第54話 第四王女を連れてこい

 アルセスは床の上に投げたフィリスの夜着には目を向けず、ソファの上に置かれていた、厚地のガウンを取り上げた。


 裸のフィリスの肩に、そっと着せかけてやる。

 フィリスは、弾かれたように、ガウンに袖を通し、胸の前を固く合わせた。


「そなたも、気の毒な王女だな。嫁いだ先には、すでに寵愛されている愛妾がいたわけだ。それに……」


 アルセスは無邪気な様子で、ソファに腰を下ろす。


「そもそも、私は一番年若い王女、ブルーベルが良かったのだ。まさか、あのような事故に遭うとは、彼女も気の毒に……そなたもさぞ、心配だっただろう。大切な妹があんなことになって?」


 アルセスは何かを考え込むかのように、そっと暗い窓に視線を向けた。

 そこには、本人は気づいていないのだろうが、威厳も、誇りも投げ捨てて、不安が全身に溢れたような、頼りない様子のフィリスの姿が鏡のように映し出されていた。


「フィリス。名実ともに、私の妃となりたいと、そう思うか?」


 フィリスは弾かれたように顔を上げた。


「ど……うした……ら」


 涙に汚れた顔が、すがるようにアルセスに向けられる。

 その顔は、自分がかつての、人々の上に君臨する王女に戻れるためなら、何でもする、そう言っていた。


 アルセスはその愚かさを笑いたくなるが、優しくフィリスに言った。

 さも、大切な秘密を打ち明けるかのように。


「ブルーベルを連れて参れ。そうしたら、そなたを評価しよう……もちろん、スティラよりも、だ」


 ブルーベルを連れて来る?

 ブルーベルはすでに辺境の蛮族の元に嫁いだはず。

 彼女を連れてくるなんて、それが簡単なことではないのは、考えなくてもわかる。


 夫のその言葉に打ちのめされ、フィリスは再び、下を向く。

 しかし、同時に、かすかな希望もまた生まれたのを、アルセスは見てとった。


「フィリス、知っていたか……? スティラは、卑しい生まれの女、なのだ」


 アルセスはフィリスの耳に、毒を注ぎ込む。


「私と出会う前に、何人の男を受け入れたか、その数もわからぬほどの女なのだ。田舎の農村の出で、両親は農民だ。だが、あの女は、あの顔と体の美しさで、幾多の男に愛されて、頭角を現したのだよ。フィリス、あの女は、そなたの足元にも及ばぬ、卑しい女、なのだ。そんな女から、本来そなたが享受するはずだった地位を、取り戻したいとは、思わぬか……?」


 これで、フィリスが何をするか。

 面白いことになるだろう。


「皇帝の妃には、高貴な女がふさわしい」


 最後の言葉に、フィリスの顔つきが変わった。

 死んだようだった目に、生気が戻る。


 フィリスの寝室を出ると、皇帝は呟く。


「哀れな女だ」


 * * *


 チリンチリン、と侍女の控えの間に、フィリスが鳴らすベルの音が響いた。

 侍女アテナは、弾かれたように立ち上がる。


「フィリス様」


 ノックをして、フィリスの寝室に入る。

 フィリスは厚地のガウンを着て、ソファに座っていた。


「お風呂の用意をしてちょうだい」


 フィリスの言葉に、アテナはすぐさま動き出す。

 浴室のバスタブに、用意していた湯が注がれた。


 フィリスの入浴を手伝うアテナに、フィリスが尋ねた。


「騎士が一人、残っているでしょう。誰が残ったの?」

「ロイドでございます。一番の若手です」


 フィリスはうなづいた。


「話があるわ。あなたにもよ。明日、時間を作りましょう」


 フィリスは、ドレッサーの上に置かれた、黒水晶のペンダントを見つめた。

 いつも身に付けて離さない、この黒水晶は、イルメリアにもまだ見つかっていない。

 これから、これが役に立つ。


 フィリスは忌々しげに、腕にはめられた魔力封じの、赤い石がはめられた腕輪を見つめた。


 しかし、もし、本当にフィリスがブルーベルを連れ去るためにアルタイスへ送られるなら、この腕輪は外されるはずだ。


 チャンスはまだある。


(自分の人生を取り戻すのよ、フィリス・ノワール)


 フィリスは、ゆっくりと、暗い微笑みを浮かべた。




☆☆☆ここまでお読みいただき、ありがとうございます☆☆☆


 次話より、第4章 アルタイス精霊王国編がスタートします。

 最終章です! 舞台は再び、アルタイスへと移ります。

 フィリスはアルタイスに向かうのか?

 そして、ブルーベルの仮面の謎がついに明かされます……。


 引き続きお楽しみください♡

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