第59話 カラスカス帝国皇帝はたくらむ(2)

 アルタイスを臨む港がある一帯には、強い風が吹いていた。


 港、といっても、船は一隻も停泊しておらず、人の気配もない。

 海は荒れ、その向こうにあるというアルタイス島は、おぼろげに島影が見えるだけだった。


「フィリス、お前の役目はわかっているな?」


 感情を一切感じさせない、冷たい声がして、フィリスは振り返る。


 強い風に、結い上げた黒髪はばらばらに崩れ、着ているドゥセテラのドレスはたっぷりとしたスカート部分が風にはためき、ひどく場違いな姿に見えた。


 きれいに化粧したフィリスだったが、その顔は青ざめ、口紅を塗った唇だけが、妙に赤い。


 車輪を付けて運んできた小型の船を、兵士達が海に移動させている。


 その様子を横目に、カラスカス皇帝アルセスが、フィリスを見つめていた。


「大切な妹に会いたい、と言え。お前の妹は、アルタイスの王弟に嫁いでいるんだろう。会って、謝罪をしたい、と訴えるんだ。泣きながらな」


「な……っ! そんなことは、しないわよ!? どうして、わたくしが、ブルーベルなんかに謝ると?」


「アルタイスに入り込むためだ。それくらいもわからないのか?」


 顔を真っ赤にして否定するフィリスに、アルセスは面倒くさそうに答えた。


「何よ、大体、アルタイスなんて、辺境の蛮族じゃないの。そんなアルタイスを欲しがるなんて、あなたはどうかしている」


「アルタイスは辺境の蛮族ではない。それは確かだ。お前も、ドゥセテラ王国も、愚かなのは変わりないな。アルタイスは……まあいい。お前の役目は、妹をアルタイスから連れ出すことだ。もういい、行け」


「陛下!!」


「忘れるな? もし、成功したら、お前を名実ともに唯一の『正妃』として遇しよう」


 アルセスは、フィリスの頬に触れる。

 そのまま、アルセスの指先は、フィリスの唇に、触れた。


「お前は、スティラの上に、立てるのだぞ?」


 生気のなかったフィリスの黒い瞳が光を帯びた。

 無言で、フィリスが歩き出す。

 フィリスはそのまま、船に乗り込んだ。

 船は、深い霧に包まれた海を、ゆっくりと進み始めた。


 アルセスは急に深くなった霧に、船が呑み込まれるのを、黙って見守った。


「陛下、フィリス様は無事に島内に入れるでしょうか? 過去には何人もの兵が二度と戻ってきませんでした」


 不安げなイライに、アルセスはあっさりと、「さあな」と返した。


「アルタイスは、わけのわからん国だ。誰もあの島に入ったことはない。島にたどり着かず、延々と船を漕ぎ続けるはめになったり、急な嵐に船を沈められたり。時代錯誤な伝説が生きている場所だ。おそらく魔法が発達している国なのだろうが……私は遠い昔に、アルタイス産だという、見事な鉱石を見たことがあるのだ。あの島には、何かが、ある」


 アルセスは呟いた。


「何、心配することはない。ちょっと足を伸ばしただけだ。偵察みたいなものだな。失敗しても、我々は失うものは何もない。フィリスは凡庸な人間だ。それでも、もし……」


 アルセスは、すっかり姿が見えなくなった船を探すように、視線を左右に向けた。


「もし、ブルーベルを連れて来れれば、面白くなるぞ? ブルーベルはドゥセテラの四王女の中で、一番美しいとささやかれていた姫君だ。顔の半分が仮面で覆われているそうだが、それがどうした。半分は美しいままだし、その体も素晴らしいものかもしれないではないか。おまけに、あのドゥセテラでさえ、滅多にいないという、銀色の髪に、青紫色の瞳の持ち主だ。そばに置いておけば、皇帝の玉座に華を添えてくれる」


 アルセスはふふ、と笑う。


「それに、アルタイスとの取引に使う、いい材料になる。イライ」

「は」

「二十四時間だけ、フィリスを待つ。それまでに戻って来なければ、我々は引き上げるぞ。そう皆に伝えておけ」

「かしこまりました。もし、アルタイスから攻撃された場合はどうしますか?」


 アルセスは草原の中に張られたテントへと歩いていく。


「即座に撤収する。そのための準備は怠るな。これは気晴らしだ。リスクは犯さない」

「かしこまりました」

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