第51話 カラスカス帝国皇帝と愛妾(3)
「ドゥセテラ王国第一王女、フィリス・ノワール・ドゥセテラ殿下のご到着でございます」
カラスカスの衣装に着替えたフィリスは、謁見の間の前に立っていた。
背後に付き添うのは、侍女のアテナではなく、女官長のイルメリアだ。
彼女からは好意を少しも感じることなく、ただ、監視されている、という感覚のみが伝わってくる。
大きな両開きのドアが開き、フィリスは奥に見える玉座に向かって歩き始める。
フィリスが着ているのは、淡いピンクのカラスカス風のドレスだった。
(こんな色、自分でなら決して選ばないわ)
フィリスは自分が望まない衣装を身に付けている、ということに怒りを隠しきれないでいた。
立ち襟で、体の前面に、ずらりと一列に飾りボタンが並ぶ。
複雑な金刺繍が施された絹のドレスは重く、スカート部分の膨らみも小さいので、慣れないフィリスにはいささか歩きにくかった。
男性の衣装も形はそれほど変わらないが、くるぶし丈の上衣の下には、異素材のトラウザーズを履いているようだった。
足元は男女とも、絹のフラットな靴。
フィリスは誇り高く、頭をしっかりと掲げながら、皇帝の前に進む。
玉座には、一際豪華な衣装を身に付けた、まだ年若い男性が座っていた。
色白の肌。
ほっそりとした顔。
カラスカス人らしい、黒のまっすぐな髪と黒い瞳。
(思っていたよりも、お若い……)
フィリスは皇帝はまだ二十代半ばではないか、と思った。
細い鼻筋。
切長の目。
唇は薄く、全体に、美形と言ってもいいほど、上品で整った顔立ちだ。
「カラスカス帝国皇帝アルセスである。ドゥセテラ王国第一王女、フィリス・ノワール・ドゥセテラ、そなたを歓迎しよう。まずは、結婚契約書に署名を」
玉座は一段高いところにあり、皇帝とフィリスの間には、
イライが小卓の上に書面を二枚、広げ、フィリスの手を取って、その前に立たせた。
「王女殿下、ご署名を」
フィリスはイライを見上げ、玉座の上の皇帝アルセスを見た。
次の瞬間、フィリスは皇帝の背後に立つ、一人の女性の姿に気づいた。
まるで血のような、真っ赤なドレスを着た若い女。
小柄なのに、胸元と腰が目を引くほど豊かなのが、禍々しいようにすら見える。
白く透き通るような肌をし、大きな目は、異様なほど、黒い瞳が大きい。
(この女が、愛妾スティラ)
フィリスは青ざめながらも、スティラの顔から目を離せなかった。
それほど、スティラの顔立ちは美しかった。
印象的なのは、豊かに流れる、黒髪の巻毛。
額に付けたルビーの宝冠で髪を押さえているが、くるくると巻き上がった黒髪は、スティラが身動きするたびに、自由奔放に揺れる。
スティラの黒い瞳がまっすぐにフィリスに注がれ、赤い唇が吊り上がった時、フィリスはスティラが隠そうともしない悪意を感じ取った。
それでも、フィリスは震える指先を押さえ、二枚の書面に署名をした。
イライが書面を受け取り、皇帝の下に運ぶ。
皇帝は無造作に名前を二回、書き殴った。
「フィリス。これで、そなたは正式に我が正妃となった。結婚式は三日後。準備をしておくように。それから」
皇帝は背後に立つスティラの細い手を引くと、玉座の脇に立たせた。
彼女の腰を引き寄せ、ゆっくりと、上から下、下から上へと、撫でさすった。
「この者は、我が愛妾、スティラと申す」
フィリスは皇帝の前に立ち尽くしたまま、じっと二人を見つめていた。
スティラの大きな黒い瞳が、無言の威圧を込めて、フィリスを見つめ返す。
「お前の国では、美が何よりも大切なのだったな。どうだ? 我が愛人は、美しいだろう?」
皇帝は機嫌よくフィリスを見て、答えを促す。
「は……い。陛下のおっしゃる通りでございます」
美しいだろう、と問われ、否定できなかったフィリスは、苦しげに言葉を紡いだ。
「なら、自明のことだが。そなたは正妃、だが————全てにおいて、スティラに従え。なぜなら、スティラの方が美しいのだから」
フィリスは、まるで頭を殴られたかのような衝撃を受ける。
正妃ではあるが、愛妾に従えと?
————愛妾の方が美しいから、と?
「お、恐れながら陛下! わたくしは! それには納得致しかねます。スティラ様は確かに、お美しいお方。しかし……!」
「黙れ」
皇帝が、氷のような声を出した。
心底、軽蔑したとでも言うかのように。
「皇帝に反論することは、許さぬ。愚かにもスティラを愚弄することも、この私が許さぬ。そなた。顔だけは美しいが、それだけだな。心が冷たい女だ」
皇帝は即座にフィリスへの関心を失ったかのように、居並ぶ大臣達の方を向いて話し始めた。
「この者の荷物は部屋に入れ、好きに過ごさせれば良い。しかし、ドゥセテラの服を着ることは許さぬ。カラスカスの衣装を着せよ。さらに、赤はスティラの色であるゆえ、一切の赤色を使用することを禁じる。侍女一人、騎士一人だけ、帝国に残ることを許す。他の者は国に送り返せ」
「ははっ……!」
大臣達が即座に部下に指示をする声が響く。
フィリスはただ一人、謁見の間に立ち尽くしたまま、何もすることができない。
「そもそも、一番美しい王女をよこせ、と告げた時点でわかっておったのだ。やって来る者は、美しい顔立ちにしか価値のない、心の貧しい、愚かな女であろうと。おまけに」
夫となった男の言葉に打ちのめされ、大国カラスカスの皇帝に嫁ぐ、というフィリスの矜持と淡い期待が、ガラガラと崩れていく。
「……黒髪に黒い目か。ドゥセテラらしさが
皇帝は、フィリスをじっと見つめた。
「それに、そもそも、私は一番年若い王女、ブルーベルが良かったのだ。まさか、あのような事故に遭うとは、彼女も気の毒に……それとも何か、フィリス・ノワールよ。闇魔法を操るそなたには何か策があったのか……。イライ。例の物を」
「はっ」
イライは紫色の布で包まれた何かを持って、フィリスの下にやって来た。
「付けよ」
「はっ」
イライは素早くフィリスの右腕を取ると、何かを素早くカチリ、とはめた。
「離して!!」
フィリスは慌てて身をよじるが、すでに遅かった。
フィリスの右手首には、赤い石の付いた腕輪がはめられていた。
「それは、魔力封じの腕輪だ」
皇帝がそっけなく言った。
「そなたは何をしでかすかわからん。スティラに害をなすとも限らないからな。それを付けておけ」
「陛下!!」
そう言い捨てると、カラスカス皇帝アルセスは、愛妾スティラを伴って、謁見の間を退出した。
フィリスの体が震える。
かつて、フィリスがブルーベルにしていたことが、全てそのまま、自分に返ってくる。
フィリスはブルーベルの言葉など聞こうとしなかった。
話しかけられても、堂々と無視をした。
ブルーベルを美しい、という人々には、我慢ができなかった。
離宮に追いやられたブルーベルに同情もせず、これ幸いと悪い噂も流した。
ブルーベルの待遇が悪いのを、喜びを持って眺めていた。
そして、ブルーベルが持っていた美しさを、奪ったのだ。
フィリスは理解した。
一番美しい者が、全てを得る。
しかし、その根拠は、なんと曖昧なものなのだろう。
本当の美しさって、何?
黒髪黒目は珍しくない、というだけで価値が落ちる。
実際は、力があるものが、勝つ。
ここでは、自分が弱者。
自分が嘲笑の対象となるのだ、と。
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