第52話 屈辱の結婚式
鏡に映った顔は、どこか、他人のように見えた。
カラスカスの伝統だという、黒の絹地に華やかな金刺繍で刺繍が施された、結婚衣装。
立ち襟から、胸元にかけては大きく花の意匠が刺繍されていた。
フィリスの艶やかな髪は丁寧に結い上げられている。
その耳には、ドゥセテラから持参した、エメラルドの耳飾り。
故国の衣装を着ることを禁じられたフィリスにとって、大切な耳飾りを付けることができたのは、数少ない悦びになった。
「姫君、目をお閉じください」
フィリスに化粧を施しているのは、女官長のイルメリアだ。
ドゥセテラから連れてきた、お気に入りの侍女、アテナは何をするにも、イルメリアの許可を得なければならなかった。
結婚式の化粧も、カラスカスの伝統はご存知ないでしょう、とイルメリアにあっさりと押し切られ、今こうして、彼女の手で施される化粧を、フィリスは受けている。
仕上がった顔は、カラスカス風の化粧のせいで、フィリスにはまるで別人のように感じられた。
眉も、目のラインも直線的で、唇の色は赤すぎる。
それでも、文句を言うことが許されないフィリスは、黙って立ち上がった。
イルメリアに付き添われて、妙にしん……としている宮殿内を歩く。
各建物をつなげる、タイル張りの回廊が延々と伸びている。
広大な宮殿の西翼には、皇帝のための私室、皇帝の母である、先皇后の私室など、皇帝とその家族のための居住空間が無数に作られている。
皇帝の私室の隣にある部屋は、正妃のための部屋と思われた。
しかし、フィリスが案内された部屋は、そこではなく、中庭と池を挟んだ離れに作られた部屋だった。
「イルメリア、あのお部屋は空いているの? それとも、どなたかが?」
侍女が出入りし、確かに人の気配があるその部屋をフィリスが指を指すと、イルメリアは視線を合わすことなく、淡々と答えた。
「愛妾スティラ様のお部屋でございます」
イルメリアはそれ以上の説明をすることもなく、黙々と歩き続ける。
「こちらでございます」
イルメリアが合図をすると、建物を警備していた衛兵が頭を垂れ、入り口に待機していた文官がしずしずと扉を開ける。
その中では、豪華に飾り付けられた祭壇を前に、深紅の衣装を身に付けた皇帝アルセスが待っていた。
(深紅……!?)
フィリスはその瞬間、まるで雷に打たれたような衝撃を感じる。
(婚礼衣装は、夫婦でお揃いだと聞いたわ)
自分が着せられたのは、黒の衣装。刺繍こそ華やかな金刺繍が施されているが、黒、である。
しかし、皇帝は婚礼の場にふさわしい、華やかな深紅の衣装に身を包んでいた。
「フィリス様」
アルセスの部下であるイライが、イルメリアからフィリスの手を受け取り、恭しく皇帝の隣の席へとフィリスを誘導する。
フィリスは無言だったが、自分の顔が青ざめるのを感じた。
アルセスと並んで席に着くと、アルセスの右側から、フィリスをじっと見つめる愛妾スティラの姿が見えた。
うねうねとまるで蛇のように揺れ動く黒の髪。
フィリスをじっと見つめる、異様なほどに黒目勝ちな目は、まるで冷たい黒曜石のようだった。
そしてスティラの衣装。
それは明らかに、皇帝と揃い。
スティラの色だという、赤一色の、衣装だった。
祝いの言葉を長々と述べる忠臣達の声をよそに、皇帝アルセスはフィリスにだけ聞こえるような声で、ささやいた。
「覚えておけ。スティラを万が一にでも、傷つけるようなことがあれば、容赦はしない。それに」
アルセスは初めて、その黒い瞳で、フィリスをじっと見つめた。
「たとえ正妃にしたとしても。お前を愛することはない」
フィリスはアルセスと見つめ合いながら、かすかに唇が震えるのを、止めることができなかった。
二人の前に、金色に塗られた杯がふたつ、差し出された。
「飲め」
アルセスが自分の杯を持ち上げ、フィリスの口に押し当てる。
流し込まれる酒を、フィリスは慌てて飲み下したが、間に合わなかった。
うつむいて、必死に咳き込みをこらえる。
「私にも飲ませるのだ」
焦れたようにそう言われ、フィリスはカタカタと震える指先で杯を持ち上げると、アルセスの口に持っていった。
アルセスはフィリスの指先を痛いほどにつかむと、そのまま杯をあおった。
そして、言った。
「初夜の用意をしておけ」
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