さだめの書
鳥羽 架
さだめの書
狭い四畳半の真ん中で、俺こと春樹は、ボロボロの本と向かい合う。
ほんの少し、ほんの少しだけ好奇心に胸を躍らせながら、俺はボロボロの本を開く。
「…は?」
そこには予想だにしない言葉が綴られていた。
話は一時間前に遡る。講義は午前中に終わったので、俺はいつものように大学を出て、なんの気無しに町をうろついていた。
大学というのは、それまでの常識が通用しない場所だと俺は思う。
気さくに声をかけても無視をされ、友達をつくろうにもうまくいかなかった。
髪を茶色に金に染め上げた旧友に置いていかれ、見事ぼっち大学生としてのスタートを切ったわけだ。
でもひとりでいるのは嫌いじゃない。この町の雰囲気に浸り、のんびりと時間を浪費するこの感覚が、時間が俺は好きだった。
「ちょっと。こんなところでからかわないで!」
ヒールの女とぶつかりそうになって、慌てて俺は左に避けた。
カップルが騒いでいる。昼間から。幸せそうに。露骨に、見せつけるように。
「…帰ろ」
ひとりでいるのは嫌いじゃない。ただ、俺は楽しそうな大学生に焦がれる、孤独なぼっち大学生だった。
そんなくだらない鬱憤のせいか、はたまたウザったいカップルのお陰か。俺を哀れんだ神様の仕業か。アパートまでの帰路で、俺はヘンなものを見つけてしまった。
それは、町の喧騒から逃れるように、ひっそりとした路地にあった。
相当年季の入った建物だった。時代に取り残されたかのような古ぼけた外装、立て付けの悪そうな横開きの小さな戸。
なぜ目についてしまったのかもわからない、普通なら一瞥して終わるようなその建物。気分転換がしたかったからだろう。街灯に集まる蛾の如し、俺はその中に足を踏み入れたのだった。
見た目通り立て付けの悪い扉は、鈍い音をたてながらゆっくりと開いた。
ひんやりとした空気、紙とインクの匂い。町の真ん中とは思えない張り詰めた静寂。定食屋か駄菓子屋に見えたそこは、古本屋のようだった。
「…誰もいない」
一人ぐらい客がいてもいいのに。そんなよく分からない思いを抱えながら、俺はもう少しだけこの本屋を覗いてみることにした。
外装に似合わず中は案外広くて、汗牛充棟、本棚にはぎっしりと古書が埋め尽くされている。
俺が本に詳しくないからかもしれないが、背のタイトルを読んでもどれ一つとしてピンとくるものはなかった。奥に進むにつれて埃っぽく感じてきて、俺は顔を顰める。
突き当たり、右に曲がって、
「うおっ」
ギョッとした。
そこには、占い師のものを連想する、やけに背の低い机の前に、笑顔で腰掛ける老人の姿があった。
「…びっくりした」
「びっくりしましたか。いらっしゃい、天命堂古書店へ。」
物腰柔らかな口調で、表情を少しも変えずに老人、天命堂の店主はそう言った。
「ど、どうも」
「何か、お探しの本は。」
「いえ、そういうのではなくて」
「と、申されますと。」
「あ、なんていうか。ふらっと散歩してて見つけた、みたいな」
なんだか緊張して俺はうまく喋れた気がしなかった。老人、と言ったものの案外若いのかもしれない。白髪は一切なかったし、背筋はピンと伸びている。整然とした身なりが、妙な不安感を醸し出し、俺を煽った。
「それはそれは…。偶然の巡り合わせということですね。素敵です。」
「そっすね…」
視線を外し、俺は適当に頷いておいた。
「時に。お客様、何かお困り事はございませんか。」
「は」
思わず聞き返してしまった。口にしてから口調を省みる。
「ですから、何か困っておりませんか。なんだか表情が暗いので。」
「ああ…。いや、大したことじゃないんですけど」
「構いませんよ。話せば楽になることもございますので。」
店主の言葉に、絆されて、というよりかは強いられてるような感覚に陥り、俺は劣等感を吐露した。
慣れない新しい環境への苦悩や、下手な人間関係への嫌気。大学生になって間もないことや、小心者から来る思いをぶつけた。店主は笑顔のまま、じっくりと話を聞いてくれた。誰かに愚痴をこぼしたのは、なんだかとても久しぶりな気がする。
「はぁ…。昔はこんなんじゃなかったんだけどな」
「おや、そうなんですか。」
「そうなんですかって…。まぁ、はい。中高時代は部活も頑張って友達も沢山いて充実してて…」
「なるほど…。ところで、ここは古本屋ですが。お客様、この本を持っていくと良いでしょう。」
突拍子もない店主の一言に、俺はぽかんと聞き入った。しわくちゃの店主の手には、どこから取り出したのか。赤いカバーの、ただし表紙は擦り切れておりほとんど本紙が丸見えなのだが、見るからな古書が鎮座していた。
「急ですね。…どんな本なんですか」
「それは、買ってからのお楽しみ、なんてのはいかがでしょう。きっと気にいるはずですよ。」
「はぁ…」
相変わらずの胡散くさい笑みで、店主がそう語る。本に興味なんて無いし、あまりに唐突な話だったけれど何故か俺は買ってもいいと思っていた。
「ま、買ってもいいですよ。いくらですか」
「お金はいただきません。お客様への贈与でございます。」
「え、タダなんですか」
「はい。」
怪しすぎる。けれど、なんの変哲もない古書だ。変だとは思いつつも、俺はその本を受け取った。
「それではお気をつけて。またのご来店をお待ちしております。」
「…ありがとうございました」
均等な角度で、車のワイパーみたいに手を振る店主に見送られて、俺は書店を後にした。
そんなわけで、アパートの自室に帰った俺は、一見凡庸な、この得体の知れない古書を開くことにしたのだ。
「…どんな本なんだろう」
ほとんど意味を為さない表紙を捲り、更に一枚ページを捲る。
静かな部屋で、紙の擦れる音だけが響く。
「…は?」
そこには、セピア色に聳える、『坂内春樹』の文字。紛うことなき、俺の名前が刻まれていた。
「…は??」
二度目の驚嘆。それくらいには、理解が追いつかない。単なる偶然なのか?それを確かめるためにも、気になる内容を知るためにも、俺はページを捲る。
『未熟児で生まれた春樹は、しっかり者の母親が一人手で育て上げた。幼少の頃は東北の小さな団地で育ち、野球にのめり込んだ』
…絶句する。これは、正真正銘、俺のことだ。この本は俺の話が綴られているのか。
パラパラとページを捲り、三章、と書かれた箇所で俺は手を止めた。
『彼のあだ名であるサカハルは、名字の坂内、名前の春樹から取ったものになっている。これは中学の同級生である御堂克樹が、バンナイ、をサカウチ、(克樹以外ではサナカイとする者も)と呼んだ間違いから付いたものだが、その後定着し、彼は皆から卒業までサカハルと呼ばれ続けた』
「かっちゃん!懐しいなぁ」
久しく聞かなかった文字列に、なんだか涙腺が緩む。同時に、旧友の名前までが記載されていることに、俺は幾らか恐怖を覚える。
複雑な感情を携えて、俺はさらにページを捲る。
『嫌いな食べ物はニンジン。小学生来の、重度な拒否っぷりで、カレーを食べる時はニンジンだけ綺麗に取り除く』
『小学二年生までおねしょをしていた。もっぱら海で泳ぐ夢を見て、目が覚めるとそこは自室のベッドだというオチ。母親にバレないようにこっそり洗濯しようとしたが、当時の彼に洗濯機は扱えなかった。それから一週間は母親に揶揄われる。五月十九日、六月一日など』
『初恋は小学六年生。地域のスポーツチームで野球をしていた時、マネージャーをしていた近所の高南優香、中学二年生。他人から指摘されて本人は否定
を繰り返すが、顔が赤くなるのであっさりバレる。恋に落ちたのは前年の四月二十三日。常に目で追い、彼女が見ている時はバッティング前に帽子を四、五回は被り直す。その後、十一月二十一日、優香が年上の彼氏ができたと噂に聞き、あっけなく失恋する』
「なんだよこれ…」
ページを捲る手が早くなる。自分にしか知り得ない情報が事細かく記されている。
「なんなんだよ!!」
恐怖は増していき、混乱した俺は本を突き飛ばしてしまった。
投げ出した本は五章、と書かれたページを示していた。
『…四月十四日。彼は、大学からの帰り道、偶然天命堂古書店へ立ち寄り、本書を取得。自宅にて試読』
その文章に、俺は息を呑んだ。だってこれは、今俺がしていることだ。なぜ書いてある。そんなことがあっていいわけがない。
『その後、気味が悪くなった彼は本書を捨て、その日は早くに床に入る…』
「そんな」
『四月十五日…』
「そんな、そんな馬鹿な…」
『彼はいつものように大学へと向かい…』
「そんな馬鹿なことがあるか!!」
俺は再び古書を突き飛ばした。混乱は錯綜に変わっていた。俺は頭を掻きむしってうずくまる。
だとしたら、この先に書いてあるのは?
最後のページには、何が書いてあるのか?
そういえば、今日の記述から残りページまで、果たしてどのくらいの枚数があっただろうか?
「…やめよう」
俺は考えるのをやめた。
「なかったことにしよう。こんな本は処分して…」
そこで思い留まる。古書にはこうあった。
『気味が悪くなった彼は本書を捨て…』
もし、違った行動を取ったなら?
「…やってみるか」
俺は底知れない恐怖と、こんな行動への不安と好奇心を胸に、ふたたび天命堂古書店へと向かった。
書店に行くのには、もう一つシンプルな理由もあった。この本は一体全体なんなのか?それを知るには、やはりあの店主に聞くほか無い。
国道沿いを早足で抜けて、大学を横切る。こんな時間に此処らにいるのも、なんだか新鮮だ。
焦燥感に駆られて、俺は訳もなく走った。夕刻を告げるチャイムと、夕焼けが背中を叩く。
長く伸びた自分の影が、なんだか不気味だった。
小道を抜けて、左、右。たしかここを曲がった所に…。
「なんで…」
そこに、天命堂古書店など無かった。いや、むしろ無いだけの方がよかったかもしれない。
そもそもの話だ。あの路地ごと無い。それどころか、他の家屋や店も無い。そこら一体は、
墓地だった。
「俺、おかしくなっちゃったのかな…」
怖くなって、俺は無意味に電話をかけた。相手は、高校の旧友。
結果は、いくら待っても出なかった。
お互い喋らず終いで、大学では顔を合わせるが気まずい関係を保っている、そんな奴に気が引けるけれどかけてみた。
だが、彼も電話に出なかった。
俺は、もうヤケだったかもしれない。普段は連絡をしない、地元の母親に電話をする。今すぐ誰かに泣きつきたい。情けないが、限界だった。
けれど、やっぱり声は返ってこなかった。
その時だった。突風が吹き、脇に挟んでいた古書が、俺の元から滑り落ちた。
なんの因果か。知っている、それもよく読み込んだページを、古書が開く。
『…四月十四日。彼は、大学からの帰り道、偶然天命堂古書店へ立ち寄り、本書を取得。自宅にて試読。その後、気味が悪くなった彼は本書を捨て、その日は早くに床に入る』
文字はぐにゃぐにゃと、尺取虫を思わせる奇怪な動きをし、その場で…
記載が変わった。
『…自宅にて試読。その後、本書に抗うべく彼は記載の無い行動を取り、天命堂古書店を目指す。しかし、そこには当然書店なぞ存在しなかった』
俺はぱくぱくと口を動かすしか無かった。そして、
「気持ち悪い。気持ち悪い、気持ち悪い!」
俺は墓場で独り吠えていた。古書を必死に掴むと、破り捨てようと力を加えた。
しかし、破れない。嘲るように古書はページを変える。
『最終章』
その文字以降、俺の行動についての記載はなかった。
代わりに、
『本書は第四章までが遂行された。推敲を求む。第五章からは、坂内春樹が死ななかった場合のものであることを、ここに示す。尚、最終章に関しては彼の存在に異変が生じているため、現在は記載を無効化している』
と、だけ書かれていた。
俺は、そこで全てを思い出した。
高校三年の冬、いや、大学一年生になる前の春休みと言おうか。中学校の同窓会で夜通し盛り上がった帰り道。
「…春樹ー。わたひ、春樹のことさぁ」
「あぶない!!」
酔い潰れたかつての知人を庇い、俺は死んだ。今思えば災難だった。あんな時間にあんな速度で走る車がいてたまるか。
なんだか、肩の荷が降りたような気がする。大学で無視されるなんて、仕方がないことじゃ無いか。自分の人生が記載された本なんて、怖いはずがないじゃないか。
…だって俺は、死んでいるんだから。
「お疲れ様でした。」
遠くから、聞き覚えのある声が聞こえる。
「そんな訳で、無料で提供させていだだきました。だってこれは、お客様の本ですから。」
礼儀正しい初老の声。
「それゆえに、古書なのですから。」
消えゆく意識の中、俺はそんなふざけた言葉を最後に聞いた。
さだめの書 鳥羽 架 @kakeru_toba
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