第50話 カラスカス帝国皇帝と愛妾(2)

「フィリス様、ご不快なところはありませんか?」


 ドゥセテラ王国第一王女フィリス・ノワールは、お気に入りの侍女と共に豪奢ごうしゃな馬車に乗り込んだ。


 フィリスの手まわりの品物を持った、侍女アテナはゆったりとした馬車の中で、フィリスが居心地良く過ごせるように、あれこれ気を配る。


 豪華な宝飾品を入れた手提げ金庫は、座席の下に収め、道中につまむクッキーや、乾燥させたレモン片、びんに入れたレモン水はバスケットに入れて、床の上に置いた。


 手鏡や化粧品、ストールなどは別のバスケットに入れて、向かいの座席に置く。


 アテナが小さなクッションを抱えると、フィリスは黙ってうなづいた。

 さっと手際よく、アテナはクッションをフィリスの背中に差し込んだ。


 フィリスは旅行用の、スカート丈が短いドレスを着ていた。

 それは、お気に入りの”赤”。

 深い赤色のドレスの装飾は控えめだったが、その代わり、大粒のエメラルドをあしらったイヤリングとネックレスがキラキラと輝き、フィリスを飾っている。


「本日のお召し物も本当によくお似合いで、とてもお美しいですわ」


 うっとりとしてフィリスを見つめるアテナに微笑みかけると、フィリスは言った。


「もう、カーテンを閉めていいわ」


 フィリスは、窓から顔を背ける。


「日差しがきついの。外の景色はもういいから」

「はい、フィリス様」


 アテナは馬車の小さな窓に、きちんとカーテンを下ろした。

 フィリスはこれから、母国であるドゥセテラ王国を離れ、顔を合わせたこともない、カラスカス帝国の皇帝の元へと嫁ぐ。


 窓からは、次第に小さくなるドゥセテラ宮殿が見えていたが、フィリスはすでに目を閉じていた。


「カラスカス帝国は、ドゥセテラとは比較にならない、大国よ。そしてわたくしは皇帝の正妃になるの。ドゥセテラにはもう戻ることもないでしょう」


 フィリスの艶やかな長い黒髪は、旅行ということで、邪魔にならないように結い上げられているため、普段よりも大人っぽく見えた。


 カラカラ、という馬車の車輪が回る軽快な音が響く。


 外は快晴。

 それはフィリス王女の明るい未来を象徴するかのような、素晴らしい天気だ。


 フィリスと共に帝国に向かう侍女は十人、騎士は三十人以上。

 さらに道中の食事を作るコックが、二名、水汲みや洗い物などを担当する召使いは三名、同行する。


 きらびやかなドレスや装飾品、布地、小物、家具などの嫁入り道具を詰めた馬車は十台。

 それに旅の間に必要な品物を載せた馬車が五台。


 馬に乗った騎士に守られた、長い行列が続く。


 フィリスは豪奢ごうしゃな馬車に、お気に入りの侍女と共に乗り込み、意気揚々と帝国に向かうのだった。


 * * *


 フィリスを載せた馬車は、それから三週間後、カラスカス帝国の帝都にある、ディアスポラ宮殿に到着した。


「フィリス様、見えてまいりましたわ……!」


 侍女のアテナが、興奮して声を上げる。


 長い旅を経て、ようやくフィリスの前に見えてきた、カラスカス帝国のディアスポラ宮殿は、大きな湖を望む、崖の突端に建てられた壮大な宮殿だった。


 ドゥセテラ宮殿とは、全く異なった建築様式。


 湖の青と、森の緑の中に、銀色に輝く細い尖塔や丸いドーム型の屋根が見える。

 白大理石が貼られた宮殿の外壁がよく映えていた。


 フィリスの乗った馬車が、正門の前で停まった。

 そこには、同じような衣装を身に付けた男性が十人ほど、一列に並んでいた。


「ドゥセテラ王国第一王女、フィリス・ノワール・ドゥセテラ殿下、遠路はるばる、ようこそお越しくださいました」


 馬車の扉が開き、フィリスが馬車から降りると、一列に並んだ男性達に、恭しい様子で迎えられた。


 黒いまっすぐな髪を背中で一つに結んだ、いかにも、文官、といった雰囲気の男性が一人、進み出る。

 紺色の絹刺繍が入った、長袖の衣装は、くるぶしに届くほど長い。


「私は、皇帝陛下のご命令で、姫君をお迎えに上がりました。イライと申します」


 イライは両手を合わせ、深々と礼をした。


「ご到着されてすぐではありますが、皇帝陛下がお待ちです。お着替え、お支度を整えていただいた後、正式な婚姻の契約書にご署名いただきます」


 フィリスは一瞬、目を見開いたが、ゆっくりとうなづいた。

 正式な婚姻。

 望むところではないか。


「わかりました」


 イライもまた、うなづいた。


「それでは、早速お部屋にご案内いたします。皇帝陛下のご命令により、侍女を一名のみ、お連れください。騎士は一名のみ、こちらで待つように。その他の人間は全て、ドゥセテラに帰っていただきます」


「なんですって?」


 フィリスは声を上げた。

 しかし、侍女のアテナがそっとフィリスの腕を押さえる。


「フィリス王女殿下。……ここで話してもらちが明かないでしょう。皇帝陛下に直接、お願いしては」


 フィリスは不満げだったが、渋々了承した。


「わかりました。部屋へ案内しなさい」

「仰せの通りに」


 イライは表情のない顔で、フィリスを見つめ、そして視線をそらした。

 イライに案内されて、正門をくぐるフィリスとアテナを、一列に並んだ男性達が、無言で様子を見守っていた。


 * * *


「ドゥセテラ王国第一王女、お美しいフィリス・ノワール・ドゥセテラ殿下、遠路はるばる、ようこそお越しくださいました」


 案内された部屋に入ると、そこには紺色の衣装を身に付けた年配の女性が待っていた。

 両手を胸の前で合わせ、フィリスに恭しくお辞儀をする。


「わたくしは姫君の女官長を務めます、イルメリアと申します。このディアスポラ宮殿での姫君の暮らしは、全てこのわたくしが取り計らいます。どうぞ何でもわたくしにおっしゃってくださいませ」


 そう言って再び、恭しく頭を下げるイルメリアだったが、フィリスはなぜか、心がざわり、とするのを感じた。


 全て取り計らう。

 つまりは、お前は何もするな、ということ。

 全ては自分を通せ、と言っているのだろうか……?


 フィリスはイルメリアを凝視したが、イルメリアはひるむことなく、フィリスを見つめ返した。


 カラスカスの人々は、黒髪に黒い瞳の人々が多いようだ。

 女官長だという、このイルメリアもまた、黒髪黒目。

 そして、表情の読めない上品な顔を、無言でフィリスに向けている。


「そう……わかりましたわ。あなたの働きを期待しています」


 フィリスがそう言うと、イルメリアはお辞儀をして、フィリスを部屋の奥へと連れて行く。


「早速ではございますが、お召し替えをいたしましょう。寝室、浴室はこちらに。お衣装部屋はこちらにございます」

「待って、わたくしの荷物はまだ、馬車に載っているわ。部屋には届いていないでしょう」


 フィリスが指摘すると、イルメリアは何とも言い難い表情で、フィリスを見つめた。


「お衣装は全て、ご用意してございます。お国のご衣装では、皇帝陛下に対して失礼でございます。これからは、カラスカスの衣装をお召しなさいませ。それと」


 イルメリアはフィリスが着ている、赤いドレスを見た。


「最初に申し上げておきますが、姫君が赤のお衣装を着ることは、許されません」


 しん……と部屋の中は静まりかえっている。

 フィリスは侍女のアテナとともに、呆然として、立ち尽くしていた。

 やがて気を取り直して、厳しい表情になると、イルメリアを睨みつけた。


「言っておくけれど、あなたなんかに、わたくしが何を着るべきか、着るべきでないか、指図する権利はないわ」


 イルメリアは、この時、初めて、うっすらと微笑んだ。


「わたくしが、ではございません。偉大なる皇帝アルセス陛下の、お美しいご愛妾、スティラ様のお色が、赤、なのでございます。そう、スティラ様がお決めになりました。この宮殿では、赤を着る者は誰一人として、おりません」


 フィリスの顔が真っ赤になった。


「わたくしは、その皇帝アルセス陛下の正妃にと招かれて来た、ドゥセテラの第一王女なのよ!? そんな愛妾だか愛人だかわからない女の命令は一切聞けないわ」


 イルメリアは室内を見回して、中で控えていた侍女や騎士全員を退出させた。

 そして、気遣わしげな表情を浮かべる。


「姫君、だからこそ、わたくしがここにいて、姫君をお助けしているのでございますよ。この話を、他の者に聞かれては、御身が危険になります。よろしいですか、ドゥセテラ王国第一王女、フィリス殿下」


 イルメリアは黒い瞳でじっとフィリスを見つめた。


「たとえ、あなたが正妃になったとて、変わりません。あなたのご身分は、永遠に、スティラ様の下。まだわかりませんか? スティラ様は皇帝陛下の全てのご寵愛を欲しいままにしておられます。皇帝陛下はあなたを愛することなどありませんし、あなたの方が、スティラ様の寛大なお心を期待するしかない存在なのですよ」


 そう言うと、イルメリアはすっ、とフィリスから離れた。


「わたくしがいると興奮されて、お召し替えもはかどらないでしょう。他の者を呼びますわ。お支度をすぐに整えなさい。皇帝陛下をお待たせすることのないように」


 そのまま振り返ることなく、部屋を出ていく。

 大きな扉が、まるでフィリスの望みを断つように、パタン、と閉まった。

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