第58話 カラスカス帝国皇帝はたくらむ(1)

「ブルーベル!」


 緊張感をはらんだ声に、庭にいたブルーベルは、ぱっと反射的に立ち上がった。

 屋敷から、アルヴァロが急ぎ足でやってくるのが見えた。

 アルヴァロは騎士団のチュニックにマントを身に付け、腰にも剣を下げている。


 幅広のベルト、革と細かい鎖を組み合わせた防具を身に付けている。


 礼装用ではない、実戦を控えた装いだ。

 どくん、とブルーベルの心臓が嫌な音を立てた。


「アルヴァロ様!」


 ブルーベルも駆け出して、アルヴァロの前に立つ。


「ブルーベル、緊急事態が発生した。私は今からすぐに王城にある騎士団本部に戻る」


 ブルーベルは大きな目を見開いて、アルヴァロを見つめた。


「アルタイスを臨む大陸の港に、武装した兵団が現れた。詳細はまだ不明だ。場合によっては、私も国境線に向かうかもしれない」

「アルヴァロ様……!」


 アルヴァロはそっと、ブルーベルの肩を抱き寄せた。


「心配するな。アルタイスには何重にも魔法で結界がかけられている。幻惑魔法も施されているし、そう簡単に攻め入られることはない。しかし。何かが起こっていることは確かだ。ブルーベルは決して屋敷から出ないように。ビヨークは私と行動を共にする。この屋敷には騎士団から追加で騎士を送り、警備に当たらせる」


 アルヴァロはブルーベルに言い聞かせるように、ゆっくりと話す。


「屋敷のことは、ローリンに任せてある。ローリンの言うことに従うように。屋敷からは一歩も出るな。ミカから離れるな。あなたにはユニコーンもいる。いいね? 心配しないように」


「で、でも。では、アルヴァロ様は……?」

「私は緊急事態には慣れている。大丈夫だ」


 そう言うと、アルヴァロは婚約指輪のはめられたブルーベルの指先にキスし、ちょっと迷ったが、そっとブルーベルの顔に手を触れると、初めて、ブルーベルの唇にキスをした。


「アルヴァロ様」

「私が心配しているのは、あなたのことだけだ。くれぐれも、危険なことは、しないように。いいね」


 そう言うと、アルヴァロは、そのまま急ぎ足で屋敷の前で待つビヨークと合流した。

 すぐに、二頭の馬が駆ける音が、遠ざかっていった。


「ブルーベル様!」


 ミカの声がする。


 屋敷に戻らなければ。

 そう思いながらも、ブルーベルは動くことができなかった。


「ブルーベル様、アルヴァロ様の言葉を聞きましたね? 大丈夫です。アルヴァロ様の指示に沿って、お過ごしください。じきにお戻りになるでしょう」


 その時、庭師の老人が、そう言って、ブルーベルに向かってうなづいた。


「さ、屋敷の中にお入りください。庭は大丈夫です。あとは私がやっておきましょう」


 そう言うと、優しく、ブルーベルの背中を押した。

 ブルーベルは、ようやく魔法が解けたかのように、屋敷に向かって、ゆっくりと歩き始めた。


 * * *


 ブルーベルは屋敷に戻って、長い午後を過ごしていた。

 カチ、カチ、と時計の音が静かな邸内にやけに響く。


 アルヴァロが王城に行った後、ブルーベルは言われたように屋敷内に戻り、庭にも出ることはなかった。


 ミカが早めの昼食を用意してくれたが、あまり食べることができない。


「無理もありませんわ」


 ミカが同情を込めた視線を向けながら、残ったものを下げてくれた。

 ブルーベルのために、食後のお茶を入れてくれる。


「他国の軍が姿を現すなんてこと、滅多にないのです。でも、アルヴァロ様がおっしゃったように、この国の守りは万全です。この屋敷も、非常事態への備えはありますから……今は、なるべくいつも通りに過ごすように、してみましょうね」


「ええ、ミカ。頭ではわかっているの。でも、アルヴァロ様は、騎士団長だわ。何かあったら、アルヴァロ様が前線に立つのよね。わたし、今まで、そんなことも想像できないでいたの。それに、街の人達は大丈夫かしら。アネカさんや、ラースキン伯爵夫人はどうしているかしら。それに、精霊達はどうなるの? お義母様は大丈夫かしら?」


「何かあれば、必ず国王陛下が通達を出されます。それまでは、皆、家の中で待機する感じだと思いますよ。精霊達は大丈夫です。彼らはいつでも、自分の姿を人から隠すことができますから。大奥様は……、ブルーベル様、いつでも連絡を取れるではありませんか? 邸内にも水盤は置いてありますので。ひとつは、アルヴァロ様の書斎にありますわ。お使いになりますか?」


「そうね、そうするかも」


 ブルーベルは押し黙った。

 その様子を見て、ミカはそっと立ち上がった。


「少し、ローリンさんに様子を聞いて参りますね。ご用がありましたら、いつでもお呼びください」


 ブルーベルは微笑んだ。


「ありがとう、ミカ。気を使わせてごめんなさいね。少ししたら、落ち着くと思うわ」


 廊下からユニコーンが入ってきて、ブルーベルの肩に、頭をこすりつけた。

 ブルーベルは、ぎゅっと、ユニコーンの首を抱きしめた。


「大丈夫よ、みんな、ありがとう……」

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