愛されたいとわめけばいい

篝 麦秋

 既に愛は意味を失った。

 意味を失えば力も失う。力を失った愛はもう誰も救えない。だから私たちは言わない。愛されたいなんてもう、誰も、誰にも、言えなかった。


 愛理あいりは、日付が変わった時間にやってきた女性患者の顔を見たくなかった。頭が勝手に、目の前の人間に過去の自分を重ねてしまう。わめいて無様な目に遭ったかつての自分が、今さら何をしに来たのか。違う別人だ。頭ではわかっていても、それはもう居心地が悪い。


「どうしたんですか」と尋ねる声も自覚できるほど固かった。


「階段から落ちて」


 傷を負った理由に、愛理は深追いしない。

「そうですか」とだけ応えて処置をする。発色の悪いあじさいを思わせる紫がかった青みが左の頬を中心に咲いている。切れた唇から漏れだした蜜は乾き、赤さび色に乾いていた。あじさいって花の蜜あるのかな。


「ほかに痛いところは」と続けると、患者は柔軟剤のにおいが強い白シャツをめくりあげ、ブラジャーを引きずりおろす。乳首が赤く腫れていた。強い力で摘まれたのだ。まさか階段から転げ落ちるとき、胸だけですべっていったのだろうか。かもしれない。だとしたら、器用だな。胸の表面にも点々と散って腐りゆく花びらがあるが、これは、違う。あざだけど、あざじゃない。だから無視を決め込む。細長い直線状の傷跡は笹の葉のように肌の上に浮かび、ミミズ腫れになっていた。腹部にもあきれるほどの青あざと、熟れすぎた桃のような茶けたあざと、人肌に戻ろうとする黄みがかったあざがある。転んだのだとすれば負うはずである、肋骨上の擦過傷もきちんとあった。治りかけでかさぶたが浮かんでいたが、それを本人が今し方負ったと証言するのなら、そうなのだろう。どれだけシャツがきれいだとしても、襟に血痕が残っていたとしても、着替えてきたと言われたら、それまでだ。


 彼女は愛理に、どことなく、とかげのような変温動物を想起させた。自分の意思では体温調節ができず、外部の調子に自分を合わせて生きていく。人ととかげの雑種ハイブリッド。なんて気色悪いのだろう。


 まるで化け物だ。


「レントゲンで見ても、骨や内臓に異常はありませんから。今日はひとまず帰っていただいてけっこうですよ」


 体のそこかしこに湿布とガーゼを貼りつけられた格好で、患者は帰っていった。人からとかげへ変わってしまうのを防ぐための、その場しのぎの対症療法だけを済まされて。


「いいんですか、放っておいて。一声かけてあげたらよかったのに」


 後かたづけに追われる看護師に、カルテを書いている愛理は目もくれない。


「だって本人は階段から落ちたって言うんです」

「どう見たってそんな傷じゃなかったじゃないですか。あれは」

「じゃあどんな傷に見えたんですか」

「どんなって……」


 わかるはずのものをわかろうとしない女は、わかっていないわけじゃない。わかっているからこそわかろうとしない。わかってあげないのだ。愛理のあいまいな逃げを悟った彼女は、湿布のフィルムをまとめてゴミ箱に捨てた。それから二度と口を開くことなく診察室を出て行った。


 処暑も過ぎた九月の頭、夜明けはまだはやい。空に昇りはじめたばかりの太陽は、光量の調整がなんて下手なんだろう。窓の向こうから飛び込んでくる日光に目を焼かれる。常勤の同僚がちらほら出てきたタイミングで、愛理の夜勤は終わりを迎える。すれ違う看護師や医師にあいさつをかわし、着替えを済ませるべく更衣室に入った。女性しかいない職場ともなれば、更衣室にある区切りなどロッカーの位置程度ときているから、先客がいれば声なんてぜんぶ筒抜け。


 ――死んだらどうすんだっつーのあの患者

 ――階段から落ちたって人でしょ、見逃すとかあの先生ワケわかんなくない

 ――自分もされてことあるんでしょ、だから見逃すんだよ

 ――逃げればいいじゃんね、バカみたい


 ささっと着替えて愛理は建物から出た。玄関で立ち止まると、クリップで挟みっぱなしだった、やっと肩甲骨まで伸びた髪をおろして解放する。清々しさとは無縁の、出勤のために利用される車の排気ガス交じりの空気をめいっぱい胸に吸い込んだ。臭いくせに冷たい空気。仕事が終わったのにちっともいい気分になれないのは、そのせいにしておく。ぼやけた頭のままスマートフォンに電源を入れた。通知があった。信じられないのは、それがアドレス帳から消した男からの連絡であったこともそうだし、その内容にあたる文面もそうだし、こんなバカげた内容を送ってくる神経も――そう。


 ――三ヶ月前に死んだ女が、腐らない

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