第16話 母親 ②

俺は自分の母親から愛情を全く受けていない。だからなのか真由子さんには懸命に、自分なりに出来る事をした。

正直俺は由香里よりも、真由子さんの境遇の方に同情していた。夫が会社の金を横領したあげく、首吊って死ぬところを目撃してしまったのだ。由香里も勿論不幸だとは思うが、真由子さんの方がその100倍は苦しんだ事だろう。

この日真由子さんの元を訪れた俺は、今日が会って話をする最後の日になると言った。勘のいい真由子さんは、俺がやるべき事の為に此の地を離れると察していた。

「寂しくなるけど、貴方が決めた事なら私は尊重するわ。ただ悟君、此れだけは約束して。私は由香里の母親だから、あの子を護らないといけない義務があるの。

もう二度と此処には来ないで、連絡も一切しないで頂戴。何が有っても必ず、完全に私達との縁を断ち切って」

俺はその真由子さんの言葉を聞いた瞬間、不覚にも頭を下げながら泣きそうになってしまった。この人はきっとわかっているのだ、俺が普通の人生のレールから外れようとしている事を。

「勿論です、もう二度と此処へは来ません。連絡先も全て消去し、貴方がたに接触する事は金輪際無いと誓います」

「ありがとう、悟君。娘もね、やっと少しずつ立ち直りかけているのよ。前みたいにメソメソ泣かなくなったし、私を連れてショッピングモールとか行けるようになってね。だから私はね、此れからもあの子を護って生きて行くの」




由香里があんなにも優しい性格なのは、全て此の母親の愛情によるものなのだと俺はやっと気付いた。真由子さんが傍に付いているのなら、由香里は俺が居なくても必ず立ち直れるだろう。

「……………俺の母親も、真由子さんの様な優しい人だったら良かったです。俺の家は貧乏で酷く荒んでいて、父も母も俺になんて見向きもしなかった。母親に至っては、俺を産んだ事を後悔しているとまで言ったんです」

「しょうがないのよ、それは。きっとね、そう言わないと生きて行けない位辛い事があったのよ。勿論子供の貴方に言ってはいけないわ。でもねぇ…………親も所詮人間だし、欠点があるのはしょうがないから」

当時の俺なら絶対に反発していたが、今の俺には真由子さんの言っている事がよくわかる。俺の両親はバカで貧乏で、其れ以外に何も無いただの人間だった。

帰り際、階段を降りて行く俺に真由子さんが手を振り続けてくれた。俺はもう一度頭を下げ、そのまま車に乗ってアパートから走り去っていった。

助手席には、ノートパソコンを広げたままの洸太郎が眠りこけていた。俺が肩を叩いて起こすと、洸太郎はか細い声で「行きますか」と言った。




「マシな家に生まれていたら、僕は先生や悟さんと出会えていませんでした。だから僕はあのクソみたいな最低の家に、今では感謝しているくらいです」

「お前は自殺志願者のくせに、考え方は常にポジティブだよな。お前、これから裏社会の人間になるんだぞ。少しも後悔してねえのか」

「全然。僕の20年間のクソ人生とおさらばできるんです、こんなに嬉しい事はありません。あ、悟さんの言ってたクリニック予約しときましたよ。やっぱ人生変えるんだから、顔も変えときたいですもんね」

一成を失ってからの俺は、真由子さんと洸太郎の二人にずっと支えられていた。此の二人が居なかったら、今頃俺も樹海辺りで首を吊っていただろう。

それから一か月後、整形した洸太郎が新しい顔で俺の前に姿を現した。俺がイケていると言うと、洸太郎は嬉しそうに笑みを浮かべた。

「お陰様で親から貰ったクソ顔を、ドブ河に全部捨てて来れました!お金は此れからバリバリ働いて全額返します」

「当たり前だ、300万もかかったんだからよ。お前は暫く無給でこき使うぜ。そういやお前、実家に帰ってたんだって?何してたんだよ、ホームシックか?」

俺がそう言うと、洸太郎はまさかと言いながら手を横に振った。こいつはダウンタイムの包帯塗れの顔のまま、堂々と自分の実家に帰っていたのだ。

「家にある僕が写ってる写真、全部庭で盛大に燃やしてきましたよ。あと卒アルと制服と卒業証書も。此れで過去の僕は死にましたので、今の僕は新しい自分です」

その言葉を聞いた瞬間、俺は声を上げて笑ってしまった。俺達は過去のクソみたいな人生を全て灰にして、此れからの為だけに生きて行くのだ。

どうせ俺達全員も、いつか全部燃えて灰になる。人間なんて本当に、只其れだけの生き物なのだ。

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