューハイで左手にはポテトチップスと彼が好きなお総菜の唐揚げとコンドームの入った袋を提げていた中身の入ったそれを床に落として右手人差し指以降の四本を丸めてその上に親指を重ねて作った拳が完成したとき彼に殴られていたばかりの私が彼を殴っていたのだけどそれは遠いむかしの話で今ではなくて今私がやっていることそれは――


 女を殴る。

 彼女の左の頬、自分の右手。ばちんと皮膚がぶつかる。雰囲気にそぐわない、バカの鳴き声みたいな音。その音には耳なじみがあった。彼とのあいだで何度も聞いた。それにそっくりだった。

 頬は変色しなかった。彼女は、患者と違って、化け物になんてなりはしない。あざもできない。……違う、逆だ。彼女は、完全な化け物なのだ。人の|皮

かわをかぶった化け物。人から暴力を受けるためだけに創られた化け物。


「けっこうスッキリするでしょ」


 彼は人差し指と中指でたばこを挟みながら、歯型の残るフィルターを親指で弾き、左右に振っている。紫煙が揺れた。彼のにおいが部屋中に広がっていった。


「足りないならいくらでもどうぞ。おれのじゃないし、おれ痛くもないし」


 愛理は初めて人を殴った衝撃で、肩で息をするほど動揺していた自分に気づいていなかった。だから彼の言葉にうなずいて、左手をベッドに軽くつくと、右手の拳を何度も彼女の顔に打ち込んだ。こんなに頬の骨って折れないんだ。軟骨なんだから、鼻の骨くらいは折れたって、いいのにね。指の第二関節が、痛い。やけになった。拳を振り下ろす。小指の側面が、彼女のひたいにぶつかる。ぺちんって、ほらまた、バカが鳴いた。小指の爪が、手のひらに刺さる。痛い。痛い。痛い。殴らせてくる愛理が悪いんだと、彼は言った。殴る方が痛いんだよと、彼は言った。あれは本当だったんだと、人を殴る立場になって、初めてわかった。痛い。人を殴るのって、痛いんだ。それなのに、この女はちっとも痛がらない。それが、それがよけいに、愛理の奥から怒りを引き出す。引きずり出されていく。だから手が止められない。止まらない。痛い。痛い。血が見えた。彼女の体が、痛いといっている証だ。左の頬に、血が、殴ってこすれた。愛理は手を止めた。彼女が、どこから血を流しているのか見るために。


「あーあ」たばこを空き缶に入れた彼が近づいてくる。「いくら爪短くたってさ、そんなにやったら刺さるよ」


 彼によって広げられた手のひらに、赤い三日月が三つも浮かんでいた。体が痛がっていたのは私の方。じゃあ、彼女は? 何も変わっていない。愛理は腰の力が抜けて、彼女の上にぺたりと座り込んだ。疲労が、油断をした隙にどっと覆いかぶさってきた。汗が突如、吹き出した。すると一気に、全身が冷えていく。この女は本当に、泥棒猫の盗人だった。


「またおいでよ」


 耳から注がれる呪いの言葉に、愛理は彼を見た。たまに食べる甘いものの、おいしさといったらない。食べたあとの後悔なんかよりも、その甘さが欲しい。


「またおいで」

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