第2章:「計算外の出会い」

 夏の陽射しが街を包む午後、サラは自室で静かに武器の手入れをしていた。細部まで完璧に磨き上げられたライフルは、まるで彼女の分身のようだった。


 突如、廊下に騒々しい足音が響く。サラの鋭敏な聴覚が、それを瞬時に捉えた。


「足音の数:5。うち1名は他の4名より体重が軽い。推定年齢:10代後半から20代前半」


 サラは無表情のまま呟く。彼女の脳内では、既に様々な可能性が計算されていた。


 騒々しい足音は、隣室の前で止まった。


「ドアを叩く音。強度:約80デシベル。緊急性:高」


 サラは立ち上がり、慎重にドアに近づく。覗き穴から外を伺うと、警官とおぼしき4名の男性と、1名の女性警官の姿が見えた。


「警察だ! 開けろ!」


 怒号が響く。サラは冷静に状況を分析する。


「緊急逮捕令状なし。立ち入り許可なし。対応:沈黙」


 サラは一切の反応を示さず、その場に佇む。やがて、隣室のドアが乱暴に開けられる音が聞こえた。


「くそっ! 逃げやがったか!」


 男性の怒声。続いて、物音と悲鳴が響く。


 サラは、全てを記憶に留めていく。感情を交えず、ただ事実として。


 数分後、警官たちの足音が遠ざかっていく。サラは再び覗き穴から外を確認する。


 廊下には誰もいなかった。しかし……。


「血痕。直径:約3センチ。乾燥度:低」


 サラは、廊下に点々と残された血の跡を冷静に観察する。


 その時、微かな物音が聞こえた。サラは音源を特定し、慎重にドアを開ける。


 そこには、おびえた表情で壁にもたれかかる少女の姿があった。金髪に青い瞳。サラには見覚えがあった。


「ミア。14歳。IQ:200。ビクトリア女学院の首席」


 サラは、記憶の中からミアのデータを引き出す。


 ミアは、恐怖に満ちた目でサラを見上げた。


「た、助けて……」


 震える声でミアが懇願する。その瞬間、サラの脳裏に、これまで経験したことのない感覚が走った。


「心拍数上昇。瞳孔拡散。アドレナリン分泌亢進」


 サラは、自身の身体の変化を冷静に分析する。

 しかし、その意味するところは理解できなかった。


 サラは無言のまま、ミアを部屋の中へと招き入れた。


 ドアが閉まる音と共に、サラの人生に大きな転機が訪れようとしていた。彼女の静寂の世界に、初めて他者が足を踏み入れたのだ。


 サラには、この出来事が彼女の人生をどう変えていくのか、まだ想像もつかなかった。


 部屋に入ったミアは、息を切らせながらそのまま床に崩れ落ちた。サラは無言のまま、少女の状態を観察する。


「呼吸数:毎分28回。通常より43.6%増加。顔色:蒼白。瞳孔:散大」


 サラは淡々と状況を分析していく。彼女の脳裏では、ミアの状態を示す様々なデータが次々と計算されていた。


「あの、水を……ください……」


 ミアの声に、サラは無言で頷き、キッチンへ向かう。彼女の動きには無駄が一切ない。正確に計量されたコップ一杯の水を、7秒で用意して戻ってきた。


 ミアは感謝の言葉を述べながら、水を一気に飲み干す。その間、サラは静かに立ち尽くし、観察を続けていた。


「心拍数:徐々に低下。呼吸:安定化傾向」


 サラの頭の中では、ミアの身体的変化が数値化され、記録されていく。


 やがて落ち着きを取り戻したミアは、おずおずとサラを見上げた。


「ありがとうございます。私を匿ってくれて……」


 サラは、その言葉の持つ感情的な重みを理解することはできなかった。しかし、何かしらの返答が必要だということは知識として理解していた。


「状況説明を」


 短く、そっけない言葉。しかし、ミアはその中に隠された関心を感じ取ったようだった。


「私の家に、警察が……。でも、あれは本当の警察じゃない。私の母と、母の恋人を殺して……私、怖くて……」


 ミアの声が震える。サラは、少女の瞳から零れ落ちる透明な液体を観察する。


(涙腺からの分泌物。塩分濃度:約0.9%。感情的反応の一種)


 サラは心の中でそう分析しながら、ミアの話に耳を傾ける。


「イザベラ警部という人が指揮を執っていて……。私の母たちが、何か重要な情報を持っていたみたい。でも、私には何も聞かされていなくて……」


 ミアの話を聞きながら、サラの脳内では様々な情報が整理されていく。警察組織の腐敗、麻薬取引、そして殺人。全てが、彼女の完璧な記憶の中に保存されていった。


「理解した。当面の安全は約束する。ただし私の安全を阻害するものはその限りではない」


 サラの言葉に、ミアの表情が僅かに和らいだ。


「ありがとう、サラさん。でも、これからどうすれば……」


 その言葉に、サラは一瞬躊躇した。通常、彼女の生活には他者が入り込む余地などなかった。全ては計算され、管理されていた。しかし今、その完璧な方程式に、予期せぬ変数が加わったのだ。


「検討する」


 短い返事。しかし、サラの中で何かが変わり始めていた。彼女の静寂の世界に、初めて他者の存在が認められたのだ。


 窓の外では、夕暮れの空が赤く染まっていた。サラとミア、二人の運命が交錯したこの瞬間から、予測不可能な未来が広がっていく。


 サラには、まだそれが理解できなかった。しかし、彼女の完璧な頭脳が、新たな可能性を計算し始めていたのは確かだった。


夜が更けていく。サラは無言のまま、ミアのために簡素な寝床を用意した。毛布の枚数、枕の高さ、全てが精密に計算されている。


「就寝時の最適温度:摂氏18度。湿度:50%」


 サラは呟きながら、エアコンの設定を調整する。ミアは困惑した表情でそれを見つめていた。


「サラさんって、本当に不思議な人ね」


 ミアの言葉に、サラは無表情のまま振り返る。


「説明を」


 短い言葉。しかし、その中にはかすかな好奇心が潜んでいた。


「だって、こんな状況なのに、全然動揺してないみたい。まるで……機械のよう」


 ミアの言葉に、サラは一瞬考え込む。


「不適切な比喩。私は生物学的に真正の人間」


 その反応に、ミアは小さく笑った。それは、この悲劇的な状況の中で、初めての笑顔だった。


「そうね。でも、サラさんの頭の中はどうなってるの? どうしてそんなに正確なの?」


 ミアの質問に、サラは淡々と答える。


「サヴァン症候群。非定型的脳機能。高度な計算能力と記憶力。社会性の欠如」


 ミアの目が輝いた。


「すごい! 私、数学が得意だけど、サラさんはもっとすごいんだね」


 サラは、ミアの興奮を理解することはできなかった。しかし、何か特別なものを感じたのは確かだった。


「あなたもIQ200。非常に高い知能指数」


 サラの言葉に、ミアは少し恥ずかしそうに頷いた。


「うん。でも、それのおかげで今回は助かったかも。警察……いや、偽物の警察が来る前に、何かおかしいって気づけたから」


 サラは静かに聞いている。彼女の頭の中では、ミアの言葉が全て記録され、分析されていく。


「母が最近、妙に落ち着かなかったの。何か重要な情報を握っているって言ってた。それと早く逃げなきゃって……。でも、私には詳しいことは何も教えてくれなくて……」


 ミアの声が震える。サラは、少女の目から再び涙が溢れ出すのを観察する。


「悲しみの表出。対応方法……」


 サラは、記憶の中から適切な対応を探そうとする。しかし、彼女には他人を慰めた経験がなかった。


 躊躇いながら、サラはゆっくりとミアに近づき、その肩に手を置いた。ぎこちない動作だったが、ミアはその意図を理解したようだった。


「ありがとう、サラさん」


 ミアは涙ながらに微笑んだ。サラには、その表情が持つ複雑な感情を理解することはできなかった。しかし、何か重要なことが起きているという認識はあった。


 窓の外では、夜空に星が瞬いている。サラとミア、二人の特異な才能を持つ者たちが、運命的に出会ったこの夜。彼女たちの前には、予測不可能な未来が広がっていた。


 サラの完璧な頭脳は、既に次の行動を計算し始めていた。しかし、そこには今までにない変数が加わっていた。


 感情という、サラにとって計算不可能な要素が。


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