第17話〈在りし日の二人③〉

金属と陶器が触れ合う冷たい音しか聞こえない空間。それが、あたしの家の食卓。その場には確かにお父さんとお母さんと、そしてあたしという三人の生きた人間がいるのに、温かい会話なんて無い。これが、あたしの日常の一部だ。


ジノリの皿に乗った硬い肉を銀ナイフで切り分け、銀のフォークで刺して口に運ぶ。正しい姿勢で、正しい仕草で、それを行う。味はわからない。


「優子。先ほど帰った時、靴箱に埃がついていたぞ。掃除をしていないのか?」


 お父さんが、お母さんを責めるように言う。お母さんは忌々しげな顔で答える。


「してます。毎日してます。でも、こんな無駄に広い家、私一人でお手入れできるわけないでしょ?」


「なんだ、その言い草は。こんな広い家を持っておいて掃除婦一人雇えないのか、とでも言いたげだな」


「私はそんなこと言っていないでしょう⁈でもあなたがそう思うなら、そうなんじゃないんですか⁈」


 お父さんとお母さんが怒鳴り合う。それもいつもの光景。あたしは一人食事を終えて、食器を洗っていた。そんなあたしの背に、お父さんの怒りの矛先が向けられる。


「そういえば結衣。今日、家に帰った時に、家の前にお前くらいの歳の少年がいた。家を覗き込んでいたから話を聞いたら、お前の友人だとか言っていた」


 あたしは背筋が凍りつくような感覚を覚えた。お父さんは早口で捲し立てる。


「私はいつも言っているはずだ。生者と必要以上に関わるな、と。生者と関わりを持つと霊力が低下する恐れがある。接するのは死者か、あるいは霊力の高い者だけにしろと。私はいつも言っている。私が調べた限りでは、お前の学校にはお前以上に霊力の高い生徒はいない。それどころか、一人完全霊盲の障害者がいたはずだ。本当ならその時点ですぐにでも転校させるべきだったが、あいにくそんな余裕は無かった。教師には霊盲と同じクラスにはするなと言ってはおいたがそれもどこまで真面目に聞いてもらえたかなど分からない。つまりお前は、お前自身の意思で自分の力を守らなければならないのだ。分かっているか?お前は、生者の友人など作ってはいけない」


「……分かってる」


「ならば、私が家の前で出会った少年はいったいなんだ?」


「……友達じゃないよ。誰だか知らないけれど、多分、ただのクラスメイトの人。向こうが勝手にそう言ってるだけだよ」


「同じクラスの者にそのような態度を取られているようでは意味がない。私は明日にでも、学校に問い合わせてその少年の素性を探る。私が草葉家に多くの友人を持っていることは知っているな?場合によっては彼らに働きかけて、その少年を学校から追い出すことも可能だろう」


「そっ……そんな必要は無いよ。友達じゃ無いし。今まで以上にクラスの人と話さないようにするから」


「具体的にはどうするつもりだ?」


「……話しかけられたりしても、はっきりと拒絶するようにする。嫌われるようなこととか言って、誰も近づいてこないように」


「そうか。ではそうしろ」


 そう言い残して、お父さんは自室に戻って行った。自分の分のお皿と、お父さんとお母さんのお皿を洗うあたしの頭を、お母さんが優しく撫でて抱きしめる。


「結衣、いつもありがとうね。それと……ごめんね……ごめんね」


 涙は出なかった。泣いたらお父さんに怒られるから、出さなかった。


 次の日の放課後、藤太くんがいつものようにあたしを誘う。


「結衣!今日は公園行こう!」


 あたしは少しの間黙ってただ藤太くんを見ていた。それから首を横に振った。


「今日、用事があるから帰る」


「そうなん?ま、しゃーないね」


 それじゃ、一緒に帰ろうぜと言う彼に対し、あたしは質問で返す。


「昨日さ、あたしの家、来た?」


「……え?……あー……」


 藤太くんはあからさまに動揺して、頬を掻く。藤太くんは感情が表に出るから分かりやすい。でも、たとえ彼がポーカーフェイスだったとしたって、あたしには感情の機微が分かってしまう。


 霊力とは、霊を知覚して干渉する力。霊体というのは人の精神が体から抜け落ちたもの。霊力が強い人は、生者の中にある精神も知覚して、その変化を知ることができる。あたしは人の感情が大まかに分かるだけだけれど、霊力が飛び抜けて高い人は他者の心を読むことすらできるらしい。


「ごめん、どうしても気になって……」


「……別に、もう良いよ」


 気まずい沈黙があたしと藤太くんを包んだ。あたしは話題を変えるように、ある提案をする。


「……そういやさ、次の土曜って空いてる?」


「土曜?空いてるけど……」


 藤太くんが困惑気味に答える。考えてみれば、あたしの方から何かを提案するのはこれが初めてだったかもしれない。


 あたしは予定していた言葉を吐き出した。


「実は、テーマパークのチケットをもらったんだ。一緒に行かない?」


 その日、次の土曜日は、お父さんが出張でいない日だ。そこを狙って、昨日お母さんがあたしにくれたチケットだった。


「お父さんには内緒で行ってきなさい。そのお友達と、ね」


 そう言って、優しくウインクしてくれたお母さんの気持ちを、あたしは今裏切ろうとしている。


「良いな!行きたい!行こう!」


 藤太くんは嬉しそうに言った。当然だろう。好きな子に遊びに誘われたのだから。


 あたしには感情の色が分かる。結構前から、藤太くんのあたしに対する色が友達に対するものから変わっていったのをあたしは知っていた。これまでに数えきれないほど、男子達があたしに向けてきたのと同じ色。少し違うのは、今までの誰よりも強い色をしていること。


 そして、あたしの彼への感情もまた同じ色をしているであろうことも自覚していた。


 だからこそ、両想いだからこそ、藤太くんにはそのことに気づいてほしく無かった。でも最近、彼は自覚してしまった。自分の想いに、あたしへの想いに気づいてしまった。


 だから、もうこれで終わりなのだ。あたし達はこれ以上一緒にはいれない。


 だから最後にあたしは彼を誘った。特別な一日を過ごすために。最高の思い出を作って、それを——


 ——最悪の記憶で締めくくるために。


次の土曜日、藤太くんはいつもより少し大人びた、中高生を思わせる私服でやって来た。間違いない。彼は今日、あたしに告白するつもりなのだ。そしてもちろん、あたしもそう仕向けるつもりだった。


 あたしと藤太くんは、その日一日を全力で楽しんだ。その一つ一つの思い出がとても鮮明にあたしの中に残っている。触れたら壊れてしまうガラス細工の薔薇の花のような、宝物だった。


 あたし達はその日、最後に観覧車に乗った。狭い室内で藤太くんの緊張が伝わってきた。一番てっぺんに着いた時に、彼はあたしに言った。


「実は……その、オレ、お前が好きみたいなんだ……」


 嬉しかった。事前に予想していた以上に、あたしの心は高揚していた。でも、あたしの口は気持ちと真逆の言葉を吐いた。


「やめてよ。気持ち悪い。霊盲の分際でさ、あたしのことが好きだなんて、おこがましいよ」


 それからのあたしが彼に向けて具体的に何を言ったかは覚えていない。ただ、記憶に残っているのはガラス細工の薔薇の花を素手で粉々に砕いているようなイメージ。何度も何度も何度も拳を打ちつけて、入念にすり潰して、それが煌めく砂に変わった時には、あたしの拳もきっと傷だらけだっただろう。


 唯一覚えているフレーズがある。藤太くんを徹底的に拒絶するために、あらかじめ言おうと思っていた言葉だ。


「あなたのお父さん、いつもあなたを見守ってるってみんな言ってるけどさ、それ嘘だよ。あなたの周りに、それっぽい人の霊なんて見たことないよ。ずっと騙されてたんだよ。お父さんはあなたのことなんか見てない。どこか、あなたの知らない場所に行っちゃったんだよ。霊盲だから、そんなことにも気づかなかったんだよね」


 この事実はやはり、藤太くんの心に消えない傷跡を残した。彼の感情の色が血のような赤に変わったのを見た。


 その日を最後に、あたし達の関係は途切れた。あたしの気持ちはそこで死んで、私が生まれた。



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