【百合アクション小説】静寂の狙撃手 ―感情を知らない女性と愛に飢えた天才少女―
藍埜佑(あいのたすく)
第1章:「冷たい瞳の中の静寂」
高層ビルの屋上に佇む一人の女性。長い黒髪が風に揺れる中、彼女の手にはライフルが握られていた。
サラ・ノイマン、32歳。
その瞳は、遠く離れた目標を正確に捉えている。
サラの指が引き金に触れる。そして……。
「3、2、1……」
口を僅かに動かし、無表情のまま呟く。その瞬間、また銃声が響き渡った。
2キロ先のターゲットは、額に赤い点を残して崩れ落ちる。完璧な一撃。しかし、サラの表情は微動だにしない。
サラは黙々とライフルを分解し始める。その動作は無駄がなく、まるで機械のようだ。各パーツは専用のケースに収められ、それぞれが決められた場所にピタリと収まる。
彼女の脳内では、風速、気温、湿度、地球の自転による影響まで、あらゆる要素が計算され尽くしていた。サラにとって、この複雑な計算は呼吸をするのと同じくらい自然なことだった。
サヴァン症候群――それがサラの特異な才能の源だった。
視覚情報を瞬時に処理し、記憶する能力。複雑な数式を一瞬で解く計算力。そして、三次元空間を完璧に把握する空間認識能力。これらの常人離れした能力が、サラを最高峰の狙撃手に仕立て上げていた。
しかし、その一方で……。
「任務完了。報酬は通常通り」
サラは携帯電話に向かって淡々と告げる。感情の起伏のない声。機械的な話し方。相手の反応を待つことなく、用件だけを伝え、即座に通話を切る。
彼女の脳は、人間関係を築くための「常識」や「空気を読む」といった能力を持ち合わせていなかった。サラにとって、他人との会話は常に難解な暗号解読のようなものだった。
ケースを持ち、階段を降り始めるサラ。その瞳には、周囲の世界が写り込んでいた。道行く人々の服装、表情、しぐさ。街路樹の葉の枚数。道路を走る車のナンバープレート。全てが鮮明に、そして永久に彼女の記憶に刻み込まれていく。
しかし、それらの情報から人々の感情や意図を読み取ることは、サラには不可能だった。彼女の世界は、冷徹な数字と論理で構成されていた。
アパートに戻ったサラは、いつもの場所にケースを置く。部屋の中は、驚くほど整然としている。本棚には数学書や物理学の専門書が、背表紙の高さが完璧に揃えられて並んでいる。壁には複雑な方程式が書かれたホワイトボードが掛けられている。
サラはデスクに向かい、今日の出来事を細部まで記録し始める。それは彼女の日課だった。感情や主観を交えない、純粋な事実の羅列。
窓の外では、夜の闇が深まっていく。サラは、自分の特異な才能が、彼女を社会から隔絶させていることを理解していた。しかし、それを「寂しい」と感じることはなかった。なぜなら、そもそも「寂しさ」という感情を理解することができなかったからだ。
彼女の人生は、まるで精密な機械のように淡々と進んでいた。
しかし、彼女の生活に大きな変化をもたらす出来事が、間もなく訪れようとしていた……。
◆
夜が更けていく。サラは時計を見ることなく、正確に就寝時間を把握していた。彼女の生活は、秒単位で管理されていたのだ。
ベッドに横たわり、天井を見つめるサラ。他の人であれば、一日の出来事を振り返ったり、明日の予定を考えたりするだろう。しかし、サラの頭の中では、複雑な数式が次々と展開されていた。
突如、隣室から物音が聞こえる。
「計算外の騒音。デシベル:67.3。音源:壁の向こう側、床から約1.2メートルの高さ」
サラは無表情のまま、正確な情報を呟く。
続いて、女性の怒鳴り声が響く。
「このクソガキ! あんたなんか産まなきゃよかった!」
サラの耳は、その声を完璧に捉えていた。しかし、その言葉の持つ感情的な意味を理解することはできない。彼女にとっては、単なる音の連続でしかなかった。
壁を叩く音。何かが割れる音。泣き声。
サラは淡々とそれらの音を分析し、記憶に留めていく。しかし、隣人の苦しみに共感したり、助けようとしたりする気持ちは湧いてこない。それが、サラの世界だった。
◆
朝。いつもと変わらぬ時刻に目覚めたサラは、決まりきった朝の習慣をこなしていく。歯を磨く時間、シャワーを浴びる時間、服を着る時間。全てが秒単位で正確に管理されている。
朝食を取りながら、サラは新聞に目を通す。しかし、彼女が吸収しているのは、純粋な事実と数字だけだ。政治の動向、経済指標、犯罪統計。それらの情報が、彼女の膨大なデータベースに追加されていく。これらは決して忘れられることがない。
準備を終えたサラは、アパートを出る。廊下で隣室のドアが開くのと同時だった。
そこから現れたのは、一人の少女。14歳くらいだろうか。長い金髪に、知的な輝きを湛えた青い瞳。しかし、その目元には隠しきれない疲労の色が滲んでいた。
サラと少女の視線が交差する。
サラにとって、それは単なる「光の反射と屈折による現象」でしかない。しかし、少女の方は、サラの存在に強い関心を示した様子だった。
「おはようございます」
少女が柔らかな声で挨拶する。
サラは無言のまま、わずかに頷いただけだった。「おはよう」という言葉を返すべきだということは知識としては理解していた。しかし、その行動を実際に起こすことが、彼女には難しかった。
エレベーターに乗り込むサラ。少女も同じエレベーターに乗ってくる。
狭い空間の中、二人の間に沈黙が流れる。
サラの頭の中では、エレベーターの下降速度や、到着までの予測時間が計算されていた。一方、少女の方は、時折サラの方をチラチラと見ている。好奇心に満ちた眼差しだった。
1階に到着。ドアが開く。
サラは機械的な動きで外に出て行く。後ろから少女の声が聞こえた。
「あの……」
しかし、サラはその声に反応することなく、そのまま歩み去っていった。
アパートを出たサラは、いつもの経路を辿って歩き始める。彼女の目は、周囲の様々な情報を瞬時に取り込んでいく。通行人の数、車の速度、信号機の切り替わるタイミング。全てが数値化され、記憶される。
しかし、サラには気づいていないことがあった。
少し離れた場所から、あの少女がまだ彼女を見つめていたことを……。
◆
サラの一日は、今日も精密な時計のように規則正しく進んでいく。
彼女は公園のベンチに腰を下ろし、周囲の状況を観察し始める。これは、彼女なりの「訓練」だった。
視界に入る全ての情報を、瞬時に記憶し、分析する。木々の葉の枚数、鳩の羽ばたきの回数、人々の歩く速度……。サラの脳内では、絶え間なく計算が行われていた。
「ターゲットAの歩行速度:分速67メートル。15分後に交差点Bに到達」
サラは淡々と呟く。彼女にとって、これは単なる数値の羅列に過ぎない。しかし、一般の人間から見れば、驚異的な能力だ。
突如、サラの携帯電話が鳴る。彼女はためらうことなく電話に出る。
「了解した。18時30分、指定の場所で」
短い会話の後、サラは電話を切る。新たな「仕事」の依頼だった。
サラは立ち上がり、歩き始める。目的地は、彼女が武器を隠している場所だ。その道すがら、彼女の脳内では既に作戦の細部が組み立てられていく。風向き、気温、湿度、そして月の満ち欠けまでもが計算に入れられていた。
アパートに戻ったサラは、クローゼットの奥から特殊な箱を取り出す。中には分解されたライフルが収められていた。サラは無言のまま、素早くそれを組み立てていく。その動作には無駄が一切ない。
準備を整えたサラは、再び外出する。
街の喧騒の中、サラは静かに目的地へと向かっていく。彼女の周りを人々が行き交うが、サラはそれらを単なる「移動する物体」としか認識していない。
高層ビルの屋上。サラは機材を設置し始める。風速計、湿度計、そして高性能な双眼鏡。全てが、完璧な一撃を放つための道具だ。
サラは伏せる。ライフルのスコープを覗き込む。
街の喧騒が遠のいていく。サラの世界は、今や十字線の中だけになった。
そして、ターゲットが視界に入る。
サラの指が、ゆっくりと引き金に掛かる。
しかし――その瞬間、サラの脳裏に、朝見かけた少女の姿が浮かぶ。
「想定外の視覚情報」
サラは小さく呟いた。
なぜ今、あの少女のことを思い出したのか。サラには理解できない。
その一瞬の「乱れ」が、サラの射撃にどのような影響を与えるのか。
引き金が引かれる。
銃声が夜空に響き渡った。
銃声が鳴り響いた瞬間、サラの瞳が僅かに見開かれる。
「誤差0.2ミリ」
サラは無感情に呟いた。
彼女の完璧な記録に、初めて「誤差」という言葉が刻まれた瞬間だった。
ターゲットは倒れた。
任務は遂行された。
しかし、サラの内面に、微かな「乱れ」が生じていた。
素早く機材を片付け、サラはビルを後にする。暗い路地を抜け、人気のない通りを歩く。彼女の頭の中では、今回の「誤差」の原因を究明しようと、様々な計算が繰り広げられていた。
アパートに戻ったサラは、いつもの習慣通り、今日の出来事を細かく記録し始める。しかし、ペンを持つ手が、微かに震えているのに気づく。
「身体の異常か?」
サラは自問する。しかし、徹底的な自己診断の結果、身体に異常は見つからなかった。
就寝時間が近づく。サラはベッドに横たわる。しかし、普段とは違い、すぐには眠りにつけなかった。
閉じた瞼の裏に、あの少女の姿が浮かび上がる。なぜだろう。サラには理解できない。
翌朝。いつもより2分3秒遅れて目覚めたサラは、若干の焦りを感じていた。これも、彼女にとっては珍しい経験だった。
朝の日課をこなし、アパートを出る。そして――。
「おはようございます」
廊下で、またあの少女と鉢合わせた。
サラは無言のまま、わずかに頷く。しかし今回は、少女から目を逸らすことができなかった。
「あの、私、ミアっていいます。よろしくお願いします」
少女――ミアは、明るい笑顔でそう言った。
サラは言葉に詰まる。普段なら無視して立ち去るところだが、今日は違った。
「サラ」
ぶっきらぼうな返事。しかし、これはサラにとって大きな一歩だった。
エレベーターに乗り込む二人。狭い空間の中で、ミアはサラに話しかける。
「サラさんって、すごく面白い人だと思います。いつも正確で、無駄のない動きをしていて」
サラは困惑する。「面白い」という言葉の意味が、彼女には理解できなかった。
「私の行動パターンに何か問題でも?」
サラの質問に、ミアは首を振る。
「違います。むしろ、すごいなって思うんです。私、数学が得意なんですけど、サラさんを見ていると、生きた方程式を見ているみたいで」
サラの目が、僅かに見開かれる。
初めて、自分を理解してくれる人間に出会ったような気がした。
これは錯覚だろうか。
1階に到着。エレベーターのドアが開く。
「私、またサラさんとお話ししたいです」
ミアはそう言って去っていく。サラは、その後ろ姿を見つめていた。
この出会いが、サラの人生にどのような変化をもたらすのか。彼女にはまだ想像もつかなかった。
しかし、確かに何かが変わり始めていた。サラ・ノイマンの、静寂に包まれた世界に、小さな波紋が確かに広がり始めていた。
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