送信日時は昨晩の九時だった。今さら返信をしたって、という思いは、そのメッセージの次に送られてきていた写真で打ち消された。女が、全裸で、しかも彼のベッドの上で横たわっている。不意に湧いた怒りを殺す術を、愛理は誰からも教えてもらえなかった。だから、自宅に戻るはずの足を、まったく別の方向へと動かしていた。女とは怒りだけで生きていける生物を指すのだと、自らの経験上、つくづく思う。


 改札を抜けて、通い慣れた道に目をやる。商店街はどこも開店間もない。店先で商品の花に水をやる女性と目が合った。会釈をした。彼女は愛理の過去の恋愛の目撃者だった。

 アスファルトに正座をして、恋人に髪を切られる愛理を、彼女は遠くから見ていた。ショートヘアが好きだという彼に、愛理は好きにやらせた。無理矢理じゃなかった。そのときは自分も、いいよと言っていた。何をされてもよかった。どうせ愛に意味のない世の中、その行為に私が愛を名づけてあげれば、それらは等しく愛として命の息吹を得る。それを自分たちの愛の結晶と、愛理は信じていた。その時代ときは。


 二人だけで完結させられた世界をこじ開けて入ってくる女さえいなければ、愛理は今の世界に戻ってくることもなければ、正気を取り戻すこともなく、彼を奪われて落胆することもなかったように思う。彼の女から人間に戻ったとき、これでよかったと安堵した記憶もある。正気を取り戻せたのは、無理やり世界に割り込んできた女がいたからだ。あの女がいなければ、今ごろの自分はまだ……いや、もう人に戻れなくなっていたかもしれなかった。かといって、死んだのに腐らないなんて冗談みたいな女に、感謝なんてしたくない。

 それだって、冗談に決まっているけど。


 商店街を外れると、安アパートの立ち並ぶ住宅密集地に入る。ここはいつでも静かだった。夜の商売をメインにしている人々が住んでいるから、住民は日中眠っているし、夜はいない。愛理は道路の端っこで膝を抱える三歳くらいの女の子に声をかけようとしたことがあった。近づこうとしたのだが、彼に止められた。誘拐犯扱いされて有り金を搾取されるだけだから、と。その子は愛理が顔を出さない数日のあいだにいなくなっていた。どこかで元気にいてくれたらと、今でも思っている。


 目的の二階建てアパートの外壁は、老朽化でひび割れが生じている壁の傷を癒すようにツタ植物が伸びていた。見た目には悪化の一途をたどっているのだが、秋に近づいて色づき出したツタにはそれが伝わらないのだろう。最後に見たのは五月の末で、今はもう九月だから、ツタもずいぶん伸びていた。自分が見ていないところでも、時は等しく進んでいる。


 一階のいちばん右の部屋、扉の鍵は開いていた。彼は基本的に鍵を閉めない。どうせ盗られるものなんてないから、とうそぶいて。実際のところはというと、愛理が彼のコーヒーを一本もらっただけで、左目がしばらく使い物にならなくなったことがある。


 玄関にあがって扉を後ろ手に閉める。そのあいだに、居間から足音がやってくる。ここに立つだけで、今でも心音が異常を来す。それはこの狭い部屋がもたらす外圧と、ムスクのにおいと、生活臭と、それから、彼自身の存在。ミルクチョコの髪色とホワイトチョコの肌は、甘ったるくてなめらかで、いつまでも口の中にとどめておきたかった。溶かしたくなかった。でも舌でしか味わえない快楽に浸っていると、彼はいつしか姿を消してしまう。飲み込んでわかる。甘いものは、口の中にいるあいだしか幸せをくれない。


「遅い」

「ごめん」


 謝ったが最後だと、愛理は、また戻ってきてしまったと……そうかこれが後悔というものかと実感した。後悔先に立たずと、本当、むかしの人はうまいことを言う。


「夜勤?」

「そう」

「じゃあ、お疲れさま」


 あがってと促されて、パンプスを脱いだ。廊下に踏み出した足のとなりには、胸元がⅤ字に割れて、レースで縁取られたビビットピンクのキャミソールが脱ぎ捨ててある。バスト部分がぷっくり盛り上がっているが、どうせパッドだ。それはこの部屋にとってのオブジェだった。鑑賞する気分にならない限り、住人の視界には入ってこない。


 六帖の部屋まではほんの数歩。部屋の左端にあるベッドで、愛理はどれほどの夜を、彼と、そしてひとりで過ごしただろう。どちらが多かったかは自明の理、なんて、こういうときに使うべき言葉かどうかわからないけれど。


 そこに今、いるのは、全裸の女だ。愛理から彼を奪った女。泥棒猫と呼んだっていいのに、そんなあくどいことをしそうにはまったく見えない、純な美人。黒い波が、彼女の胸を覆い隠していた。髪以外彼女が自らの恥部を隠せるものはなく、しいてあげるなら脚のあいだに密集している恥毛くらいだ。人って、毛でしか体を隠せないのか。


「それで」


 と、愛理は彼に目を向けた。捨て犬みたいな目をしている彼に、愛理は救われた過去がある。自分は絶対に彼を捨てないと思っていたのに、捨てられたのは自分だったと気づいたとき、二度と髪は短くしないと決めた。


「偽装工作でもしてほしいっていうの」

「違う」

「じゃあ何」

「この女、三ヶ月前に死んだんだよ」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る