自宅マンションのエレベーターに乗り込もうとしたら、降りてきた住人とばっちり目が合った。それは隣の部屋に住んでいる人妻で、彼女が腕を組んでいる相手は男。それが彼女の亭主ではないことも、晴子は知っていた。だからこそ、どうすればいいかうろたえてしまう。


 向こうもまた同様で、最悪の瞬間を見られたと、半歩後ずさるという中途半端な逃亡で終わる。機械よりずっとぎこちない笑みを浮かべて、ようやく言葉を発した。


「あ、お仕事帰り、ですか? いつも大変そうね」

「ええ、まあ……くたくたで、たぶん眠ったら今日のこと忘れちゃいそうです」とまあ、下手な、今のこれを何も見ていませんよという言い訳を連ねてみたのだが、無理だった。


彼女はこわばった顔で「そう、お疲れさまです」と答えると男と共に去っていった。なんとなくその後ろ姿を見送ってから、彼女たちが愛の証明を繰り広げていたであろうスペースに入って、自宅のある階まで向かう。


 あれは、つまるところ不倫相手だ。しかも、その相手というのが機械ときている。晴子の婚約者の助手であるヒューマノイドが、あれは愛玩用ヒューマノイドを派遣する業者の個体だと教えてくれたことで判明した。


 心のしこりを溶かすために選んだ相手が、なぜ機械だったのだろう。冷たい機械が、いったい何を溶かせる。機械は決して人を求めたりしないのに、彼女は求めるだけでいいのかしら。求めるだけで満足するなんてことがあるのだろうか。互いに求め合ってはじめて愛情を感じられるのでは……いろいろ考えるところがあっても、結局のところ他人の話だ。それに冷たい機械と体を重ねる違和感を思うと、やっぱり人の肌がいいなという結論に落ち着く。


 玄関の取っ手に指を重ねても、指紋認証のロックは解除されない。それは鍵が開いていることを意味する。ため息と一緒に、怒りもちょっぴり出て行った。でもまだ残っている。いくら在宅中でも開けっ放しはやめてと言っておいたのに。


「もう……はあ、やっと帰ってきてくれたのね」

疲労困憊の仕事帰りでも怒りが沸くのは、それが愛しい相手に向けるための感情であるからにほかならない。案の定、リビングのソファに体を投げ出して眠っている婚約者の姿があった。かたわらに立つ美形のヒューマノイド光希みつきがつとめて笑顔で、「お帰りなさい、晴子さん」と出迎えてくれる。


 晴子は返事よりも先に、彼にイライラをぶつけた。


「二週間も家を空けてどこで何をしていたの。玄関の鍵も開けっぱなしよって、こんなに気持ちよさそうに眠っているユウゴさんを怒鳴りたくないから、あなたから教えてくれないかしら?」

「はい、了解です」


 彼は美形な顔を崩さないまま、晴れやかな笑顔で口を動かした。


「東北でめずらしい蝶のさなぎが見つかったので、羽化の瞬間を収めたかったらおいでと写真家仲間に誘われまして、そこに滞在していました。羽化とは別に牛や馬の出産、固有種の開花の瞬間、川霧の発生、さらに昨今ではめずらしく自宅出産を予定していた妊婦さんと出会いまして、彼女の希望もあって出産の撮影を行っていました。鍵は締めるように進言したのですが、開けておけば自分が帰ってきたことを晴子さんが一目見て気づくから、喜んでくれる時間を少しでも長く」


「戸締まりについてはもういいわ」あきれちゃうけど。「あなたが言ったのに締めなかったのなら、悪いのは総じてこの男ってことね」


「すみません。自分の忠告が足りなくて」

「いいのよ。だいたい、この人ってばあなたの話なんてほとんど聞かないじゃない」

「助手とはいえ、自分は機械ですから」

「でも立派に仕事をしてくれているじゃない。それなのに、もう……」


 まったく。光希が申し訳なさそうな表情をしたら、世の女性の多数はほだされてしまうに違いない。


 それに引き換え見下ろすソファに眠るのは、こんなに美しいヒューマノイドが助手をしているとは思えないほど、野性味あふれる男性だ。ずんぐりむっくりの体型で、お腹はでっぷりとしている。手足は丸太のように太くて、剛毛が覆っていた。子どもにはクマさんみたいと指をさされ、監察医とはいえ女医がどうしてあんな変人カメラマンと交際しているのと首を傾げられる。なぜと言われても、恋が理屈でできるものではないことを知っているのなら、そんなこと聞く必要ないでしょう。まったく、怒りなんて形もなくとろけて、ふつふつと愛情が沸き立って笑みがこぼれるのだから自分でもおかしくなる。


「私は死体ばっかり相手にしているのに、あなたは命が生まれる瞬間ばっかり撮るんだもの。なんていうか、ふつう逆よね。女が命を産むんだから……でも、命を与えるのは男の役目だし、やっぱり、逆とかどうとかいう話じゃないのかしら」


 疑問を投げかけるように光希へ目を向けると、にっこりと微笑まれた。


「どちらも同じですよ、きっと」


 そうした話は何もわからないヒューマノイドに問いかけたのが間違いだったか。けれど、彼の答えは気に入った。晴子はお礼に、光希にふんわりと笑みを返す。


 シャツとズボンのすき間からはみ出すお腹にタオルケットをかけてあげた。布越しに、ユウゴの優しい体温が感じられる。無骨な手を取ってほおずりしても、彼は起きなかった。たぶん、深夜にならないと起きないくらい、彼も疲れ切っているのだ。起きたら、撮ってきた写真を見せてもらおう。無断で出かけたくらいだ、どれほどに輝かしい誕生の瞬間を撮ってきたのか。晴子はその時を心待ちにして、光希に後のことは任せて部屋に戻った。

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