四十三話裏 それはもしもの一晩
それは燈璃からのお願い。
『一度だけでいいんだ……樹、アタシを抱いてくれ』
本来ならば断らなければならないはずで、それが人として正しいものであるはずだった。
「なーに難しく考えてんだよ」
覚悟を決めて俺を待つ彼女は、既に身を清めて白くフワフワとした衣を身にまとっている。
微笑みながらそっと俺の頬を突きながら悩む俺にそう言った。
「お前がどうしたいのか、それを教えてくれよ。アタシは……嫌か?」
'' こんなところ '' までやってきて、ここで断るのはあまりにも彼女の勇気を蔑ろにしている気がした。
『考えるのは後でいいからさ、とりあえず着いてきてくれないか?二人きりで話したい』
悩む俺は彼女に手を引かれ、とある場所に連れてこられた。それは想いの強さの表れか。
それでも未だに悩むのは、やはり俺の恋人である紗奈さんの存在と、俺の知らぬ '' 燈璃の婚約者"の存在。
燈璃は、お互いに好意は無いと言っているし、紗奈さんも燈璃の気持ちに応えてあげて欲しいと言った。
つまり人としてではなく、俺個人の気持ちを尊重してくれていると、そういう事なのだろう。
正直なことを言えば、俺は彼女との行為を嫌だとは思えない。
むしろ、それは嬉しいことだとさえ……
「あぁもう、じれってぇな」
「わっ…」
煮え切らない俺に痺れを切らした燈璃が、俺の首に腕を回してベッドに倒す。
ベッドの上で二人して寝転がりながら向き合って、彼女の瞳をじっと見る。
「なぁ…嫌なら、断ってくれ」
彼女は潤んだ瞳を向けながら、俺にキスをしてきた。
ここまで拒絶しなかったということは、俺が彼女にずっと期待を持たせ続けたということ。
それは餌を目の前に吊るしながら、ギリギリ届かないところで苦しめることと同義だった。
とても……それは残酷なこと。
ひどくいやらしく、人の心を弄ぶ行為だ。
だから俺は、彼女の気持ちを受け入れた。
薄暗くした一室の中、俺たちはお互いの気持ちを確かめ合うようにその唇を貪りあう。
ただ感情のままに、欲望のままにしたそれは情熱的とさえ言え、そして淫らだった。
「たつきっ、たつきぃ……っ!」
彼女が俺を呼ぶ声はいつもよりひどく妖艶で、まるでねだるように、そして甘えるように繰り返し続けていた。
名前を呼ぶか、貪るかの繰り返し。
まだ衣を纏ったままだというのに、事は既に始まっていた。
「なぁ、もういいだろ……早くっ……!」
燈璃の浮かべる表情は、今の俺にはとても暴力的で蠱惑的だった。ズルズルとその魅力に引き込まれた俺は、身に纏うものを脱ぎ捨てた。
既に清めている彼女の身体を俺の欲望で染め上げて、その汗で汚した。
初めて聞いた彼女の喘ぎはあまりにも妖艶で、普段見ている姿からは感じることのできないほど、その女性らしさを強調していた。
俺たちは確かに、お互いを欲望のままに求めあったんだ。
それは一晩だけの関係で、これで燈璃の願いを果たしたことになる。それが正しいのかは知らないが。
ただ、全てが他人の意見や価値観で回っているわけじゃない。
当事者たちが、自分たちの視点で見続けていたこと。ソレでしか分からない、決められない事もある。
俺はただ、自分の正しさに従っただけだ。
「たつき」
本来であれば使うような関係にはならなかったはずのソレを使い切り、心地よい倦怠感に身を委ねていると彼女が俺の名を呼んだ。
赤く上気した頬、揺れる瞳。そして、甘い声。
それが俺の鼓膜と心を揺らす。
「大好きだ、たつき」
それは告白でもあり、過去の振り返りでもあった。ただその真意は、きっと決別だったのだ。
燈璃にとっての、俺に対するその好意への。
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