第3章 カラスカス帝国

第49話 カラスカス帝国皇帝と愛妾(1)*

(※ このエピソードは2024年12月に追加しました)


 闇の中に松明の明かりが灯り、タイル張りの回廊がぼんやりと浮かび上がっている。


 勝手知ったる足取りで、一人の美丈夫が回廊を歩き、ひとつ、またひとつと点在する建物の前を通り過ぎていく。


 立派な建物はもうなく、小さな建物が並ぶ一角にまで入り込んだ。


「スティラ。起きているか」


 返事も待たずにドアを開けると、家具も少ない、こじんまりとした部屋が現れた。


「陛下」


 室内に一人でいた女は立ち上がると、深々と床の上にひれ伏した。

 黒く、豊かな巻毛が流れるように動き、女の顔を覆い隠した。


 その前を、慣れたふうに美丈夫は通り過ぎ、ベッド脇にある椅子に腰かけた。

 黒い髪に黒い瞳。

 室内の明かりで見ると、男は細面の、整った顔立ちをしていた。


 カラスカス帝国の若き皇帝、アルセスである。


「スティラ、ロズマリーナから手紙が来ている」

「陛下」


 アルセスは絹の上衣の懐から封筒を取り出すと、女に差し出した。

 ようやく、スティラが顔を上げた。


「先日、5歳を迎えたそうだな。歳のわりに賢く、勉強も順調に進んでいるとか」

「ありがとうございます。陛下のおかげでございます」


 ロズマリーナはスティラの娘。皇帝の後宮に入る前にもうけた子どもだ。

 父親はわからない。


 スティラはただじっと、カラスカス帝国皇帝を見つめた。


 床の上に正座するスティラが着ているのは、立ち襟で作られた、絹のドレス。

 美しい刺繍が施されてはいるが、大国、カラスカス帝国の皇帝の愛妾達が暮らす後宮の中で、そのドレスはあまりに簡素すぎ、あまりに地味なものだった。


 その一方、スティラの容貌は際立ったものだった。

 飾りのない、質素な造りの室内に、まるで大輪の牡丹の花が咲いたような華やかさ。


 目を引く白い肌。ほとんどが黒目のような、驚くほど瞳が大きい印象的な目。

 小柄な体は胸と腰が豊満で、黒い豊かな巻毛は長く、異国の踊り子のようだった。


「ドゥセテラ王国の一番美しい王女に結婚を申し込んだ」


 スティラは再び平伏した。


「お心のままに」

「しかるに、スティラ。今、私の寝室の隣に皇后の部屋を急ぎ整えさせている。そなたはそこに移るのだ」


「!?」


 スティラはアルセスの意図がわからず、ただ目を見開いた。


「ドゥセテラ王国の第一王女フィリス・ノワールが、まもなくやって来るだろう。もっとも美しいと評判の第四王女ブルーベルを退けてな。スティラ、そなたの役割は、フィリスを叩き潰すこと」


 アルセスは小さなテーブルの上に用意されていた茶器に手を伸ばす。


 失礼いたします、とスティラが断って中腰になると、ポットから茶碗に茶を注いだ。


「スティラ。後宮の頂点に立つ時が来たのだぞ? 少しは嬉しそうな顔をしないか。そなたはいずれ、私の妻になるべき女ではないか?」


 しかしスティラは皇帝の甘い言葉にも、表情ひとつ変えなかった。

 大きな、底なしの沼のような黒い瞳で、じっとアルセスを見つめる。


「なぜ、わたくしを? わたくしは卑しい平民の女でございます」


「私が求めるのは、強い妃。目の前で皇帝が殺されても表情ひとつ変えず、平気で帝位簒奪さんだつ者の妻となり、堂々と前皇帝の子どもを産み育て、いずれは帝位につける。そんな女が必要なのだ」

「は……」


 アルセスはスティラの腕を引いて、その体を抱きとめた。


「皇帝の血統は絶やしてはならぬ。それが皇帝の仕事。そして妻となる女は、強い女でなければならない。身分などどうでも良い。が、平民の女を皇后にすることが難しいのも事実だ」


 アルセスとスティラの黒い瞳が見つめ合う。


「そのためにドゥセテラの王女と結婚する。あのフィリス・ノワールという女も、悪くはない。しかし私はそなたが良い、なぜかわかるか?」


 アルセスはスティラの背中を上から下へ、下から上へと撫でる。


「あの美しい、賢い王女は打たれ弱いのだよ。赤ん坊の頃から皆に大切にされ、その美貌を、その賢さを讃えられて育った。そんな女は、苦境を知らぬ。誰かに反撃されれば、まるで柳の木のように震えるだろう。だが、おまえは違う。スティラ。おまえは実の父に利用され、あまたの男達に利用され、それでも生きてきたのだろう? 泥まみれになっても、生を諦めない。泥をすすっても生きていける女が、私には必要なのだ」


 それは、ある意味アルセスの本音でもあった。

 自分には、命のかたまりのような、身分はなくとも泥臭く生きていける女が必要なのだ、と。


「一度立派な王女と結婚してしまえば、私は自由だ。その後離婚したとしても、口やかましい忠臣達でさえもはや血統のよい王女をあてがうのは諦める。たとえ愛妾を皇后にしようとも、文句は言わせぬ」


 アルセスはスティラの顔を覗き込み、熱心に訴えた。


「スティラ、私について来い。皇后になれ。私の子を産め。もし、私が殺されたら———」


 アルセスは、言葉を止めた。

 それは、仮の話としても、縁起のいい話ではない。しかし。


「あとは自分で決めよ。簒奪さんだつ者の妻になるもよし。男を退けて自ら女皇帝になってみるか? あるいはロズマリーナのところに身を寄せるのも良い。あそこには万が一のことを考えて、必要な人間も、多少の資産も置いている。ただひとつ、いずれの道を取るのせよ、私の子を守ってくれ。それがおまえから私への支払いだ」


「それで、陛下はわたくしに何を望んでいらっしゃいますか?」


 アルセスは笑う。


「さっきも言った。フィリスを追い出せ」


スティラは頭を垂れた。


「フィリス王女殿下には、はるばる我が国まで来られ、そして追い出されて。何の利がございましょう?」


 スティラの言葉に、アルセスは破顔した。


「フィリスにはいずれ、ドゥセテラに戻ってもらわねば困る。なぜなら、フィリスはドゥセテラの女王になるべき女だからな。密偵を送って調べたが、あれほどドゥセテラのことをわかっている人間はいない。まあ、もう少し苦労せねば、その気にはならぬだろうが」


「ひどい言いようのように聞こえます」


「私が殺されたら、とは言ったが、そうそう簡単に殺される気はないぞ。私の望みは帝国の領土を広げることだからな。若い頃に関わりのあった女がいる国はのちに役に立つ。将来どこで何が役に立つか、わからぬもの。そして、この仕掛けにはそなたの協力がいるということだ」


 スティラは瞬いた。


「全員に利があるとおっしゃる。それが陛下のお望みなら……王女殿下のプライドを、折って差し上げましょう」


 スティラの言葉に、アルセスは目を細めた。


「存分にやれ。そなたには最高の部屋を用意しよう。最高の衣装、最高の装身具、最高の召使いも用意してやる。生まれた時から権勢を振るっているような、愛妾になれ」


 スティラはアルセスの膝から降り、深々と頭を下げた。


「皇帝陛下、心して承りました」

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