まだ、言うのか。

 愛理は嘆息した。今は九月だ。三ヶ月前となると、だいたい六月。そこからこの猛暑著しい日本列島の、さらに関東平野のアスファルト天国にある、コンクリート製のアパート神殿の一室で、エアコンもなければピノしか入らない冷凍スペースのミニ冷蔵庫しかないこの部屋で、どうして死体が腐らないでいられる。神のご加護だって、ミイラ止まりが関の山だ。


 それが、目の前の彼女とくれば、どう見ても眠っているようにしか見えない。

 ように、というか、声をかければ起きそうだ。

 二人そろって自分をだまして遊ぶために呼ばれたのかと勘繰りたくもなる。いつどのタイミングでドッキリでしたと暴かれて、撮影機材が出てくるのだろうかと。

 二人に付き合うつもりもなかったが、愛理はあえて彼に尋ねた。


「じゃあなんで死んだの」


 彼は無言で、彼女の頭を指した。愛理はおろしていた髪を、今一度クリップでまとめた。それから、ドラマで見る刑事がやるように、彼女の頭部に手を這わせた。ベッドサイドに強打したとか、殴られたような痕跡はない。頭じゃないのか? 視線をずらしてわかった。ほっそりとした白い首に残る、その指の痕も、彼女が望みさえすれば愛と名づけることはたやすい。


「死なせるつもりはなかったんだよ」


 悪びれることなく、彼は言う。故意じゃなくて事故だから、同意の上だったから。それで罪から逃れられるというのなら、人殺しの汚名なんてそこまで汚くないんじゃないか。


「それが、三ヶ月前」

「私が信じると思ってるの」

「本当なんだよ」


 それ以外、彼は言わない。もしくは言えない。言わないのは彼の性格だとしても、言えない理由なんて、なんにも見あたらない。


 愛理はベッドのそばにひざをついて、胴体の脇にあった左手を取った。ピンキーリングがはめられた手のひらは、天を仰いでいた。脈を調べようかと思ったのだ。彼の言葉など、何一つ、もはや、信用には値しなかったから。


 左手のひらを挟むようにつかもうと、して、愛理は腕を引いた。脳が考えるよりも先の脊髄反射。だって、何これ。


「言ったじゃん」


 勝ち誇るように彼は言った。それが悔しいとも、愛理には思えなかった。


 人の体温は、死後数時間をかけてゆっくりと、死んだ場所の気温と同程度になっていく。この部屋は朝になったばかりだというのに、服から露出する肌が汗ばむほどに暑い。扇風機は床にしゃがむ彼ばかり追いかけている。そんな空間に置き去りの彼女の体温は、なかった。冷たいともまた違う。冷凍庫につめこまれていたとしても、こんな冷え方はしない。凍ってさえいないし、突き刺さる冷たさもない。これは、何かを欲している人の手だ。一滴ずつ、人から何かを……それはまるで、他人ひとから体温を奪うように感じられた。


 愛理はベッドから距離を取った。

 目の前にいる彼女が、にわかに、人間には思えなくなってきた。


 化け物、そう、化け物だ。

 診察の時に見た、あざで皮膚が変色した女性のなれの果てだ。確信した。


 この女は人じゃない。

 化け物だ。


 バッグをあさる手が震えていた。化け物は感染しないだろうか。的外れな恐怖で自分をごまかしながら、愛理はスマートフォンを探した。いくら探しても見つからなかった。なんで、どうして。泣きそうになる。それなのに、彼がバッグに手を入れたら一瞬で当たりを引く。


「何する気?」

「何って、警察呼ぶの」

「なんで」

「なんでって、人が死んだら、警察と救急車呼ばないと」

「いいじゃん」


 よくないよ、が言えない。言えなかったのは過去の話。言えないのは今の話。


 だってどうして、そんなことを言うの。


「警察呼ぶっていったらこうだよ」


 ミルクと砂糖たっぷりのカフェオレみたいな声色で、彼は、そんなことを言う。スマートフォンは愛理の手に返された。傷ひとつなく返してもらえたのに、愛理はそれを起動できない。目の前を横切った彼は、ベッドに乗って、彼女の下半身に膝をついた。今から、何を見せられるのかと、愛理は、こうだよの言葉が、我が身に降りかかってくる内容だと知っていたから、両腕で自分を抱いていた。


 ──逃げればいいじゃんね


 再生される声は、私に向けられていた。


 逃げないんじゃないの。

 目の前の現実、それが私たちのすべてだったの。


 彼は、彼女の腹部に拳を突きこんだ。「ひっ」。短い悲鳴。か細い声。愛理の声帯がひり出せた最大音量。それが、殴られた方は――決してものを言わなかった。無防備にさらけ出したみぞおちに受けた衝撃で、頭と足先が浮いて、すぐ、ベッドに着地する。生じた風が、愛理の頬に触ってきた。こまかなほこりがきらきらと宙を舞う。それは死へのいざないなのに、天使のきらめきに錯覚させられて、飛び立とうとする愛理の肌が凹凸を描く。とんでもないと、愛理は腕を抱き、肌を、ひいては自分を守る。

 私はもう、こうはなりたくない。


「死んでるから、何しても文句言わないんだよ」


 愛理は腹部に力をこめて、ゆっくりと、上体を伸ばした。それで、彼女の腹部を見た。生きていれば、そこに浮かび上がる青いあざがある。赤くてもいい。黒くてもいい。紫でも、黄色でも。とにかく、何かしらの変化を期待していた。


「死んでるの……」

「死んでるんだよ。三ヶ月前に」


 何も起こらないということが、すべてだった。

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